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1章 統治者不在を知る淫魔王は人間界へ降下する。
4話 流川組中堅ヤクザ・田川 陽(たがわ あきら)
しおりを挟む人間界はこの数年、世界中で人々の嘆き悲しみ、虚しさからの慟哭が鳴り響きそれは彼等の日常を一変させた。
感染症が各国で流行し、海を隔てた島国とはいえ多くの罹患者、死者を出した日本も例外ではなく、感染予防を目的に様々な感染防止施策が取られた。
特に多くの学生と講師、教授たちが長時間同じ空間で過ごすことが多い大学では、無料の簡易検査を実施したところ両者共に罹患者を出し、休学に至った大学も発生する事態となり、授業ができないという異常事態に陥った。事の深刻さを痛感した政府は、大学に対して授業形態の変更を指示する事で罹患者を抑えた。未だに終息したとは判断できない時世ゆえ、大学は教室での対面授業の参加もしくはタブレット端末を利用した遠隔操作における授業参加、そのどちらかを選択することを学生に推進した。
すると思いがけないメリットが生まれた。
それは、現役の学生のみならず、社会人として就労経験のある学生がいつでも授業を視聴できるようになった。
この流れに乗った形で、次年度に入学した学生層に変化が生まれた。半分は高校を卒業した学生だが、残りの半分は今も就労している者、現役を引退した者、別の学部から入り直した者など様々なバッググラウンドを持つ社会人が占めるようになった年、秋山 彰(あきやま しょう)も大学生となった。
漆黒の空を仄かに半分欠けた月が照らす。
飲食店、風俗店が軒を連ねそれぞれ目立つよう派手なネオンを付け、店のスタッフが道行く人々に客引きをする繁華街・川島町の一角を彰は仕事帰りのスーツ姿の男女の間を鞄を抱えこみながらそそくさと目的の場所へ早歩きで向かっていた。
すれ違い様に香る鼻につく香水の匂いや、まだ19時を回ったばかりなのに既に出来上がっている酔っ払いから発する酒臭さに吐き気を感じ手で口元を抑えながら彰は信号を渡り、曲がり角のビル街へ向かった。
探している本屋がこの一角にしかないとはいえ、人がひしめき合う時間帯に向かうのは失敗したなと彰は先程の酒臭さから来る吐き気を抑えながら明かりのついていないビルで立ち止まり、講義中飲んでいたペットボトルの残りの水を飲み干した。
早歩きをして汗と、カラカラした喉の渇きが潤んでいく。同時に、あの不快な吐き気も流されて、気持ち悪さが治った気がする。
彰は鞄から蓋付きの古い銀時計を取り出し、現在時刻を確認する。
19:20。
蓋を閉じると、彰は時計を鞄に入れた。
まだアルカシスが待っているホテルへ行くには余裕がある。
大学の講義で遅くなることをアルカシスに伝えてから、彼から20時にホテルで待っていることを聞いたのは今日の昼頃の話だった。彼の秘書であり側近として古参の部類に入る淫魔・グレゴリーから彼も事情がありしばらく人間界へ降下すると連絡が入った。詳しいことは会った時に話すと告げられ、次の講義の予習で余裕がなかった彰は、さして詳しい事情は聞かなかったのだ。
「まだ、大丈夫。しばらく忙しくなるから、今のうちに買っておかないと」
早歩きでこめかみや首に溜まったジメッとした汗と長い黒髪で首に纏わりつく不快感を、背後から吹く春の夜風が当たると心地良い。
まだ4月の寒い時期になるが、今の彰には暑さを放散させるにはちょうど良かった。
今年度入学した秋山 彰(あきやま しょう)は、社会人枠という形で医学部に入学した。医師としてキャリアの長い高野 凪子(こうの なぎこ)のサポートも受けながら数年ぶりの受験勉強に勤しみ、何とか合格を勝ち取ったのが今年の春だった。
だが彰は、久々に降下した人間界の受験本番の日、信じられないと言わんばかりに西暦という項目に目を見張った。
『2032年 入学筆記試験問題』
一瞬驚いたものの、試験官の開始の号令と共に問題に集中した。受からないといけないのに、いちいち驚いている余裕はなかった。
結果は、合格。
知らせを聞いた彰は最後まで自分をサポートしてくれた凪子に感謝した。次にアルカシスにも彰は試験に合格したことを恐る恐る伝えた。
だが彼は『そうか』と言い、反対されるのではないかと身構えていた彰は拍子抜けしたのを覚えている。ポカンと口を開けて拍子抜けした彰を見て彼は『大丈夫だ』と頭を撫でた。
『君の好きなようにやりなさい。伴侶になった以上、私は君の行動まで制限するつもりはないよ』
『だけど、俺を支配するって・・・』
彰はアルカシスとパートナー契約に入る前、自分の婚姻衣装を着付けてくれた彼の言葉を思い出した。
『君は私の支配下から永遠に逃れることはできない』
そう言っていたのに、人間界に行って大丈夫なのか?
アルカシスは執務室に所蔵されている本の中から、新約聖書のように数ページが幾重にも重なった本を一冊取り出した。
『これは私達淫魔の規律を明記した本だ。人間界の法文書と同じものだと思ってくれていい。人間のパートナーを娶った淫魔王の規律が明記されている。これは厳格でね、規律違反が発覚すれば他国の王や部下達からその地位を剥奪され、最悪命を経たなければならない』
『そんなに厳しいんですか?』
彰の問いにアルカシスは頷くと、彼は本のページを捲りながら言った。
『君達人間の意思と命を守るためだ。昔は無秩序状態で、国によってパートナーに娶った人間の処遇は違っていて、彼等の中には精神を病み廃人となった。私達は過去の失敗を教訓として、パートナーとなった人間の意思の表出と尊重を何より大事にした。それを明記したのがこの本だ。後で君も読んでおくといい』
読んでおくといい。
そう言われた彰は、本に記された全く知らない文字の羅列を見て内心嫌そうに溜息をついた。なぜなら、これは人間界の古代文字で記されているからだ。
彼等淫魔の主要文字は、ラテン語らしい。
英語の原型文字と言われ時代が進むにつれて死語となり、今の時代の人間界で解読できる人材はいない。たいして英語も分からない彰には、見慣れない文字に振り回されて全く読む気にならなかった。
アルカシス様、今回だけ日本語に翻訳してくれないかな・・・?
彰が本の文字を見て苦い顔をしているところをアルカシスは可笑しそうに笑った。
『君はこちらでは一度も本を開いたことがなかったからね。いいよ、私が教えよう。君も覚えるにはいい機会だ』
『・・・日本語に翻訳してくれるというわけには、いかないですよね?』
『淫魔界には日本語はない。君もこちらで長く過ごせば自然と覚えていく。心配するな』
『・・・はい』
アルカシスとのやり取りを回想した彰は、重い溜息を吐いて人気のない路地を進んでいく。
すると目の前に数人の男達が中腰でたむろしているところに出くわした。そこには、巻いたアルミホイルをライターの火で炙ってその煙を恍惚な表情で吸引している者もいる。
その中で彰と視線が合った男の一人が立ち上がると、下品な笑みを浮かべて彰の全身を舐めるように視線を泳がせる。
「コンバンワ!日本人ノオジョサン」
男の一人が彰に近づく。日に焼けた肌に不気味な入れ墨を施した腕をチラチラ見せつけながら、恐怖で表情が固まっている彰に陽気に話しかける。
「オレ達、コワクナイ!オレ達ヤサシイ!」
表情を強張らせて、彰は来た道を戻ろうとする。
こいつら、やばい・・・!
マズイ。こんなやつらに関わったら、何されるか分からない。
振り返って走ろうとするが、テキストが入った重い鞄を咄嗟に落としてしまった。拾おうとしたところを男に腕を掴まれてしまう。そのまま肩に手を回されたむろしている男達の輪に連れて来られる。バタバタと男の腕を振り払おうとするが、完全に抑えられて全く振り解けない。
「はっ、離せ・・・!」
「オジョサンオレ達とタノシイ事シヨッ!コレ一発デヨクナル!」
仲間の男の一人が、一つの錠剤を彰の口元へ運んでいく。しかし、彼等の背後から発する殴る音と壁に激突する音、すぐに「グェェ!!」「ギョアッ!!」と下劣な悲鳴が飛び交い、バタバタと倒れた。悲鳴に気づいた男達は懐から黒光りする銃を取り出した。しかし、路地の奥から現れた上下白いスーツ姿の屈強な男を見た途端、男達は驚いて悲鳴を上げた。
「コ、コイツ田川ダッ!」
「流川組カッ!?」
「よぉ、これはこれはチャイニーズマフィアのお兄ちゃん達じゃないの。流川組のシマでなーにやってんのかなぁ?」
足元で苦痛に呻く男達を冷たい目で見下ろした田川は、凄まじい怒りを孕んだオーラをまだ立っている数人の男達に向ける。田川と呼ばれた男は、見るからに禍々しいオーラを発しているのが彰でも分かった。今まで陽気だった彼等が打って変って恐怖でビビっているのが分かる。目の前のスーツの彼を見ると、足がすくむ。
だが彰は、彼の左右に跳ねた藍色の短髪と眼鏡の風貌と田川という名前に覚えがあった。
「(まさか、田川って・・・)」
「シ、シネ!シネ!シネ!」
銃を持った男がビビりながら無尽蔵に発砲する。しかし、田川は難なく交わし、男との距離を詰めていく。
「クルナ!ク、クルナ!シネ!シネ!シネ!」
「照準がブレ過ぎてんだよ、馬鹿が。弾の無駄遣いだ。ウチのシマで・・・」
田川は銃を放つ男の目の前で足を止める。ビビりながら動けない男の前で構えると男の顔面に拳を放つ。
「カタギに手ぇ出してんじゃねぇよこのボケがっ!!」
「ゴブエェェ!!」
田川の拳が男の顔面に激しく放たれる。顔が陥没し、歯が数本折れてこぼれ落ちた男はそのまま事切れてしまった。
「ヒッ、ヒイィィィ!!」
彰を掴んでいた男は仲間の憐れな姿を見て愕然とし腰を抜かした。その隙をついて彰は離れると田川と呼ばれた男に声をかけられた。
「大丈夫か?悪いな怖い思いさせちまって」
「い、いや大丈夫。それより」
「あぁ、後はコイツ一人だ。終わったら店まで送ってやろう」
「み、店・・・?」
どうやら街の風俗嬢と間違えられているようだ。
腰を抜かしていた男は懐からナイフを取り出すと田川目掛けて突進する。
「シネコノゲス日本人ッ!!」
「あぁ?」
田川は彰を抱えると、ひらりと難なく男の突進を躱す。空すかしをくらった男はガクガクと身震いしながらも田川と彰目掛けて突進する。しかし、田川が寸でのところでナイフを止めた。
「グウウ・・・」
「おいおい、お兄ちゃん折角綺麗なお顔で国に帰れるチャンスだったかもしれないのに・・・流川組の田川にドス向けるたぁ、いい度胸じゃないの。死んどけゴミ野郎が!!」
「ブエェェ!!」
男の鳩尾に加速をつけて強烈な拳を打ち込んだ田川は、男が屈みながら地面に膝をつく直前壁に向かって回し蹴りを披露し、壁に強く叩きつけた。田川の蹴りでめり込むように壁に激突した男は、顔は陥没し歯がポロポロこぼれ落ちそのまま事切れてしまった。
「馬鹿が。ヤクなんざに手を出すからだ」
吐き捨てるように死んでいる男に言った後、田川はスーツからスマートフォンを取り出し電話をかける。
「オレだ。死体の処理をしておけ」
『了解致しました』
田川はスマートフォンを切ると後ろで唖然としている彰と向き合う。
状況が掴めなくて唖然としている彰に、田川は笑みを浮かべると彰の肩に手を置いて言った。
「怖がらせて悪いな。アンタ、見ない顔だがウチがケツ持ちしている店の子か?」
「たっ、田川・・・。お前、田川 陽(たがわ あきら)なのか?制服を改造して月に一回しか学校に来なくて、毎日喧嘩やってウチのクリニックに転がり込んでばあちゃんに叱られながら手当てを受けてたあのっ」
自分のフルネームと、過去突っ張ってきた恥ずかしい出来事を思い出した田川は、顔を掻きながら彰を凝視する。
「お前なんで俺の昔の事知ってんだよ。ついでに学校には月一じゃなくて二週間に一度だ」
「月ニしか通ってないくせに何言ってんだお前」
彰は後ろの伸びた髪を束ねると、身長差のある田川を仰ぎ見ながら言った。
「俺だよ、秋山 彰!高校で一緒だったろ。後お前が学校サボって喧嘩してた分のノート見せてやったの俺で、テスト勉強教えてやったのも俺だからな!覚えてるだろっ」
田川は信じられないと言わんばかりに目を見開いた。
まさか、目の前のマフィアに絡まれていた女は高校時代の友人だというのか。
「お前、秋山・・・秋山 彰なのか・・・!?」
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