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キカの観察
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キカは淡水魚だ。
「涙は塩っ辛くっていけないけれど」
つるりと尾ひれを振りながら、
「精液なら平気」
そんなことを言う。水中で二度三度と回ってみせる。藻が浮いて緑がかった河の水。僕が毎朝汲んでくる。キカを釣り上げて以来の日課だ。
「ボクのお腹にかけてみる」
キカのお腹は白くて滑らかだ。おへそはない。
「赤ちゃんができるかも」
戯れ言だ。キカは雄でしょう、僕は取り合わない。するとキカは口を開ける。
「じゃあ此処に出してみる」
乳白色の小さな歯は砂糖菓子のようだった。噛みついたらきっと脆く崩れてしまう。キカの唇は身体と同じでぬるぬるしている。そのぬるぬるが、弱いところを這ってゆくのは、きっと途方もなく心地良い。僕は静かに息を呑む。
「どうしてそんなものを欲しがるの」
「液体が内側を巡る感覚を、愛しているから」
ものによって違うのだという。キカは微笑む。
「ボクはキミより遥かに多くの水で構成されているのだもの」
僕の反応を伺うように首を傾げた。顕わな項(うなじ)を雫が滑ってゆく。
「……口付けはどう」
僕にできるのは精々そのくらいのところだ。
キカの水槽に鱗が幾枚か沈んでいた。褐色の鱗だった。キカに海水魚ほどの華やかさはないけれど、懐かしいような薄茶色を僕はとても好もしいと思っている。
「剥がれてゆくものなの」
「そうだね」
キカの一部だったもの。硝子の底に横たわるそれが排水溝に流れてしまうなんて、あってはならない。
「僕にくれる?」
キカは頷いた。身を翻して水底に潜り、そうっと鱗を拾った。まるで花摘みだ。僕は掌を、水を掬う形にして、待つ。
「そら」
キカが何気なく放ってくるので慌てて手を伸ばした。
「ありがとう」
鱗片は蛍光灯の下で幽かに煌めいた。
「新しいのが生えてくるの」
「今に見ておいで」
キカの肌に並ぶ鱗はよく見ると所々欠けている。僕が貰ったこれだって、キカから離れたばかりなのだろう。
「栄養を摂らなくちゃいけないね」
(鱗は残らず標本にしよう)
「キスして。たくさん」
キカは淡く誘う。
キカがいなくなった。おはよう、キカ、水を換えようか、声を掛けたのに答えが無かった。生物が消えた水槽で澱んだ水ばかりが揺れている。僕はバケツを取り落とした。
川水はキカに注がれることなく足下に広がってゆく。そのとき僕は床が既に湿っていることに気が付いた。濡れたものを引き摺ったような痕跡が水槽からドアの間に残っている。
「キカ」
歪な形の鱗も点々と落ちていた。転がるように跡を辿った。
「キカ。キカ」
廊下は耳鳴りがするほど静かだった。
――澄明なキカ。河に帰りたいかい。
いつかの会話が蘇る。
――いいや。ボクはキミといる。
居たい。すぐに言葉を直してくれた。キカの表情は穏やかだった。
(僕はキカに)
キカの胴はみるみる細くなった。鱗が生え替わった様子は無かった。どんな美味しい食べ物を運んでも、運んでも、運んでも。
それでも二度とキカが液体を欲しがることはなかった。
(僕はキカに、何をしてあげたら良かったんだろう)
透き通るようなキカの存在を汚したくなかったのに。裏口を抜けて渓流へ、水跡はのたうって続いていた。
「生きてるの」
裸足のまま河原を踏む。キカの姿は見えない。
「生きていて」
僕はいつの間にか泣いていた。一瞬だけ、涙が河の流れに同心円を描く。
(塩味の水でキカは癒せない)
けれど僕にはそれしか差し出せないのだった。
(了)
「涙は塩っ辛くっていけないけれど」
つるりと尾ひれを振りながら、
「精液なら平気」
そんなことを言う。水中で二度三度と回ってみせる。藻が浮いて緑がかった河の水。僕が毎朝汲んでくる。キカを釣り上げて以来の日課だ。
「ボクのお腹にかけてみる」
キカのお腹は白くて滑らかだ。おへそはない。
「赤ちゃんができるかも」
戯れ言だ。キカは雄でしょう、僕は取り合わない。するとキカは口を開ける。
「じゃあ此処に出してみる」
乳白色の小さな歯は砂糖菓子のようだった。噛みついたらきっと脆く崩れてしまう。キカの唇は身体と同じでぬるぬるしている。そのぬるぬるが、弱いところを這ってゆくのは、きっと途方もなく心地良い。僕は静かに息を呑む。
「どうしてそんなものを欲しがるの」
「液体が内側を巡る感覚を、愛しているから」
ものによって違うのだという。キカは微笑む。
「ボクはキミより遥かに多くの水で構成されているのだもの」
僕の反応を伺うように首を傾げた。顕わな項(うなじ)を雫が滑ってゆく。
「……口付けはどう」
僕にできるのは精々そのくらいのところだ。
キカの水槽に鱗が幾枚か沈んでいた。褐色の鱗だった。キカに海水魚ほどの華やかさはないけれど、懐かしいような薄茶色を僕はとても好もしいと思っている。
「剥がれてゆくものなの」
「そうだね」
キカの一部だったもの。硝子の底に横たわるそれが排水溝に流れてしまうなんて、あってはならない。
「僕にくれる?」
キカは頷いた。身を翻して水底に潜り、そうっと鱗を拾った。まるで花摘みだ。僕は掌を、水を掬う形にして、待つ。
「そら」
キカが何気なく放ってくるので慌てて手を伸ばした。
「ありがとう」
鱗片は蛍光灯の下で幽かに煌めいた。
「新しいのが生えてくるの」
「今に見ておいで」
キカの肌に並ぶ鱗はよく見ると所々欠けている。僕が貰ったこれだって、キカから離れたばかりなのだろう。
「栄養を摂らなくちゃいけないね」
(鱗は残らず標本にしよう)
「キスして。たくさん」
キカは淡く誘う。
キカがいなくなった。おはよう、キカ、水を換えようか、声を掛けたのに答えが無かった。生物が消えた水槽で澱んだ水ばかりが揺れている。僕はバケツを取り落とした。
川水はキカに注がれることなく足下に広がってゆく。そのとき僕は床が既に湿っていることに気が付いた。濡れたものを引き摺ったような痕跡が水槽からドアの間に残っている。
「キカ」
歪な形の鱗も点々と落ちていた。転がるように跡を辿った。
「キカ。キカ」
廊下は耳鳴りがするほど静かだった。
――澄明なキカ。河に帰りたいかい。
いつかの会話が蘇る。
――いいや。ボクはキミといる。
居たい。すぐに言葉を直してくれた。キカの表情は穏やかだった。
(僕はキカに)
キカの胴はみるみる細くなった。鱗が生え替わった様子は無かった。どんな美味しい食べ物を運んでも、運んでも、運んでも。
それでも二度とキカが液体を欲しがることはなかった。
(僕はキカに、何をしてあげたら良かったんだろう)
透き通るようなキカの存在を汚したくなかったのに。裏口を抜けて渓流へ、水跡はのたうって続いていた。
「生きてるの」
裸足のまま河原を踏む。キカの姿は見えない。
「生きていて」
僕はいつの間にか泣いていた。一瞬だけ、涙が河の流れに同心円を描く。
(塩味の水でキカは癒せない)
けれど僕にはそれしか差し出せないのだった。
(了)
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