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四話 ヴラド伯爵のご要望『幻の銘酒』
しおりを挟む蒼龍雷切とは、灘五郷の酒蔵で、幻の酒として極秘裏に製造されていると噂されている幻の酒である。蒼く見えるほど透きとおった清らかな酒で、口に入れた瞬間に雷を切るという名に相応しいキリッとした爽快感ある味わいかつ、後から口内にコメの深い甘みが広がるらしい。
噂には聞いたことがあるが、取り扱っている店など見たこともないし、製造方法はもちろん、実際どこの蔵で製造され、どうやって棚卸されているのかも秘密のベールで包まれている。
「幻の酒なんて胡散臭い情報、日本酒の事について聞くには……やはりあの人を頼るしかないな」
ドラクリヤ邸を出た後、僕はさっそく今日の午前中に会ったばかりのマスターのもとへ訪れた。ミックス呪酒に着いた時刻はちょうど正午ごろであった。
「あら、また会ったわね。お昼作ってるからちょっと待っててくれる。お腹すいてる? あんたの分も作ってあげようか?」
ミックス呪酒のマスターは、スナックの台所で昼食を作っている最中だった。屋敷を後にしてほっとしたからか、ひどく空腹を感じはじめたのでお言葉に甘えることにした。
「一人分も二人分も作る手間は変わらないからね。」
そう言ってマスターは台所に戻っていった。しばらくすると、ナポリタンが山のように盛られた鉄板を出してくれた。目玉焼きとウインナーまで添えてくれている。
「ありがとうございます。いただきます。」
少しぶよぶよしたナポリタンを、フォークにぐるぐると巻いて口に運んだ。ケチャップが多めに入っているからか、かなり甘めの味付けだったが、どこかほっとするような優しい味付けだった。
「それで、面接はどうだったの?」
「それがですね……」
僕は面接での出来事を、屋敷内の事や個人の情報に関わる事などは抜きにして、おおまかな内容を説明した。
「なるほど、それでさっそく私のもとに舞い戻ってきたわけね。」
「はい、幻の銘酒という事なので、マスターなら何かご存じかと……」
お世話なりっぱなしで申し訳ないのだが、他に頼れそうな人も思い当たらなかった。
「そうね。蒼龍雷切なら、入手できなくはないわよ。というか、一本くらいなら私の私物で封を切ってないのもってるし」
「えっ! 本当ですか」
「譲ってあげたいところだけど、さすがに高価なお酒だからねぇ。無料ってわけにはいかないわよ。」
「もちろんです。いくらお支払いすればいいのでしょうか。」
「お金なんていらないわよ。腐るほどあるもの。」
鼻につく言葉にも聞こえるが、マスターからはそういった感じはしなかった。ただ単なる事実を言ってのけたという感じだ。まぁ一人でこれだけ繁盛している店を切り盛りしているなら、収入は腐るほどあるのだろう。
「……では、どうすればいいのでしょうか」
「そうね、あんたって温泉好き?」
「はい、好きですよ。マニアというほどではないですが、同年代の中ではよく行くほうだと思います。」
「っじゃあちょっとお遣い頼まれてくれるかしら? 」
思いがけない要望であったが、それは単なるお遣いというわけではないらしかった。
「有馬温泉のます池でとれる、虹色マスを取ってきてくれるかしら?」
「有馬温泉のニジマスですか?」
神戸市民である以上、有馬温泉についてはもちろん知っている。そして、その近くにます釣りができる池がある事も知っていた。しかし、幻の銘酒と、ただのニジマスを交換するなんて、等価の交換とはとてもじゃないが思えない。
「普通のニジマスじゃないわよ。虹色マスよ? 見習い執事さんは、まだ若いから御存じないかしら?」
「すみません、勉強不足で」
「その名の通り、頭から尻尾にかけて、赤から紫にグラデーションのように色が変わっている魚よ」とマスターは教えてくれた。
「何だかインスタ映えしそうな魚ですね」
「何でも温泉街の神に愛されないと、釣れないらしいわ。残念ながら、私は潔癖症だから温泉嫌いなの。だからきっと温泉街の神にも嫌われてるから、私じゃ虹マスは釣れないの」
「なるほど、それを釣って持って帰ってこればいいという事ですね。しかし、温泉街の神とやらに寵愛されるほどの自信はないんですけど」
「有馬温泉の観光事務局の傍に、温泉神社というのがあるでしょ。そこに参拝したら、多少は温泉街の神からもご加護がもらえるんじゃない?」
「有馬温泉の全部の湯を巡って、おじさん達の出汁が出た湯を飲んで回るくらいしたら愛は伝わりますかね?」
「そうね。あんた真顔で冗談いうのやめてよ」とマスターは笑った。
「執事たる者、会話の中でジョークの一つを挟むくらいできるよう努力しないと」
「『日の名残り』のスティーブンスにでも憧れてるのかしら?」
「驚きました。よくわかりましたね」と僕は目を丸くした。マスターは結構本を読む人なのかもしれない。
「生真面目で、ジョークを言う才能が無い所まで、スティーブンスの真似をしようとしてるのかしら?」
「いえ、そういうわけではないんですが。ところで、何匹ほど持って帰って来ればいいのでしょうか?」と僕は尋ねた。
「こっちに流通することはないほど珍しい魚だからね。とりあえず、頑張って三匹くらい持って帰ってきてほしいわ。そしたら蒼龍雷切と交換してあげる」
「なるほど、わかりました。っでは、早速虹マスを釣りに行ってまいります」
そう言って、僕は席を立った。
「あら、もういっちゃうの? 執事さんは忙しいわね。一杯くらい飲んでいけばいいのに」
「ご主人様の要望に、スピーディーに応えるのが一流の執事です」
ナポリタンのお代を払おうとしたが、中国語で「ツァイ・ジェン(またね)」と言われ、やはり断られてしまった。礼を告げて店を出た後、生田神社前の地下鉄から乗車し、北神急行から神戸電鉄に乗り換え有馬を目指した。
午後の三時過ぎに有馬温泉へと到着した。土曜の午後ということもあり、温泉街は観光客でにぎわっていた。天気があいにくの曇天だが、それでも温泉街を行く人はみな幸せそうであった。
僕は温泉神社に参拝し、温泉への愛をしっかりと示すため、五百円を賽銭箱に放り込んだ。さすがに千円紙幣を投入する気にはなれなかった。
温泉神社への参拝が終わった後、ご加護が消えてしまう前にと、すぐさま有馬ます池を訪れた。受付で釣り料を支払い、釣り道具一式をレンタルして釣り池内に足を踏み入れた。家族連れの客、外国人観光客の姿が目立っており、みな黙々と釣竿を垂らしている。池の中央に架けられた真っ赤な橋を渡り、僕は端っこの木陰で釣りを始めた。
練り餌を長時間水でふやかした米粒くらいの大きさに丸め、針につけて池に放り込んだ。魚がかかるまで、ぼんやりと池の水面を眺めていると、午前中の怪異城での出来事が全て夢のように思えてきた。
「僕は一体、何してんだろうな」と独り言が口から出た時、それに呼応するかのように竿に当たりが来た。
釣り上げるのは簡単だった。リールを巻く必要もなく、ただ竿を立てて糸を手繰り寄せばそれで終わりだ。上手く釣り上げられたのはいいものの、残念ながらそれは普通のニジマスだった。針から外して、水の入ったバケツに普通のニジマスを放り込んだ。しばらくは泳ぎ続けていたが、やがてぷかっと力なく腹を上に向けて浮かんでいた。
「虹色マスなんて、本当にいるのだろうか」
その後、もう二匹釣り上げることに成功したが、どちらも普通のニジマスであった。マスターは良い人だから、嘘をついてからかっているとは思えない。しかし、頭が赤で尻尾にかけてグラデーションで紫に変わる魚なんて、僕の人生で見た試しはない。
一度竿を置いて、僕はます池の周囲を歩いて、他の人が虹色マスを釣っている人がいないか確かめに行くことにした。
さりげない様子で、家族連れの後ろを通り、彼らのバケツの中を覗いてみた。中には十匹ほどの魚がいたが、どれも普通のニジマスだった。その隣の外国人観光客のバケツも覗いてみたが、やはり全身虹のようなカラフルな魚は見当たらなかった。
池に架けられた真っ赤な橋の上で、虹色マスなんてそんな胡散臭いものは存在しないのではないか、と疑いつつ池の中を凝視していた時、「ちょっと失礼」と後ろから男性の声が聞こえた。池を凝視して虹色マスを探すのに夢中になっており、自分の身体が道を塞いでいることに気づかなかった。
「あっ、申し訳ありません」
謝罪の言葉をいいながら振り返ると、相手の姿を見て僕はぎょっとした。
橋の上には、小柄な老人が立っていた。驚いたのは、その老人の身に着けている服が、歴史の教科書で見た縄文時代とか弥生時代の人間の服を着ていたからだ。古めかしい恰好だが、おそらく絹でできた上等な白い服であった。長い髭も綺麗に整えられており、身分の高い神聖な雰囲気を醸し出していた。
「うん? どうかしましたかの?」
老人の風貌に、思わず凝視してしまっていた。慌てて目をそらすと、老人の手にバケツがあり、その中には色鮮やかな虹色の魚が入っているのが見えた。
「あっ! その魚って、もしかして虹色マスですか?」
驚いてバケツの中を覗きこんだ。バケツには計八匹の魚が泳いでいた。大きさはまちまちであったが、そのすべての頭が赤色で、尻尾が紫にグラデーションに変わっている虹色マスであった。
「そうじゃが、察するにお主は虹色マスを釣りにきたのかの?」と老人は見透かしたように尋ねた。
「はい、どうしてもその虹色マスが必要なのです」と僕はすがるような声で言った。何とかしてわけてはもらえないか、という気持ちを乗せた声だった。
「ふぅむ、これは今晩の晩の食事にしようと思っていたのじゃがな」
「そこを何とか、御願いできないでしょうか」
老人は左手で白い豊かなあご髭をなぞりながら、僕の姿をまじまじと眺めた。
「お主は、温泉に入ればまず何をする?」
唐突に脈絡ない質問をされ困惑したが、「かけ湯を浴びますが」と答えた。その後も老人は次々と質問を重ねてきた。
「まぁ、当然じゃな。っでは、浴槽内にタオルをつけたことはあるか?」
「子どもの頃に一度だけ、父に叱られて以来はやったことは無いです」
「そうか。まぁよかろう。っでは、洗い場において、シャワーでごまかしながら小便をした経験はあるか?」と老人は尋ねた。
「いや、さすがに公衆浴場ではないですよ」
「自宅の風呂では?」
「それは……たまにありますけど」
「正直者でよろしい」
一体僕は何を言わされているんだ、とだんだん腹が立ってきた。しかし、虹色マスを分けてもらう必要がある以上、僕は正直に質問に答えるしかなかった。その後も温泉の入り方のマナーやら、温泉クイズみたいな問題を出された。
「そうか、そうか。今時珍しい、ちゃんとマナーを守る温泉を愛する若者じゃの。お主を気に入った。どれ、半分ほど持って行くがよい」
「えっ、半分も頂いていいんですか?」と僕は驚いた。ただ老人の問いに答えていただけなのに、本当にいいのだろうか。
「まぁ賽銭を千円にしていたら、全部やってもよかったのじゃがな。五百円にけちったからの。半分だけじゃ」
「えっ、なぜそのことを知ってるんですか?」
「そりゃだって、温泉街の神とはこのわしのことじゃからの」
「……はい?」
「もしまた何かあれば、温泉神社まで参拝しにくるがよい。次はけちらずに賽銭をいれてもらえることを期待しとるよ」
そう言って、温泉街の神を名乗る老人は、僕の前から立ち去っていった。
虹色マスは、形は普通のニジマスだが、熱帯に生息する魚のように色鮮やかな虹色の身体をしていた。もらった四匹の虹色マスを、僕は鮮度を保つために氷締めにした。クーラーボックスに入れていた氷水の中に放り込むと、虹色マスは一瞬で絶命し、ぴくりとも動かなくなった。
四匹の虹色マスと、自分が釣った三匹の普通のニジマスが入ったクーラーボックスを大事に抱え、僕はミックス呪酒へと向かった。地下鉄を乗り継ぎ、ミックス呪酒に着いたのは夕方の四時すぎだった。東門街周辺は、夜に近づくにつれて人通りも増え、午前中よりも騒がしくなっていた。
「おかえりなさい。約束のぶつは入手できたかしら?」
ミックス呪酒のマスターは、危ない取引をする売人のようなセリフを口にした。店内は数名の客がおり、胡散臭さを徐々に放ち始めている。
「はい。無事に4匹持って帰ってきましたよ」と言って、クーラーボックスの中身を見せた。
「わお! 間違いなく虹色マスね。普通のニジマスも何匹か混じっているようだけど」
「普通のニジマスは僕が釣ったやつです。それが少し不思議な事がありましてね……」
カウンターに腰かけ、有馬ます池で起こった出来事をマスターに説明した。
「ふぅん。温泉街の神っていうんなら、まぁそうなんじゃない?」
マスターは、温泉街の神については特に興味を示さなかった。クーラーボックスの中の虹色マスを三匹素手で掴むと、「残りは持って帰りなさい」と僕に言った。
「いえ、マスターにはお世話になっているので、全部もらってください」
「いらないわよ。何なら、このお酒と一緒に伯爵にあげなさいよ。虹色マスは酒のつまみに最高だわよ」
そう言って、マスターは木製の高級そうな箱を取り出した。その中には金色の布が敷かれており、赤ん坊が毛布の上に寝かされているように、幻の銘酒「蒼龍雷切」がおさめられていた。
「これが噂の幻の銘酒ですか」
僕は恐々と受け取りながら、そう言った。
「高いのよ~。これ一升瓶だけで、社会人一年目の平均月収くらいすると思うわ」
「えっ? そんな高いんですか!」
ということは、おそらく二十万前後と言ったところだろうか。虹色マスが貴重なものだとしても、あの魚三匹とこれで等価交換になるのだろうか。
「ちなみに虹色マスも一匹で五桁はするから、心配しなくても大丈夫よ。お遣い代も踏まえたら、十分こっちの元はとれてるわよ」
それならまぁいいのだが、あの魚が一匹で数万円するというのも驚きである。
「それでは、今から屋敷の方に戻ります」
「そうね。もうすぐ暗くなっちゃうから、気を付けていっておいでよ」
「はい、ありがとうございます」
マスターの言う通り、昼間でも不気味であるというのに、夜にあの屋敷へ足を踏み入れるのは少々恐怖を感じた。マスターが風呂敷を貸してくれたので、それに蒼龍雷切を包んで、大事に抱えてタクシーに乗りこむ。
運転手に屋敷の住所を伝えると、「あんた、怪異城に行くのかい?」と驚かれてしまった。やはり僕が知らなかっただけで、あの屋敷はそこそこ有名らしい。
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