【人魚と少年】キカの観察

りつ

文字の大きさ
上 下
1 / 1

キカの観察

しおりを挟む
 キカは淡水魚だ。
「涙は塩っ辛くっていけないけれど」
 つるりと尾ひれを振りながら、
「精液なら平気」
 そんなことを言う。水中で二度三度と回ってみせる。藻が浮いて緑がかった河の水。僕が毎朝汲んでくる。キカを釣り上げて以来の日課だ。
「ボクのお腹にかけてみる」
 キカのお腹は白くて滑らかだ。おへそはない。
「赤ちゃんができるかも」
 戯れ言だ。キカは雄でしょう、僕は取り合わない。するとキカは口を開ける。
「じゃあ此処に出してみる」
 乳白色の小さな歯は砂糖菓子のようだった。噛みついたらきっと脆く崩れてしまう。キカの唇は身体と同じでぬるぬるしている。そのぬるぬるが、弱いところを這ってゆくのは、きっと途方もなく心地良い。僕は静かに息を呑む。
「どうしてそんなものを欲しがるの」
「液体が内側を巡る感覚を、愛しているから」
 ものによって違うのだという。キカは微笑む。
「ボクはキミより遥かに多くの水で構成されているのだもの」
 僕の反応を伺うように首を傾げた。顕わな項(うなじ)を雫が滑ってゆく。
「……口付けはどう」
 僕にできるのは精々そのくらいのところだ。


 キカの水槽に鱗が幾枚か沈んでいた。褐色の鱗だった。キカに海水魚ほどの華やかさはないけれど、懐かしいような薄茶色を僕はとても好もしいと思っている。
「剥がれてゆくものなの」
「そうだね」
 キカの一部だったもの。硝子の底に横たわるそれが排水溝に流れてしまうなんて、あってはならない。
「僕にくれる?」
 キカは頷いた。身を翻して水底に潜り、そうっと鱗を拾った。まるで花摘みだ。僕は掌を、水を掬う形にして、待つ。
「そら」
 キカが何気なく放ってくるので慌てて手を伸ばした。
「ありがとう」
 鱗片は蛍光灯の下で幽かに煌めいた。
「新しいのが生えてくるの」
「今に見ておいで」
 キカの肌に並ぶ鱗はよく見ると所々欠けている。僕が貰ったこれだって、キカから離れたばかりなのだろう。
「栄養を摂らなくちゃいけないね」
(鱗は残らず標本にしよう)
「キスして。たくさん」
 キカは淡く誘う。


 キカがいなくなった。おはよう、キカ、水を換えようか、声を掛けたのに答えが無かった。生物が消えた水槽で澱んだ水ばかりが揺れている。僕はバケツを取り落とした。
 川水はキカに注がれることなく足下に広がってゆく。そのとき僕は床が既に湿っていることに気が付いた。濡れたものを引き摺ったような痕跡が水槽からドアの間に残っている。
「キカ」
 歪な形の鱗も点々と落ちていた。転がるように跡を辿った。
「キカ。キカ」
 廊下は耳鳴りがするほど静かだった。
 ――澄明なキカ。河に帰りたいかい。
 いつかの会話が蘇る。
 ――いいや。ボクはキミといる。
 居たい。すぐに言葉を直してくれた。キカの表情は穏やかだった。
(僕はキカに)
 キカの胴はみるみる細くなった。鱗が生え替わった様子は無かった。どんな美味しい食べ物を運んでも、運んでも、運んでも。
 それでも二度とキカが液体を欲しがることはなかった。
(僕はキカに、何をしてあげたら良かったんだろう)
 透き通るようなキカの存在を汚したくなかったのに。裏口を抜けて渓流へ、水跡はのたうって続いていた。
「生きてるの」
 裸足のまま河原を踏む。キカの姿は見えない。
「生きていて」
 僕はいつの間にか泣いていた。一瞬だけ、涙が河の流れに同心円を描く。
(塩味の水でキカは癒せない)
 けれど僕にはそれしか差し出せないのだった。



(了)
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

精霊の神子は海人族を愛でる

林 業
BL
海で生活し、人魚とも呼ばれる種族、海人族。 そんな彼らの下で暮らす記憶喪失の人族、アクア。 アクアは海人族、メロパールと仲睦まじく暮らしている。 ※竜は精霊の愛し子を愛でると同じ世界です。 前作を見ていなくとも読めます。 主役は別です。

性悪なお嬢様に命令されて泣く泣く恋敵を殺りにいったらヤられました

まりも13
BL
フワフワとした酩酊状態が薄れ、僕は気がつくとパンパンパン、ズチュッと卑猥な音をたてて激しく誰かと交わっていた。 性悪なお嬢様の命令で恋敵を泣く泣く殺りに行ったら逆にヤラれちゃった、ちょっとアホな子の話です。 (ムーンライトノベルにも掲載しています)

総受けルート確定のBLゲーの主人公に転生してしまったんだけど、ここからソロエンドを迎えるにはどうすればいい?

寺一(テライチ)
BL
──妹よ。にいちゃんは、これから五人の男に抱かれるかもしれません。 ユズイはシスコン気味なことを除けばごくふつうの男子高校生。 ある日、熱をだした妹にかわって彼女が予約したゲームを店まで取りにいくことに。 その帰り道、ユズイは階段から足を踏みはずして命を落としてしまう。 そこに現れた女神さまは「あなたはこんなにはやく死ぬはずではなかった、お詫びに好きな条件で転生させてあげます」と言う。 それに「チート転生がしてみたい」と答えるユズイ。 女神さまは喜んで願いを叶えてくれた……ただしBLゲーの世界で。 BLゲーでのチート。それはとにかく攻略対象の好感度がバグレベルで上がっていくということ。 このままではなにもしなくても総受けルートが確定してしまう! 男にモテても仕方ないとユズイはソロエンドを目指すが、チートを望んだ代償は大きくて……!? 溺愛&執着されまくりの学園ラブコメです。

乙女ゲームのサポートメガネキャラに転生しました

西楓
BL
乙女ゲームのサポートキャラとして転生した俺は、ヒロインと攻略対象を無事くっつけることが出来るだろうか。どうやらヒロインの様子が違うような。距離の近いヒロインに徐々に不信感を抱く攻略対象。何故か攻略対象が接近してきて… ほのほのです。 ※有難いことに別サイトでその後の話をご希望されました(嬉しい😆)ので追加いたしました。

捨て猫はエリート騎士に溺愛される

135
BL
絶賛反抗期中のヤンキーが異世界でエリート騎士に甘やかされて、飼い猫になる話。 目つきの悪い野良猫が飼い猫になって目きゅるんきゅるんの愛される存在になる感じで読んでください。 お話をうまく書けるようになったら続きを書いてみたいなって。 京也は総受け。

俺は北国の王子の失脚を狙う悪の側近に転生したらしいが、寒いのは苦手なのでトンズラします

椿谷あずる
BL
ここはとある北の国。綺麗な金髪碧眼のイケメン王子様の側近に転生した俺は、どうやら彼を失脚させようと陰謀を張り巡らせていたらしい……。いやいや一切興味がないし!寒いところ嫌いだし!よし、やめよう! こうして俺は逃亡することに決めた。

魔力なしの嫌われ者の俺が、なぜか冷徹王子に溺愛される

ぶんぐ
BL
社畜リーマンは、階段から落ちたと思ったら…なんと異世界に転移していた!みんな魔法が使える世界で、俺だけ全く魔法が使えず、おまけにみんなには避けられてしまう。それでも頑張るぞ!って思ってたら、なぜか冷徹王子から口説かれてるんだけど?── 嫌われ→愛され 不憫受け 美形×平凡 要素があります。 ※溺愛までが長いです。 ※総愛され気味の描写が出てきますが、CPは1つだけです。

腐男子(攻め)主人公の息子に転生した様なので夢の推しカプをサポートしたいと思います

たむたむみったむ
BL
前世腐男子だった記憶を持つライル(5歳)前世でハマっていた漫画の(攻め)主人公の息子に転生したのをいい事に、自分の推しカプ (攻め)主人公レイナード×悪役令息リュシアンを実現させるべく奔走する毎日。リュシアンの美しさに自分を見失ない(受け)主人公リヒトの優しさに胸を痛めながらもポンコツライルの脳筋レイナード誘導作戦は成功するのだろうか? そしてライルの知らないところでばかり起こる熱い展開を、いつか目にする事が……できればいいな。 ほのぼのまったり進行です。 他サイトにも投稿しておりますが、こちら改めて書き直した物になります。

処理中です...