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4話 払拭と約束
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「何ですって...!?」
侍女からの報告を聞いたイリシアーヌの母であり、トリーシャ国王妃のシエラは顔を引き攣らせた。そのままふらふらと倒れそうになるも侍女たちが彼女の身体を支えながらソファにゆったりと腰かけた。シエラはどうしたものかと頭を抱える。
未だ婚約者すら決まっていないイリシアーヌが、現在アダトが出征している国境沿いに交渉役として派遣されることが決定したというのだ。
「陛下は一体何を考えておられるの?そもそも、アダトに戦地でのことは委任するとおっしゃったじゃない...」
シエラは項垂れる。イリシアーヌは未だ婚約者すら決まっていない状態だ。一刻も早く嫁ぎ先を見つけなければならないというのに、よりにもよって戦地となっている国境沿いに赴くなんて...!
シエラは自分にかしずく若い侍女に命じる。
「すぐにイリシアーヌを連れ戻すのです。一体何を考えているの?あの子は未婚の淑女。あの子がまずすべきことは婚約者の選定です。それなのに、なぜあの子が戦地に行かなければならないの?」
報告を聞いて情緒が不安定となったシエラに若い侍女は恐る恐る進言する。
「あ、あの...王妃様、恐れながら先日の王室会議にて、第一王女殿下自らが、和平交渉に向かうとおっしゃったそうです。最近、殿下に政務補佐官という男性が就任しまして...お二人がご一緒に執務室で親しくされている姿を見たという方もいるらしく...。どうも政務官殿が、殿下に教鞭を取っておられたようで。その講義内容に殿下が危機感を覚え、直接ご自身が赴くとおっしゃったそうです...」
「なんということ...」
しどろもどろに報告する侍女に、予想していなかった出来事が起きていたことにシエラは唖然とする。
なんということだ。政略結婚の打診をしないといけないという段階前から臣下と親しくしているなんて...。そんな話が国外に知られれば、顔合わせることなく破談にされてしまうではないか。
「アダトが戦地での出征中にだけ、代理という形でも政務に携わらせたのがいけなかったのね...。これでは、ますますイリシアーヌが婚姻から遠退いてしまう...。そうなれば、トリーシャの行く末が暗転してしまう...」
「王妃様...?」
王妃が発した不審な言葉...。どういうことだろうか。
なんのことだろうと疑問に思った侍女は、不安定ながらも嘆く王妃に尋ねる。
「第一王女殿下が他国に嫁がなければ、トリーシャの行く末が暗転するって...」
どういうことですか?
そう尋ねる若い侍女の顔をシエラは顔を上げて見る。顔つきがイリシアーヌやエヴァと比べて幼さが残る彼女は成人は未だ先なのだろう。最近、自分を支えてきた侍女たちもイリシアーヌの結婚話を避けるようになり、何かと理由を付けては彼女がほとんどやってくれるようになった。それほど、侍女たちからも自分が煙たがられていたのだろう。幼さの残る顔立ちで自分を心配する侍女にシエラは虚しく笑みをこぼす。
「あなたのような若い侍女に心配されないといけないなんて、私も落ちぶれたわね...。本当に、情けないわ...」
「王妃様、大丈夫ですか?もうお休みになられては?」
「...いい。いいの。気を遣わせてごめんなさい。そういえばあなた、歳はいくつ?」
「今年で十四になります。私、両親が歳を取って生まれた子で、上の兄弟たちはみんな縁を切ってしまったので私が働かないと両親が生活できなくて...」
「そうだったの...。イリシアーヌやエヴァよりも、あなたは快活で私に尽くしてくれるから、てっきり育ちがいい子だと思っていたわ...。ちょっと待ちなさい」
シエラは彼女の事情を知ると、デスクに座り筆を取りさらさらと何かをしたためる。それを小さく折りたたむと彼女にそっと渡した。
「これを肌身離さず身につけておきなさい。もしトリーシャに何かあるか、私に何かあればすぐにこの国を出るのです。あなたのその快活さがあれば他国でも十分通用するはず。いいですね?決して私を心配して残ってはいけません」
「え、どうしてですか?王妃様に何かあったなんて...そんなこと、想像したくないですっ...」
動揺した彼女は自分に何か不手際があったのか涙を流す。しかし、シエラはそれをきっぱりと否定した。
「いいえ。あなたのせいではありません。これからこの国に暗雲が立ち込めるというなら、それは全て王妃である私の責任です」
「ど...どういうことですかっ...王妃様っ、あたし...何か不手際をっ...」
動揺する彼女にシエラは優しく手を重ねる。かつての十四の娘たちを見てきた彼女にしてみれば、この歳で自分に仕える彼女にも平穏に暮らして欲しいという親心に近い感情が先立つ。侍女は何も言わず、優しく手を重ねる主を見て首を傾げる。
「王妃様...?」
「ノエル...だったわね。いいですね?その書状は後々あなたの人生で必ず助けとなるはずです。絶対に手放してはなりません」
「は、はい...」
「それと、イリシアーヌが戻り次第すぐに私の私室に通すよう伝えるのです。一度下がって結構ですよ。もう一度、あの子に話さなければ...」
「かしこまりました」
シエラに渡された書状をノエルと呼ばれた侍女は小さく折りたたんだまま侍女のメイド服の懐にしまう。それから一礼した彼女は静かにシエラの私室を退室した。
「はぁ...」
一人になったシエラは、深く溜め息を吐いてソファに移動する。深く腰かけた後かつての幼少時のイリシアーヌやエヴァの姿を思い出した。特にイリシアーヌは自分が生んだヒト族始祖の最初の姫であったため、全てのヒト族から多くの祝福を受け、数年後にもう一度始祖姫のエヴァを生んだ時もさらに多くの祝いを受けた。彼女たちは成長すればする程、混じり気のない黒髪と青い瞳が美しく強調され将来を期待された。美しく成長した彼女たちは次代のヒト族繁栄のためにまたその子孫を生み育てていくだろうと。自分はその様子を穏やかに見守っていけばいいと思っていた。
だが、肝心のイリシアーヌは二十歳になってもその相手が見つからないままだ。未だに国に残り続ける始祖姫。それは、トリーシャに大いなる『災厄』を招く前兆であるとこの国に嫁いだ時伝え聞かされた。
【成人した始祖姫が未婚のまま残り続けることはトリーシャに大いなる災厄を引き寄せる前兆である】と。そう聞いた時、自分の娘がそれを引き寄せるかもしれないと考えが巡り心底恐ろしく身を震わせるしかなかった。だからこそ、イリシアーヌにもエヴァにも心を鬼にして十八歳になったら他国に嫁ぐことを延々と教えてきたのだ。それは単純に、政略結婚とはいえあの幼い侍女のように穏やかに生きてほしいという母としての純粋な願いからだった。そもそもトリーシャ王族は、特に女性は...生まれた瞬間から悲しい運命を課せられて生まれてきた。その運命から逃れられる方法が、他国に嫁ぐことしかない。それも全ては、創造神カオスの祝福のせいで...。
シエラは左右の指を絡め、祈るように呟く。
「無事で帰って来て。イリシアーヌ、お願い...」
『災厄』が、この国を覆い尽くす前に...。
トリーシャ王族に生まれたあなたが、悲しい運命に絡み取られる前に...。
ーー・ーー・ーー
「政務官」
「はい」
「これで...本当に良かったのよね...?」
小刻みに揺れる馬車の車内。イリシアーヌと彼女の政務補佐官エレボスは並んで座っていた。イリシアーヌは王室会議での自身の発言を思い出すと彼に不安げに尋ねる。始めて城の外に出るのが不安なのか、それとも国の今後を左右する重責を背負ったことによるプレッシャーからなのか...。膝の上に置かれた彼女の両手が筋張って手汗が滲み出ていて、緊張の度合いが強いことがエレボスには分かった。そんな彼女にエレボスは苦笑いを浮かべながらも彼女の発言を思い出し励ましていく。
「あなたがあの場でおっしゃったことに大きな意味があるのです。実際、六ヶ月という長期に渡る小康状態は現地にいる兵士の指揮を下げていました。守りの要である彼等を失うことは即ち国の敗北を意味し、ヒト族始祖の滅亡を意味します。大臣たちは事の大きさを重要視していらっしゃらなかったのは残念ですが...状況を急転させる。今のあなたにしか、できないことです」
「私にしか、できないこと...。だけど政務官、私外交も出たことがないのよ。そんな私が...」
「王女殿下。『できる』『できない』の問題ではありません。『やる』のです。まずは現地に赴くこと。これが先決です」
「政務官...分かっているわ。でも外交なんて私にできるの?国にためなんて言っても、始祖姫だからって私の話は聞いてくれるの?」
エレボスは彼女の後ろ向きな言葉に目を細める。今まで彼女の立場や他者からの評価から、信用に値すると思われていないのは彼女自身がよく分かっているのだろう。場数を踏んだことがない彼女には重責であることは間違いない。だが彼女には今回の件は乗り越えてもらわないと困る。場数を踏めば少しずつ自信が付いてくるだろうが、そのためには行動しなければ話にならない。今の彼女の様子では相手に足元を掬われ失敗するかもしれない。エレボスは自らの首にかけている赤い宝石が飾られた首飾りを取り出すと、イリシアーヌに「失礼します」といい彼女の首にかける。
「これは...」
「赤い宝石部分を握ってみてください」
言われた通りイリシアーヌは宝石を握る。彼女が握った途端、宝石が赤く光りだし彼女の身体が少しずつ解されていくのが分かった。もう少し握ると今度は心がリラックスした気分になる。温かく、隣に誰かがいる。その感覚が安心というものだとすぐに彼女は気づいた。
「これ...」
こんなに身体が落ち着くのか。
驚いたイリシアーヌは首にかけてくれたエレボスを見る。「落ち着きましたか?」と優しく尋ねると、首飾りについて説明する。
「それは私の母の形見の宝石です。私を生んですぐに亡くなったのですが生まれた私が強く生きられるようにと、この宝石を残したそうです。私も若い頃、あなたのように何の知識も技術も持たないまま前線に赴き和平を成立せよと命令されましてね。それが文官としての私の初戦でした。当時若輩者の私もあなたのように不安に押し潰されそうになった時この宝石が不安な心を吸い取ってくれたのです。今回は交渉に臨むあなたの力になってくれるでしょう」
「そんな大切な物なら簡単には使えないわ。私なんかが使うなんて...」
首飾りを外そうとするイリシアーヌの手をエレボスは優しく武骨な手を重ねて制止する。その時に彼が彼女を見る眼は...どこか愛しい者を見るような、慈しむ眼だった。その彼の眼にイリシアーヌは戸惑いを見せる。
「政務官...?」
「エレボスと、お呼びください。今から向かう先は戦地です。何があっても必ずあなたをお守りすると...この先も、ずっと...私に誓わせてください。そしてあなたも、私を信じてください」
「政務官...エレボス...」
自分を見つめる眼と、言葉に嘘偽りないことを証明するため自分の手の甲に優しく口付けるエレボスにイリシアーヌは魅入っていた。彼の人並外れた美しさに加えて、慇懃な立ち振る舞い、自分をこれほど大切に扱ってくれる実直さ。結婚という現実に目を背け続けたイリシアーヌは、ふと思った。
彼が、自分の夫として生涯共にいてくれることはないだろうか、と。
口付けたエレボスはイリシアーヌから離れる。現実に戻されたイリシアーヌは彼の言葉を受け入れる。
「エレボス...あなたを信じます」
「光栄でございます。王女殿下」
エレボスは彼女に首飾りをつけ直しながら説明する。
「今後のトリーシャの命運が別れる大事が控えていらっしゃるのです。母も始祖姫のあなたに力を貸してくれるでしょう。どうかお使いください。これが、必ずあなたをお守りします」
「ありがとうエレボス。終わったら、必ず返すわ」
礼を言ったイリシアーヌはもう一度赤い宝石部分を握る。国の命運が別れるというプレッシャーを、この石が吸収してくれるようだ。だからなのだろうか。自分の中で、大丈夫という自信が少しずつ育ってきている気がする。
トリーシャは、私が守る。それが国に残る王女としての自分のつとめ。
馬車は目的地に到着したのか、その進みを止めた。扉は開きイリシアーヌにとっては見知った顔の男が自分たちを出迎える。
「よぉ、イリシアーヌ。六ヶ月ぶりだな。反乱軍との交渉は明日だ。それまで、ゆっくりと休んでくれ」
「兄様っ!」
人目も憚らず、イリシアーヌは馬車から降りて皇太子であり兄であるアダトに抱きつく。アダトも「淑女がそんな幼稚なことをするもんじゃない」と諫めながらも、六ヶ月ぶりに再会できた妹を優しく受け止める。長引く戦時下において兄妹が再会を果たす裏でエレボスは穏やかな笑みを浮かべながら沸々と嫉妬心を激らせるのだった...。
イリシアーヌやエレボスがいるトリーシャ国は南側を海に面し、東、西、北を同規模の小国に国境を隣接する形で存在している。東側、西側、北側に隣接するそれぞれの国はヒト族始祖であるトリーシャの血の流れを組む民族であるが、歴史上戦争、内紛、思想対立を繰り返した結果、東側に他部族と交わって生まれた混血児たちが建国した国アッシュル、西側に始祖であるトリーシャの思想に反し独立した国ナダーシャ、北側にアッシュルの混血児とヒト族との間に生まれたクォーターたちの国ハニバルがあり、四国同士長年睨み合いをきかせている。
その中でもトリーシャが防衛面で重要視しているのが今回イリシアーヌとエレボスが向かうことになったウェーストエイドという街だ。この街はもともとヒト族とエルフ族の混血児が作った街であるが、歴史上重ねた侵略と併合を繰り返し、現在はトリーシャ国が統治する街となっている。もともとが混血児の作った街であるゆえ、純潔始祖のトリーシャ王族と考えが合わず、トリーシャの統治に長年不満を燻らせていた。そんな街に国王の命を受けて交渉役として派遣されたイリシアーヌとエレボスが到着した時にはすでに夕刻となっていた。
二人がウェーストエイドに到着したことに小規模の宴が開催された。だが移動で疲れてしまったイリシアーヌは先に休んでしまい、夜更けになった今はアダトとエレボスが軍の野営テントで酒を飲み交わしていた。野営テント内でランプを照らしながら酒を嗜むアダトは、妹の政務補佐官という人並外れた美丈夫の男に尋ねた。
「政務補佐官...だったか。お前、生まれはどこだ?」
「はい。北にあるケーオスという地です」
「ケーオス?北の最果ての土地じゃないか。なぜまた妹の補佐に?」
「私は母がトリーシャ王族と関係がある方でして、母が私を妊娠した時トリーシャ王族には世話になったと聞かされておりました。ケーオスでもトリーシャの状況は伝え聞いておりましたので、微力ながらお手伝いできればと思い...」
「それで今はイリシアーヌの補佐か...。だがあいつはまだ結婚が決まっていない身だ。むしろ、お前がトリーシャの政治に一大臣として登壇しなかったのか?トリーシャに恩があるなら、直接お前が大臣として父を支えればいい話だろ?」
アダトの問いに「そうしたかったのですが...」とエレボスは苦笑する。
「生憎大臣のポストに空きがなかったもので...。私のようなよそ者は後進として認めて頂けなかったのですよ。ただ、私は成人してから他国で様々な知見を積んできました。国王陛下からその知識を持って王女殿下の補佐をせよと命じられまして」
「だとしてもなぜイリシアーヌを派遣したんだ?あいつは嫁ぎ先を決めることが先決なはずだし、戦地は俺が何とかすると言ったはずだ。なぜあいつをここに引っ張り出した?」
「王女殿下がトリーシャの現状を憂いておられ、殿下たっての希望で派遣が決定したのです。もちろん、最終的な判断は国王陛下がなされました。事態は承知しておられますので、何としても解決策を見出したいと」
「あ、あいつが...?」
驚いて目を見開いたアダトの酒を飲む手が止まる。それから「ハハハ...」と虚しい笑いが溢れる。
「あいつらしいよな。私がやらないとって、妙に責任感持ってしまうところ...。あいつ、十八の時に一方的に婚約破棄されて、縁談に乗り気じゃなくなったってのは聞いていたが...。あいつは、俺たち三人兄妹の中で誰よりも大人の目を気にしていた。エヴァは十八になる前から事あるごとに母上と口論、俺は情緒が安定しない母と無関心な父が嫌になって戦地に行って...。婚約破棄になって誰もあいつの心に寄り添ってくれる奴って、いなかったんだよな...。それであいつ、結婚が嫌になったんだろうな」
酒が入りぺらぺらと話すアダトを見たエレボスは随分と饒舌な男だと思った。彼の話を黙って聞くと、もともと決められた婚約者からの一方的な婚約破棄はイリシアーヌの心に深い影を落としてしまった。それを、彼は分かっていたにも関わらず面倒くささからわざと彼女から遠ざかっていた。そして今回自身が決めて交渉役を願い出たのはこの面倒事を避ける兄の性格を知ってのことなのだろう。
やれやれ...とエレボスは内心呆れる。
(それならば、もう少し自分勝手で傲慢な娘の方が良かったかもしれん)
これからのことを考えると、計画を変更するべきか悩みどころだ。もう少し吟味する必要がある。
エレボスが熟考していると、アダトは空になったグラスを置きと立ち上がった。
「俺は、皇太子という肩書よりもあいつを守ってあげられなかったのが、情けねぇ...」
饒舌に話しながらふらふらと立ち上がるアダトにエレボスは尋ねる。
「殿下、水をお持ちしましょうか?少々酔われたのでは...」
「いや。明日は大事が控えているからな。俺はもう休む。お前も明日に備えて早めに休めよ」
「承知致しました。ごゆっくりお休みください」
それを最後に、アダトは自身のテントに向かった。一人残されたエレボスの背後に、すう...と何者かが入り込む。気づいたエレボスはその人物に尋ねる。
「反乱軍の守備はどうだ?」
「上々でございます。シヴァもいつでも来いと気合いを入れております。予定通り明日でよろしいので?」
「あぁ、このまま夜を明かす。彼女のせっかくの晴れ舞台だ。我々が影で支え、彼女には盛大な初戦を飾って頂く」
「承知致しました。イリシアーヌ王女殿下は、いかがですか?」
「うむ、そうだな...」
政務補佐官に就任し、彼女と始めて出会った日のことを思い出す。見た目は予想通りヒト族始祖の血が流れているのが分かる黒髪と青い瞳。他国からトリーシャの評判を聞けば迷信に近い物語を実話同然に信じきっている、対して見張るものが無い小国の一つ。なのに王族はさも真実と声高々に掲げて他の国を見下す鼻持ちならない傲慢な国と中々の酷評ぶりだ。
傲慢な気位の高い王女かと思っていたが、いざ対面すると本当に王女なのかと見間違う程の素朴な娘で少々面食らったくらいだ。生き物の清濁さを知らないで育った深窓の姫と言っていい。
他者に対する自信の無さ、大衆から向けられる批難の恐怖から無意識に自分に助けを求めてしまう打算の無い純粋な瞳を向けられ、つい保護欲を掻き立てられ彼女の前に出そうになるのを理性で制止しなければならない。王城内での大臣や国王からも政治の蚊帳の外にされているのは非常に都合がいい。あのように孤立していると自分色に染めて彼女にトリーシャ滅亡を先導してもいいかもしれない。真実に気づいた彼女の絶望に染まる表情も想像しただけで快感を覚えてたまらない。
イリシアーヌのころころ変わる表情を思い出しながらエレボスは自信の感情が彼女によって振り回されていることに気づき苦笑する。
国王や大臣と対立させ、必然的に自分しか頼りになる者はいないと思わせ少しずつ関係を築いていく現在の過程は楽しくて仕方ない。その一方、自分が発破をかけたとはいえ彼女の発言に自身の身を危険に晒していることの警戒感が育っていないのは困りものだ。そこは自分が傍で見守ってやればいい。トリーシャの政治に彼女が干渉することで混乱が生じる。今は影で彼女を支えていればいいのだ。
そう考えたエレボスはぼそっと呟く。
「うむ...これは中々...実に私の好みだ」
「おや?『好み』ですか?」
主の答えに、影から報告する部下のメーティスは珍しいと目を細める。彼から「順調だな」と評価する言葉を発すると思っていたが『好み』とは一体どういうことを指すのだろうか。知りたくなったメーティスはエレボスに尋ねる。
「その『好み』の意味を教えて頂けますか?」
「ーー両方だ」
「はい?」
メーティスは再度尋ねる。聞き返した彼にエレボスは妖しい笑みを浮かべた。
「私の指導によって政治に干渉しようとする彼女も、彼女本来の純粋さも...」
ーーそして、彼女の見た目そのものも...。
「全てが私『好み』の娘だ。イリシアーヌは...」
だからこそ、こんなに感情を揺さぶられる。魔族として長い時間を生きてきて、これは始めての経験だった。
口角を釣り上げ意味を理解したメーティスはエレボスに尋ねる。
「では、この機に乗じて王女殿下をお連れ致しますか?」
「まだその時では無い。もうしばらく信頼に足る政務補佐官を演じることにする。トリーシャには彼女の政治介入を王妃陛下筆頭に快く思っていない者が多数いる。今回はイリシアーヌの実績作りだけだ。城に戻ればまた政略結婚を急かされるだろう。だがそうなる前に王妃陛下にはトリーシャ滅亡の予兆の一つとなってもらう」
王妃陛下...その言葉にメーティスは「実はですね」ともう一つ報告する。
「王妃陛下に仕えるネイサンから報告ですが、王女殿下の戦地派遣が決定したことを知った際酷くお心を病まれていらっしゃると。よほどご心配なのでしょう。『無事で戻ってきて、イリシアーヌ』と私室で絶え間なく祈り続けておられるようです」
メーティスの報告を聞いたエレボスは、ふっと軽い笑みを見せた。
「なるほど。そういったことであればネイサンには引き続き王妃陛下のお傍に仕えるよう伝えろ。それと、私からささやかな贈り物として、彼女にカシュの実を送って差し上げろ」
「おやおや...。よろしいのですか?あれはヒト族には少々毒気が強い果実ですが...」
「王女殿下の嫁ぎ先が決まらなくて情緒が不安定な上に、政務補佐官といういらん虫までついているからな。ささやかながら虫からの見舞い品だ。あれは甘いジュースとして他の王族からは評判が良くてな。ついつい飲み過ぎて死者が続出し最終的に王族が不審な死を遂げて国が滅んだ程の好評の品だ。...少しずつ飲ませてゆっくりと死に導いてやれ」
「仰せのままに」
胸に手を当てて一礼したメーティスはすう...とこの場から消えた。一人残されたエレボスは誰もいないテントでククク...と静かに笑みをこぼす。
「さぁ...いよいよ明日です。頑張って和平を成立させましょうね、イリシアーヌ王女殿下」
侍女からの報告を聞いたイリシアーヌの母であり、トリーシャ国王妃のシエラは顔を引き攣らせた。そのままふらふらと倒れそうになるも侍女たちが彼女の身体を支えながらソファにゆったりと腰かけた。シエラはどうしたものかと頭を抱える。
未だ婚約者すら決まっていないイリシアーヌが、現在アダトが出征している国境沿いに交渉役として派遣されることが決定したというのだ。
「陛下は一体何を考えておられるの?そもそも、アダトに戦地でのことは委任するとおっしゃったじゃない...」
シエラは項垂れる。イリシアーヌは未だ婚約者すら決まっていない状態だ。一刻も早く嫁ぎ先を見つけなければならないというのに、よりにもよって戦地となっている国境沿いに赴くなんて...!
シエラは自分にかしずく若い侍女に命じる。
「すぐにイリシアーヌを連れ戻すのです。一体何を考えているの?あの子は未婚の淑女。あの子がまずすべきことは婚約者の選定です。それなのに、なぜあの子が戦地に行かなければならないの?」
報告を聞いて情緒が不安定となったシエラに若い侍女は恐る恐る進言する。
「あ、あの...王妃様、恐れながら先日の王室会議にて、第一王女殿下自らが、和平交渉に向かうとおっしゃったそうです。最近、殿下に政務補佐官という男性が就任しまして...お二人がご一緒に執務室で親しくされている姿を見たという方もいるらしく...。どうも政務官殿が、殿下に教鞭を取っておられたようで。その講義内容に殿下が危機感を覚え、直接ご自身が赴くとおっしゃったそうです...」
「なんということ...」
しどろもどろに報告する侍女に、予想していなかった出来事が起きていたことにシエラは唖然とする。
なんということだ。政略結婚の打診をしないといけないという段階前から臣下と親しくしているなんて...。そんな話が国外に知られれば、顔合わせることなく破談にされてしまうではないか。
「アダトが戦地での出征中にだけ、代理という形でも政務に携わらせたのがいけなかったのね...。これでは、ますますイリシアーヌが婚姻から遠退いてしまう...。そうなれば、トリーシャの行く末が暗転してしまう...」
「王妃様...?」
王妃が発した不審な言葉...。どういうことだろうか。
なんのことだろうと疑問に思った侍女は、不安定ながらも嘆く王妃に尋ねる。
「第一王女殿下が他国に嫁がなければ、トリーシャの行く末が暗転するって...」
どういうことですか?
そう尋ねる若い侍女の顔をシエラは顔を上げて見る。顔つきがイリシアーヌやエヴァと比べて幼さが残る彼女は成人は未だ先なのだろう。最近、自分を支えてきた侍女たちもイリシアーヌの結婚話を避けるようになり、何かと理由を付けては彼女がほとんどやってくれるようになった。それほど、侍女たちからも自分が煙たがられていたのだろう。幼さの残る顔立ちで自分を心配する侍女にシエラは虚しく笑みをこぼす。
「あなたのような若い侍女に心配されないといけないなんて、私も落ちぶれたわね...。本当に、情けないわ...」
「王妃様、大丈夫ですか?もうお休みになられては?」
「...いい。いいの。気を遣わせてごめんなさい。そういえばあなた、歳はいくつ?」
「今年で十四になります。私、両親が歳を取って生まれた子で、上の兄弟たちはみんな縁を切ってしまったので私が働かないと両親が生活できなくて...」
「そうだったの...。イリシアーヌやエヴァよりも、あなたは快活で私に尽くしてくれるから、てっきり育ちがいい子だと思っていたわ...。ちょっと待ちなさい」
シエラは彼女の事情を知ると、デスクに座り筆を取りさらさらと何かをしたためる。それを小さく折りたたむと彼女にそっと渡した。
「これを肌身離さず身につけておきなさい。もしトリーシャに何かあるか、私に何かあればすぐにこの国を出るのです。あなたのその快活さがあれば他国でも十分通用するはず。いいですね?決して私を心配して残ってはいけません」
「え、どうしてですか?王妃様に何かあったなんて...そんなこと、想像したくないですっ...」
動揺した彼女は自分に何か不手際があったのか涙を流す。しかし、シエラはそれをきっぱりと否定した。
「いいえ。あなたのせいではありません。これからこの国に暗雲が立ち込めるというなら、それは全て王妃である私の責任です」
「ど...どういうことですかっ...王妃様っ、あたし...何か不手際をっ...」
動揺する彼女にシエラは優しく手を重ねる。かつての十四の娘たちを見てきた彼女にしてみれば、この歳で自分に仕える彼女にも平穏に暮らして欲しいという親心に近い感情が先立つ。侍女は何も言わず、優しく手を重ねる主を見て首を傾げる。
「王妃様...?」
「ノエル...だったわね。いいですね?その書状は後々あなたの人生で必ず助けとなるはずです。絶対に手放してはなりません」
「は、はい...」
「それと、イリシアーヌが戻り次第すぐに私の私室に通すよう伝えるのです。一度下がって結構ですよ。もう一度、あの子に話さなければ...」
「かしこまりました」
シエラに渡された書状をノエルと呼ばれた侍女は小さく折りたたんだまま侍女のメイド服の懐にしまう。それから一礼した彼女は静かにシエラの私室を退室した。
「はぁ...」
一人になったシエラは、深く溜め息を吐いてソファに移動する。深く腰かけた後かつての幼少時のイリシアーヌやエヴァの姿を思い出した。特にイリシアーヌは自分が生んだヒト族始祖の最初の姫であったため、全てのヒト族から多くの祝福を受け、数年後にもう一度始祖姫のエヴァを生んだ時もさらに多くの祝いを受けた。彼女たちは成長すればする程、混じり気のない黒髪と青い瞳が美しく強調され将来を期待された。美しく成長した彼女たちは次代のヒト族繁栄のためにまたその子孫を生み育てていくだろうと。自分はその様子を穏やかに見守っていけばいいと思っていた。
だが、肝心のイリシアーヌは二十歳になってもその相手が見つからないままだ。未だに国に残り続ける始祖姫。それは、トリーシャに大いなる『災厄』を招く前兆であるとこの国に嫁いだ時伝え聞かされた。
【成人した始祖姫が未婚のまま残り続けることはトリーシャに大いなる災厄を引き寄せる前兆である】と。そう聞いた時、自分の娘がそれを引き寄せるかもしれないと考えが巡り心底恐ろしく身を震わせるしかなかった。だからこそ、イリシアーヌにもエヴァにも心を鬼にして十八歳になったら他国に嫁ぐことを延々と教えてきたのだ。それは単純に、政略結婚とはいえあの幼い侍女のように穏やかに生きてほしいという母としての純粋な願いからだった。そもそもトリーシャ王族は、特に女性は...生まれた瞬間から悲しい運命を課せられて生まれてきた。その運命から逃れられる方法が、他国に嫁ぐことしかない。それも全ては、創造神カオスの祝福のせいで...。
シエラは左右の指を絡め、祈るように呟く。
「無事で帰って来て。イリシアーヌ、お願い...」
『災厄』が、この国を覆い尽くす前に...。
トリーシャ王族に生まれたあなたが、悲しい運命に絡み取られる前に...。
ーー・ーー・ーー
「政務官」
「はい」
「これで...本当に良かったのよね...?」
小刻みに揺れる馬車の車内。イリシアーヌと彼女の政務補佐官エレボスは並んで座っていた。イリシアーヌは王室会議での自身の発言を思い出すと彼に不安げに尋ねる。始めて城の外に出るのが不安なのか、それとも国の今後を左右する重責を背負ったことによるプレッシャーからなのか...。膝の上に置かれた彼女の両手が筋張って手汗が滲み出ていて、緊張の度合いが強いことがエレボスには分かった。そんな彼女にエレボスは苦笑いを浮かべながらも彼女の発言を思い出し励ましていく。
「あなたがあの場でおっしゃったことに大きな意味があるのです。実際、六ヶ月という長期に渡る小康状態は現地にいる兵士の指揮を下げていました。守りの要である彼等を失うことは即ち国の敗北を意味し、ヒト族始祖の滅亡を意味します。大臣たちは事の大きさを重要視していらっしゃらなかったのは残念ですが...状況を急転させる。今のあなたにしか、できないことです」
「私にしか、できないこと...。だけど政務官、私外交も出たことがないのよ。そんな私が...」
「王女殿下。『できる』『できない』の問題ではありません。『やる』のです。まずは現地に赴くこと。これが先決です」
「政務官...分かっているわ。でも外交なんて私にできるの?国にためなんて言っても、始祖姫だからって私の話は聞いてくれるの?」
エレボスは彼女の後ろ向きな言葉に目を細める。今まで彼女の立場や他者からの評価から、信用に値すると思われていないのは彼女自身がよく分かっているのだろう。場数を踏んだことがない彼女には重責であることは間違いない。だが彼女には今回の件は乗り越えてもらわないと困る。場数を踏めば少しずつ自信が付いてくるだろうが、そのためには行動しなければ話にならない。今の彼女の様子では相手に足元を掬われ失敗するかもしれない。エレボスは自らの首にかけている赤い宝石が飾られた首飾りを取り出すと、イリシアーヌに「失礼します」といい彼女の首にかける。
「これは...」
「赤い宝石部分を握ってみてください」
言われた通りイリシアーヌは宝石を握る。彼女が握った途端、宝石が赤く光りだし彼女の身体が少しずつ解されていくのが分かった。もう少し握ると今度は心がリラックスした気分になる。温かく、隣に誰かがいる。その感覚が安心というものだとすぐに彼女は気づいた。
「これ...」
こんなに身体が落ち着くのか。
驚いたイリシアーヌは首にかけてくれたエレボスを見る。「落ち着きましたか?」と優しく尋ねると、首飾りについて説明する。
「それは私の母の形見の宝石です。私を生んですぐに亡くなったのですが生まれた私が強く生きられるようにと、この宝石を残したそうです。私も若い頃、あなたのように何の知識も技術も持たないまま前線に赴き和平を成立せよと命令されましてね。それが文官としての私の初戦でした。当時若輩者の私もあなたのように不安に押し潰されそうになった時この宝石が不安な心を吸い取ってくれたのです。今回は交渉に臨むあなたの力になってくれるでしょう」
「そんな大切な物なら簡単には使えないわ。私なんかが使うなんて...」
首飾りを外そうとするイリシアーヌの手をエレボスは優しく武骨な手を重ねて制止する。その時に彼が彼女を見る眼は...どこか愛しい者を見るような、慈しむ眼だった。その彼の眼にイリシアーヌは戸惑いを見せる。
「政務官...?」
「エレボスと、お呼びください。今から向かう先は戦地です。何があっても必ずあなたをお守りすると...この先も、ずっと...私に誓わせてください。そしてあなたも、私を信じてください」
「政務官...エレボス...」
自分を見つめる眼と、言葉に嘘偽りないことを証明するため自分の手の甲に優しく口付けるエレボスにイリシアーヌは魅入っていた。彼の人並外れた美しさに加えて、慇懃な立ち振る舞い、自分をこれほど大切に扱ってくれる実直さ。結婚という現実に目を背け続けたイリシアーヌは、ふと思った。
彼が、自分の夫として生涯共にいてくれることはないだろうか、と。
口付けたエレボスはイリシアーヌから離れる。現実に戻されたイリシアーヌは彼の言葉を受け入れる。
「エレボス...あなたを信じます」
「光栄でございます。王女殿下」
エレボスは彼女に首飾りをつけ直しながら説明する。
「今後のトリーシャの命運が別れる大事が控えていらっしゃるのです。母も始祖姫のあなたに力を貸してくれるでしょう。どうかお使いください。これが、必ずあなたをお守りします」
「ありがとうエレボス。終わったら、必ず返すわ」
礼を言ったイリシアーヌはもう一度赤い宝石部分を握る。国の命運が別れるというプレッシャーを、この石が吸収してくれるようだ。だからなのだろうか。自分の中で、大丈夫という自信が少しずつ育ってきている気がする。
トリーシャは、私が守る。それが国に残る王女としての自分のつとめ。
馬車は目的地に到着したのか、その進みを止めた。扉は開きイリシアーヌにとっては見知った顔の男が自分たちを出迎える。
「よぉ、イリシアーヌ。六ヶ月ぶりだな。反乱軍との交渉は明日だ。それまで、ゆっくりと休んでくれ」
「兄様っ!」
人目も憚らず、イリシアーヌは馬車から降りて皇太子であり兄であるアダトに抱きつく。アダトも「淑女がそんな幼稚なことをするもんじゃない」と諫めながらも、六ヶ月ぶりに再会できた妹を優しく受け止める。長引く戦時下において兄妹が再会を果たす裏でエレボスは穏やかな笑みを浮かべながら沸々と嫉妬心を激らせるのだった...。
イリシアーヌやエレボスがいるトリーシャ国は南側を海に面し、東、西、北を同規模の小国に国境を隣接する形で存在している。東側、西側、北側に隣接するそれぞれの国はヒト族始祖であるトリーシャの血の流れを組む民族であるが、歴史上戦争、内紛、思想対立を繰り返した結果、東側に他部族と交わって生まれた混血児たちが建国した国アッシュル、西側に始祖であるトリーシャの思想に反し独立した国ナダーシャ、北側にアッシュルの混血児とヒト族との間に生まれたクォーターたちの国ハニバルがあり、四国同士長年睨み合いをきかせている。
その中でもトリーシャが防衛面で重要視しているのが今回イリシアーヌとエレボスが向かうことになったウェーストエイドという街だ。この街はもともとヒト族とエルフ族の混血児が作った街であるが、歴史上重ねた侵略と併合を繰り返し、現在はトリーシャ国が統治する街となっている。もともとが混血児の作った街であるゆえ、純潔始祖のトリーシャ王族と考えが合わず、トリーシャの統治に長年不満を燻らせていた。そんな街に国王の命を受けて交渉役として派遣されたイリシアーヌとエレボスが到着した時にはすでに夕刻となっていた。
二人がウェーストエイドに到着したことに小規模の宴が開催された。だが移動で疲れてしまったイリシアーヌは先に休んでしまい、夜更けになった今はアダトとエレボスが軍の野営テントで酒を飲み交わしていた。野営テント内でランプを照らしながら酒を嗜むアダトは、妹の政務補佐官という人並外れた美丈夫の男に尋ねた。
「政務補佐官...だったか。お前、生まれはどこだ?」
「はい。北にあるケーオスという地です」
「ケーオス?北の最果ての土地じゃないか。なぜまた妹の補佐に?」
「私は母がトリーシャ王族と関係がある方でして、母が私を妊娠した時トリーシャ王族には世話になったと聞かされておりました。ケーオスでもトリーシャの状況は伝え聞いておりましたので、微力ながらお手伝いできればと思い...」
「それで今はイリシアーヌの補佐か...。だがあいつはまだ結婚が決まっていない身だ。むしろ、お前がトリーシャの政治に一大臣として登壇しなかったのか?トリーシャに恩があるなら、直接お前が大臣として父を支えればいい話だろ?」
アダトの問いに「そうしたかったのですが...」とエレボスは苦笑する。
「生憎大臣のポストに空きがなかったもので...。私のようなよそ者は後進として認めて頂けなかったのですよ。ただ、私は成人してから他国で様々な知見を積んできました。国王陛下からその知識を持って王女殿下の補佐をせよと命じられまして」
「だとしてもなぜイリシアーヌを派遣したんだ?あいつは嫁ぎ先を決めることが先決なはずだし、戦地は俺が何とかすると言ったはずだ。なぜあいつをここに引っ張り出した?」
「王女殿下がトリーシャの現状を憂いておられ、殿下たっての希望で派遣が決定したのです。もちろん、最終的な判断は国王陛下がなされました。事態は承知しておられますので、何としても解決策を見出したいと」
「あ、あいつが...?」
驚いて目を見開いたアダトの酒を飲む手が止まる。それから「ハハハ...」と虚しい笑いが溢れる。
「あいつらしいよな。私がやらないとって、妙に責任感持ってしまうところ...。あいつ、十八の時に一方的に婚約破棄されて、縁談に乗り気じゃなくなったってのは聞いていたが...。あいつは、俺たち三人兄妹の中で誰よりも大人の目を気にしていた。エヴァは十八になる前から事あるごとに母上と口論、俺は情緒が安定しない母と無関心な父が嫌になって戦地に行って...。婚約破棄になって誰もあいつの心に寄り添ってくれる奴って、いなかったんだよな...。それであいつ、結婚が嫌になったんだろうな」
酒が入りぺらぺらと話すアダトを見たエレボスは随分と饒舌な男だと思った。彼の話を黙って聞くと、もともと決められた婚約者からの一方的な婚約破棄はイリシアーヌの心に深い影を落としてしまった。それを、彼は分かっていたにも関わらず面倒くささからわざと彼女から遠ざかっていた。そして今回自身が決めて交渉役を願い出たのはこの面倒事を避ける兄の性格を知ってのことなのだろう。
やれやれ...とエレボスは内心呆れる。
(それならば、もう少し自分勝手で傲慢な娘の方が良かったかもしれん)
これからのことを考えると、計画を変更するべきか悩みどころだ。もう少し吟味する必要がある。
エレボスが熟考していると、アダトは空になったグラスを置きと立ち上がった。
「俺は、皇太子という肩書よりもあいつを守ってあげられなかったのが、情けねぇ...」
饒舌に話しながらふらふらと立ち上がるアダトにエレボスは尋ねる。
「殿下、水をお持ちしましょうか?少々酔われたのでは...」
「いや。明日は大事が控えているからな。俺はもう休む。お前も明日に備えて早めに休めよ」
「承知致しました。ごゆっくりお休みください」
それを最後に、アダトは自身のテントに向かった。一人残されたエレボスの背後に、すう...と何者かが入り込む。気づいたエレボスはその人物に尋ねる。
「反乱軍の守備はどうだ?」
「上々でございます。シヴァもいつでも来いと気合いを入れております。予定通り明日でよろしいので?」
「あぁ、このまま夜を明かす。彼女のせっかくの晴れ舞台だ。我々が影で支え、彼女には盛大な初戦を飾って頂く」
「承知致しました。イリシアーヌ王女殿下は、いかがですか?」
「うむ、そうだな...」
政務補佐官に就任し、彼女と始めて出会った日のことを思い出す。見た目は予想通りヒト族始祖の血が流れているのが分かる黒髪と青い瞳。他国からトリーシャの評判を聞けば迷信に近い物語を実話同然に信じきっている、対して見張るものが無い小国の一つ。なのに王族はさも真実と声高々に掲げて他の国を見下す鼻持ちならない傲慢な国と中々の酷評ぶりだ。
傲慢な気位の高い王女かと思っていたが、いざ対面すると本当に王女なのかと見間違う程の素朴な娘で少々面食らったくらいだ。生き物の清濁さを知らないで育った深窓の姫と言っていい。
他者に対する自信の無さ、大衆から向けられる批難の恐怖から無意識に自分に助けを求めてしまう打算の無い純粋な瞳を向けられ、つい保護欲を掻き立てられ彼女の前に出そうになるのを理性で制止しなければならない。王城内での大臣や国王からも政治の蚊帳の外にされているのは非常に都合がいい。あのように孤立していると自分色に染めて彼女にトリーシャ滅亡を先導してもいいかもしれない。真実に気づいた彼女の絶望に染まる表情も想像しただけで快感を覚えてたまらない。
イリシアーヌのころころ変わる表情を思い出しながらエレボスは自信の感情が彼女によって振り回されていることに気づき苦笑する。
国王や大臣と対立させ、必然的に自分しか頼りになる者はいないと思わせ少しずつ関係を築いていく現在の過程は楽しくて仕方ない。その一方、自分が発破をかけたとはいえ彼女の発言に自身の身を危険に晒していることの警戒感が育っていないのは困りものだ。そこは自分が傍で見守ってやればいい。トリーシャの政治に彼女が干渉することで混乱が生じる。今は影で彼女を支えていればいいのだ。
そう考えたエレボスはぼそっと呟く。
「うむ...これは中々...実に私の好みだ」
「おや?『好み』ですか?」
主の答えに、影から報告する部下のメーティスは珍しいと目を細める。彼から「順調だな」と評価する言葉を発すると思っていたが『好み』とは一体どういうことを指すのだろうか。知りたくなったメーティスはエレボスに尋ねる。
「その『好み』の意味を教えて頂けますか?」
「ーー両方だ」
「はい?」
メーティスは再度尋ねる。聞き返した彼にエレボスは妖しい笑みを浮かべた。
「私の指導によって政治に干渉しようとする彼女も、彼女本来の純粋さも...」
ーーそして、彼女の見た目そのものも...。
「全てが私『好み』の娘だ。イリシアーヌは...」
だからこそ、こんなに感情を揺さぶられる。魔族として長い時間を生きてきて、これは始めての経験だった。
口角を釣り上げ意味を理解したメーティスはエレボスに尋ねる。
「では、この機に乗じて王女殿下をお連れ致しますか?」
「まだその時では無い。もうしばらく信頼に足る政務補佐官を演じることにする。トリーシャには彼女の政治介入を王妃陛下筆頭に快く思っていない者が多数いる。今回はイリシアーヌの実績作りだけだ。城に戻ればまた政略結婚を急かされるだろう。だがそうなる前に王妃陛下にはトリーシャ滅亡の予兆の一つとなってもらう」
王妃陛下...その言葉にメーティスは「実はですね」ともう一つ報告する。
「王妃陛下に仕えるネイサンから報告ですが、王女殿下の戦地派遣が決定したことを知った際酷くお心を病まれていらっしゃると。よほどご心配なのでしょう。『無事で戻ってきて、イリシアーヌ』と私室で絶え間なく祈り続けておられるようです」
メーティスの報告を聞いたエレボスは、ふっと軽い笑みを見せた。
「なるほど。そういったことであればネイサンには引き続き王妃陛下のお傍に仕えるよう伝えろ。それと、私からささやかな贈り物として、彼女にカシュの実を送って差し上げろ」
「おやおや...。よろしいのですか?あれはヒト族には少々毒気が強い果実ですが...」
「王女殿下の嫁ぎ先が決まらなくて情緒が不安定な上に、政務補佐官といういらん虫までついているからな。ささやかながら虫からの見舞い品だ。あれは甘いジュースとして他の王族からは評判が良くてな。ついつい飲み過ぎて死者が続出し最終的に王族が不審な死を遂げて国が滅んだ程の好評の品だ。...少しずつ飲ませてゆっくりと死に導いてやれ」
「仰せのままに」
胸に手を当てて一礼したメーティスはすう...とこの場から消えた。一人残されたエレボスは誰もいないテントでククク...と静かに笑みをこぼす。
「さぁ...いよいよ明日です。頑張って和平を成立させましょうね、イリシアーヌ王女殿下」
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