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2章 人間界に潜む異変に淫魔王は共闘を受ける。
1話 大学病院非常勤医師・秋山 諒(あきやま りょう)
しおりを挟む「どうですか?痛みの具合は」
「だいぶ落ち着きました。あの薬を飲んで、身体も動かし易くなって助かっています。本当に先生のおかげです。このご恩は一生忘れません」
黒いマットの診察台とデスク、薄型のパソコン、レントゲン写真確認のための蛍光灯が備えられたシャウカステンとどこにでもあるシンプルな診察室に赤い毛糸のニット帽を被り、糸がほつれた黒色のジャケットを着た初老の男が、目の前の白衣を着た青年に自身の体調を話しながら彼に極端な感謝を伝えている。
青年は目の前の彼の言葉とは裏腹に痩けた頬と生気がなく濁った黒い瞳、明らかに病気だとはっきりと分かる黄色の肌、椅子に座っているとなおも目立つ膨れ上がった腹部に内心不気味さと彼がこの先の予後が短いことを感じながら、パソコンに淡々と彼の様子を記録していく。彼の頬が痩けた様子と、診察前に測定してもらった血圧、体重、体温、酸素飽和度、内服している薬剤名、そして採血結果・・・とパソコンに入力している。
【O)定期的に来院。癌進行はステージ4。頬は痩せており、腹部膨満あり。体重48.0kg。酸素飽和度95%。血圧150/80mmHg。発熱なし。黄疸あり。HbA1c8.5。ALP800U/L。数カ所の臓器に転移あり。前回診察時、全身の疼痛訴え顕著のため内服処方していたが、現在は落ち着いているとあり。】
その内容は芳しくないことが分かる。パソコンに入力を終えると青年は彼に尋ねた。
「お薬が効いて痛みは落ち着いているようですが、検査の結果では入院が必要な状態です。すぐにでも入院できますが、どうでしょうか?」
すると初老の男は慌てふためいて青年の提案を拒否した。
「いやいやとんでもない。むしろ私は良くなっていると思っています。入院は勘弁してください」
「そうですか」
そう聞いた青年はパソコンで新たに【入院希望せず】と入力した。採血のデータやエコー検査からは前回入院した時よりも明らかに悪化していることが示唆されている。容貌から見ても今すぐにでも入院治療が必要なレベルではあるがこのステージだと対して治療効果もあまりないことも自分は知っている。
ならば、もう何も言うことはない。後は、自然な流れに任せるしかないだろう。
彼は当初独居老人として緊急搬送された患者だった。市の生活保護を受けていて、保護費支給日に全く市役所を訪れない彼を心配した担当のケースワーカーが自宅で倒れているところを発見しこの大学病院に搬送され入院した。検査の結果、末期の膵臓癌と判明したものの身寄りもおらず効果的な治療効果も見込めず、入院生活を嫌がった本人の希望で退院した。その後はケースワーカーが担当していたが、彼から体調不良として全身の痛みがあるとの申し出があり搬送されたこの病院を受診。治療効果は見込めないことは分かっていたためやむ無くこの緩和ケア科の診察を受け一月前からペインコントロール治療を受けていた。治療としては決まった時間に薬を内服するのみだが、病院嫌いな彼は当初自分よりも若く聡明な彼を見下し詰っていた。それよりも嫌々ながらも全身に襲いかかる苦痛に耐えきれず渋々内服すると痛みは落ち着き手の平を返したように彼にごますり今では大人しく定期的に受診する『良い患者』に変貌した。
彼のような患者は珍しくはない。むしろこういった患者が多いと思っている。彼のように社会から孤立した者が最期に縋る砦というのが病院だとこの業界に入って15年で得た自分なりの解釈だ。
「分かりました。それでは七日分同じ量で処方しておきますので、また七日後にいらして下さいね」
「はい。ありがとうございます」
男はゆっくりと立ち上がると覚束無い足取りで診察室を後にした。退室したのを見届けると、青年は近くで控えていた看護師に『いつもの』書類を持って来るよう指示を出しそれを受け取ると淡々と書類に必要事項を記入して看護師に渡す。すると向こうから言いづらそうに話しかけられた。
「先生、あの人、もう長くは・・・」
彼女の表情と言いたいことを察した青年は覚束ない足取りで退室した初老の彼の弱々しい背中を思い出すと、己の無力さを痛感しフウと溜息をつくと言った。
「彼が今内服している薬は去年認可された新薬だ。根本的な治療はもうできないとしても、彼にとってはこの薬が最期の生きる希望だ。入院を拒否している以上これくらいにしか、僕にはできることはない」
看護師も確かにと納得したように首を縦に振った。彼女は新薬の説明が記載されているパンフレットを見ると青年に言った。
「でもびっくりですよ。今までオピオイド鎮痛薬は役所に使用許可を出さないといけなかったのに、これは申請しなくても処方できるなんて。むしろ、今まで申請して許可が降りるまで時間がかかっていたのがあれはなんだったのっていうくらい画期的ですよ」
「確かにそうだ。僕もこれで膨大な書類から解放されてホッとしてるよ。患者さんからも評判がいいと聞くし」
「癌の疼痛に苦しむ患者さんにはメリットだらけですよね」
そう喜んで話す看護師は経験が豊富なベテランの女性だ。様々な科で研鑽を積み、今年緩和ケアのエキスパート認定を受けたと聞いている。彼女の言うように、今まで癌の痛みを緩和する薬を処方するには必ず保健所の申請が必要だった。日々多くの業務を遂行する医療従事者にとって役所を通さないと処方できない薬は手続きの煩雑さから敬遠するスタッフもいるが患者にとっては必要な薬と分かっていたため、時間を割いて申請書を作成していた。
だがこの薬は医師の判断一つで処方可能だという。これに医療者側の負担が軽減されるだけでなく、患者も簡単に使えるならば使用するに越したことはない。
認可が降りて本当に良かったと思う。
青年はカルテに表示されている薬の名前が記載されたパンフレットを取り出した。今まで癌による全身疼痛緩和のために処方された薬はいわゆる合法麻薬に該当するため、医療者側も慎重に判断して地域の保健所に申請し処方してきた。製造課程上合法麻薬と似た効果があるが、副作用が従来のものと比べて少なく管理が容易になるという。この大学病院の教授の肝入りで認可まで漕ぎつけた目玉商品だ。実績を積み重ねて医師会で効果を報告すればこの大学病院の権威は強固になるだろう。
結局得をするのは幹部の人間だけというわけだ。
・・・まぁ、外から来た自分にはどうでもいいことだが。
話を終えた青年は、次の患者の診察カルテを開いた。今までの治療過程をスクロールしながら患者にどういう治療が必要なのか口元に指を当てて確認していく。確認が終了した彼は、デスクにあるマイクで待合室で待機している患者の予約番号を放送した。
診察室の扉がノックされ開いた。入ったのは、白髪混じりの厚めのコートを着た品のある女性だ。疲労の色が顔に出ている彼女の様子を見ながら、青年は彼女に穏やかに問いかける。
「今日はどうですか?調子の方は」
「はい。実は・・・」
午前中の診察が終了した外来待合室は閑散としている。診察に入った同僚の医師が先に食事に行ったり、休憩時間中なのか、病院併設のコンビニ店で飲み物を買っている同僚もいる。または、病院貸し出しのPHSで病棟看護師から緊急の呼び出しを受けたのか慌ただしくエレベーターに乗り込む姿もあった。
それらを横目で他人事のように見ていた医師の秋山 諒(あきやま りょう)は、院内の食堂へ向かっていたところ、白衣のポケットに忍ばせた院内用PHSの呼び出し音に気付きボタンを押して耳に当てた。
「はい。秋山です」
『秋山先生ですか?梶原です。今診察中ですか?』
『いいえ、今休憩です。先生どうしました?』
連絡が来た相手は、院内の医局長を務める勤続10年以上のベテラン医師だった。半年前にこの大学病院の医局に入った諒は、非常勤医師として勤務している。電話の相手・梶原は申し訳なさそうに諒に言った。
「実は、先生に大学の講義のお願いをしたいのですよ。前任の先生が体調を崩されまして・・・一単位分の講義で構いませんので引き受けてくれないでしょうか?」
「ああ、はい。分かりました」
「ありがとうございます。詳しくは医局で説明しますので・・・」
「分かりました。失礼します」
諒はPHSを切ると白衣のポケットに仕舞い、速足で食堂へ向かう。彼は、10年前に失踪した弟を探して大学卒業後、医師として勤務した大学病院を8年間勤めた上で退職し、現在は縁もゆかりもないこの病院で医師をしている。駅のロータリーで発見されたという破壊されたスマートフォンと、どこかの会社の顔写真付きの社員証しか手掛かりがなく、深夜まで残業として会社に居残っていたという目撃情報を最後に彼に関する有力な情報は得られずにいた。
「(アイツ、今どこに居るんだよ・・・)」
出された定食を頬張りながら諒はスマートフォンを操作する。
数年前、有力な手掛かりが得られないことから警察が弟の捜索規模を縮小する連絡が来たのをきっかけに、両親は役所で死亡届を提出しようとした。そこを自分が止め、父親と大喧嘩を繰り広げた末、次の朝父親は意識がないままベッドで冷たくなったところを発見され死亡が確認された。警察による司法解剖が入った結果、心筋梗塞と分かり、クリニックは父の死去に伴い閉院となった。間もなく母も認知症を発症し、自宅では生活出来なくなったため半ば強引に施設に入所させた。たまに聞くスタッフの話では、母は他の入所者と楽しく過ごしているという。
残った問題は、亡くなった父親が開業医として使っていたクリニック兼自宅の売却だった。諒は、売却手続きをしている途中で初めて知ったのだが、父親は多額の負債を抱えていたのだ。その額は実家とクリニックを売却した金額を返済しても負債が残る程で亡くなった今はどんな事に使っていたのか全く不明のまま、長男である自分が働きながら返済していく事になった。
そういった事情があり、今は非常勤医師として他院で掛け持ちで働きながら返済している。一体いつになればこの借金地獄から解放されるのか、検討がつかなかった。
食堂で食事を摂った諒は、スマートフォンの返済残高を確認する。まだまだ完済には程遠い金額に力なく溜息をついた。
医局へ向かった諒は、医局長の梶原の説明を受けた後自分のデスクに山詰みとなったレポートに唖然とした。これは全て、前任の医師が受け持っていた学生のレポートだという。
まずは、この大量のレポートを評価し、単位を与えるかどうか決めて欲しいという。
説明を受けた時、医局長からは今期分だけでいいので入学した一期生の講義を受け持って欲しいと懇願され仕方なく快諾したが今思うともっと慎重になるべきだったと後悔の念が残る。
数年前に世界的に流行した感染症の影響からか、ここ数年で医学部入学を志願する者が右肩上がりに増加したという話は、どこかの医療雑誌で読んだことがあり、諒自身知らないわけではなかった。だが履修しなければならない必修科目の多さと膨大な知識量、さらには実地実習にかかる身体や精神への過度な負担から学年途中で退学または転学を余儀なくした学生も多いと聞く。
彼等はまだ良かった方かもしれない。まだ学生という身分で進路を変更してもやり直しが効くし、異業種の世界で数年働いてまた医学の道に興味が出て来れば選んでもいい。医学部も時代の流れに沿って労働の割には給料も先細りしているし、最近では医師の過労死が増加している。
前職で働いていた頃も過剰労働が原因で同期入局した医師数人が病気を患い退職せざるを得なかったところも見てきた自分にとって医師免許ほど使い勝手のいい使い捨てはないと思う。
一昔前は医師といえば高給与なんて短絡的に結び付いた時代は既に終わったのだ。利益優先思考が顕著になった病院経営者の方針で長時間労働が常態化している医学の世界に若いうちから骨を埋めるより、色々な選択ができる学生時代から医学以外の選択をしたことにむしろ賢明な判断だと諒自身は受け止めている。
問題なのは在籍している学生の方だ。
日本の医学部入学試験は世界と比較しても難易度は高いと聞いたことはあるし、実際自分が在籍していた医学部は男女問わず皆どこかの高校の成績上位者ばかりだったと記憶している。
だが・・・と諒は目の前の大量に積み重ねられたレポートの山を見て苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。
今添削しているレポートを見ていると誤字脱字はもちろん、中には課題として出された内容から逸脱したものもあるし、これネットのどこかで拾ってきただろと言わんばかりの盗作疑惑があるものまで自分が考え作成したものだと豪語して提出する始末だ。ちゃんと講義内容聞いてんのかと内心突っ込んでしまう。
本当にこれで入試に受かったのかと疑いたくなる程稚拙なレポート内容が目立ってしまい、諒の中で苛立ちが募り精神を落ち着かせようとゆっくりと息を吐いた。評価ゼロにして国語を一から学び直して来いと叩き返したくなる。
デスクに座ってレポートの評点に取り掛かっていた諒は、同じ表題で提出していて、内容も似たり寄ったりで、うんざりして目頭を押さえた。
「(やばい・・・眠い。アホみたいに似た内容ばっかだと疲れてしょうがない)」
それでも学生達が提出したレポートを、一枚一枚吟味して評点する。患者も看護師も同僚の医師もおらず一人で医局に篭って淡々と長時間作業をこなすのは、さすがに疲れてきた。次の学生のレポートを見て一旦休憩するかと思った途端、提出された学生の氏名を見て諒は疲労で溜まった目をカッと開いた。
「おい、嘘だろ、この名前・・・」
表題は他の学生と同じだ。それはいい。しかし、その提出した学生の氏名が問題だった。
自分と同じ『秋山』という名字。その隣に記載された名は、自分がこの10年探し続けた弟と同じ名だった。
諒は震える手で彰が提出したレポート内容を食い入るように見つめた。内容は可もなく不可もなくだ。別に評点を上げても問題はないだろう。それよりも同姓同名の別の人物という可能性もあるが、10年間一人で探し続けた人物と接点ができたことに感極まって身体が震えていた。借金を返済しながら手掛かりがない中で失踪した弟を探し続けるのは簡単なことではなかった。一度は後悔した代替講師の依頼だが、思わぬ収穫に内心喜びに満ちていた。だが諒は一つの疑問が湧いた。
10年も行方不明だった彼が、今までどこで生活していて、なぜ医学部に入ったのか。
諒は感極まりながらも、震える声で言った。
「今までどこにいたんだよ、彰・・・。それよりも・・・」
ーー生きていて、本当に良かった。
諒はスマートフォンを開いて依頼された講義の日程を確認する。次は来週だ。
それまではまだ会えないが、本当に探していた弟なのかまだはっきりしたわけじゃない。今は目の前の仕事を片付けるのが先だ。
緊張と弟かもしれないという歓喜に満ちた期待する心持ちを抑えながら諒は他の学生のレポートに目をやった。
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