上 下
10 / 35
第2章

3. 莉己様降臨

しおりを挟む
「キュウちゃん、おはよう。お・は・よ・う」
 朱璃の朝の日課は、オウムのキュウに言葉を教えることである。「おはよう」の他に「おやすみ」や「いただきます」など挨拶から特訓している。鳥が話をするなど聞いたことが無いと馬鹿にする久遠や紫明を驚かせてやろうと頑張っているのだ。骨折した羽は経過良好で短い距離なら飛べるようになった。森に帰る日も近かづいて来ているのであせっているのだが残念ながらまだ一言も発していない。

「ボン、ボン君。おはよう。ほら、ワンて言ってみ。ワンワンッ。しゅりおはよう。ワン」
 そしてもう1匹。朱璃自身がボンが犬ではないかと未だ諦めきれず、ワンと鳴いて欲しいという願望からの練習である。
 うれしそうにブンブン尻尾を振るボンはすくすく育ち、柴犬くらいの大きさになった。足の太さから、もう少し大きくなる予感がする。こっちも残念ながらワンと鳴く気配すらない。

 しかし2匹は朱璃を癒してくれただけではなく、つれない同室者との円滑油の役割も果たしてくれた。
 ボンは相変わらず美琳メイリンのボンが大好きだし(さすがに大きくなったので上に乗ることはできないが、胸に顎を載せて枕代わりにしている)、キュウもきれいな花を白蓮に届けたりしている。(朱璃にはミミズを持ってくる)

「まだそんなことしているの。鳥が話すわけないじゃない。馬鹿みたい」
 何と美琳の方から絡んでくるようになり、内容はともかく朱璃はうれしくてならない。

 美琳は馬鹿と言われてもうれしそうな朱璃に少し怪訝そうな表情を浮かべた後、珍しく言いにくそうに切り出してきた。
「貴女、その、体の方は大丈夫なの。昨日、泥の御饅頭を食べたそうだけど」

 美琳が朱璃が受けている嫌がらせについて触れたのは初めてだった。
 紫明は美琳の手の内のものの仕業だと言っていたが朱璃は彼女の指示でやったとは思えなかった。気高いという形容詞がぴったりの美琳と幼稚な嫌がらせが結びつかないのだ。指示はしていないにしろ、身内がしたことに気が付いているのかも知れないが朱璃は言及するつもりはなかった。心配してくれているという美琳の変化の方が重要だったからだ。

「心配して下さってありがとうございます! 空腹にまずいものなし! おかげさまで全く問題ありません」

 ぽかんとした表情が一瞬幼く見え、この子本当に中学生なんだなぁと納得した朱璃は目を細めた。
(あれ?) 
 美琳に違和感を感じ朱璃は首をかしげたなんか違う……いつも美人さんだけど、今日は特に綺麗。ほんのり唇、輝いて?

「な、なによっ」
「美琳様、お化粧、されています?」
「はぁ!? いつもと同じよ」
「……」
 そうかなぁ。化粧はいいとして何で?首をかしげる朱璃になぜか睨む美琳。

「今日から劉師範の鍛錬が始まるからですわ」
 実は二人の会話を見守っていた白蓮がそっと助け舟を出す。

「……」
 だから何で?剣術の鍛錬だよね。
 理解できない朱璃はさらなる説明を白蓮に求めた。

「劉師範は数多い武官の中では時に人気が高いのですよ。理想の比率への調和による見かけ上類のない美貌だけではなく軍師としてもあの秦景雪様に並ぶと言われているお方ですから。それに独身ですし」

 ポッ赤面する美琳は可愛いが、それは置いておき朱璃は心の中で目を剥いていた。
(毒針の間違いちゃうか)

 朱璃の視線をどう勘違いしたのか美琳の顔色が変わった。
「失礼ね。私がそんな破廉恥で浮ついた考えを持つはずがないでしょ。無礼よ」

 美人が激怒すると恐ろしいが今は少し可愛いと思ってた朱璃は次の一言で椅子からころげ落ちた。それはもう、お笑い劇団も真っ青なほどにみごとにである。

「我が秀家は劉莉己様を婿として迎い入れることを宿望して居るのですわ」
「婿? 本気で、ですか?」
「当然の使命よ。遂げなくては価値が無いのも同然。私はそのためにここに来たのだから」

 美琳の言葉は本気なのだろうか。遂げなくては自分に価値が無いと言った彼女の顔。
……本気やな。
 あちらの世界の自分に重なった。家の為に自分にできることは政略結婚しかないと考えていた時の自分に。いや、武官の名門の娘という立場と近代社会の一家族を比べては語弊ごへいがある。想像できない位深くて重い使命。その重圧をたった14歳の少女が担っているというのか。
 しかも、相手は莉己さん……。何と声をかけてあげればよいのだろう。ご愁傷様です。いや違うな。

「心中お察しします」
 ようやく言葉を絞り出した朱璃に冷たい目を剥ける美琳。

「何だか失礼ね貴女。……ともかく、いつものように鍛錬の邪魔をすると許さないから。貴女のような女が劉様のお目の触れることすら嘆かわしい」
 最後はいつものように蔑むように朱里を睨むと部屋を出て行ってしまった。

 白蓮は朱璃に何も聞くなというように軽く掌を見せると背を向けてしまい、朱璃は複雑な心境をかかえたまま鍛錬所へ行くほかなかった。

 
「どうした。浮かない顔をして」
 なので鍛錬所へ行くとすぐに紫明に心配されてしまった。

「ううん。大丈夫」
 説明のしよう無い為言葉を濁す。紫明は怪訝そうな顔をしていたが何を勘違いしたのか「悪代官から必ず守ってやるから安心しろ」と肩をポンポンと叩いてきた。
 
「籐朱璃」
 朴久遠がやってき、挨拶そこそこに昨日の泥団子の犯人が退所処分になったと告げた。結局二人が証拠を押さえる前に処分されてしまったのだ。もちろん宗長官が動いたことは明白で、籐朱璃は守られたのだが単独犯として処分されたことは腑に落ちず不満の残る結果であった。
 
 朱璃は今朝の衝撃で泥団子の事はすっかり忘れていたので気の抜けた返事をしてしまい「お前、ほんとに図太いな」と呆れられてしまった。

 
 やがて定刻になり予告通り、莉己が剣術の師範として紹介された。朱璃は思わず、美琳をチラ見してしまったが、凛とした表情はいつもに増して精悍であり朱璃は一瞬にして平常心を取り戻した。第3者が気に病んでも仕方がないことだ。ぼやぼやしている余裕は自分にはない。しっかりしなければ!
 
 そんな朱璃の心中は知るはずもなく、紹介された劉莉己がゆるりと皆の前に立った。
「皆さん。初めまして劉莉己と申します」
 その美貌は背景にいつものように蝶や花々が咲き乱れており圧巻であった。

(さすが莉己さん。最強)
 周りを見ると皆ポワンと莉己を見つめたまま硬直しており、朱璃は思わず笑いそうになり慌てて口を閉じた。
 前に桃弥が一般人が間近で莉己を見ると魂が抜かれた状態になると言っていたのを思い出したからだ。まさに今その状態なのだろう。
 いっそうの事、魂が抜け、この一か月の疲れとストレスで傷つき荒んだ心が莉己によって浄化されればよいのになぁとその時は思っていた。

 
 小一時間後、朱璃は自分の考えが間違っていたことに気が付いた。さすが、景先生のお仲間である。
 彼はその千の軍も魅了すると言っても過言ではない笑顔で鬼のような訓練内容を用意してきたのだ。

「そういえば、そろそろ本格的な訓練が始まると言ってたなぁ」
 ここから毎年脱落者が出て、半数程度になってしまうとも言っていた。

「今からが本番だってことだ。お前体は大丈夫か」
 朱璃のつぶやきを紫明が聞き取り、そっと声を掛けてきた。
「ありがとう。大丈夫。脱落せんようにがんばりや」
「お前が言うな」

 その時後方から冷ややかな声が響いた。
「籐朱璃。もの足りないようですね。気が付かなく申しわけありません。腕たて50回、そうでした。貴女は腕立てはお嫌いでしたね。では、腹筋50回 ああ、足は挙げて下さいね」

 朱璃より紫明の顔が凍った。見ていたのなら2人に罰を与えているべきなのに。どうして朱璃だけに。

「申し訳ありません。劉師範。私が籐武官に声を掛けたのです。私が罰を受けます」
「発言を許した覚えはありませんよ。籐朱璃 50回追加します」
「……!」
「承知しました」

 莉己の冷たい視線から目を逸らすと朱璃はすぐさま腹筋を始めた。そして莉己との距離がある程度離れてから強張った表情の紫明に片目をつぶって見せた。
 実際100回くらいならどうってことはないのだ。演技だと分かっていても莉己の冷たい眼差しの方がよっぽど朱璃にダメージを与えたくらいだ。
 黙々と腹筋をする朱璃はシックスパックになっても披露できないのが残念だとか、もし水着になったら変態扱いか監獄行きかな等と呑気な事を考えていたのだが、劉師範の加虐性質を感じ取ったものは慄然としていた。

 罰を与えられた朱璃に対しては憮然とした表情を見せるもの、ざまぁ見ろというように馬鹿にし失笑するもの、さらなる過酷な訓練を予感し憐れむものとさまざまであった。
 そして一部のものが懸念していた通りに事態へ発展していく。

 「女武官だからといって特別扱いはしませんよ」と微笑んでいた劉師範は明らかに朱璃だけ目の敵にし、事あるごとにダメ出しをし罰を与えるようになったのだ。
 もちろん他の女武官にはそのような事はしない。どちらかと言えば甘い方で特に美琳はかなり気をよくしていた。



「足」
 突然右足を蹴られ、朱璃の重心がずれて勢いよく転倒する。今日はこれで3回目である。
「情けない」
 冷たい一言のみでアドバイスは全くない。周りは毎日続く劉師範の容赦ない仕打ちにドン引きであった。

「大丈夫か?」
 久遠が長官の目を盗んでヒョイっと朱璃をおこしてやる。剣を持った状態であまりにも勢いよくこけた為、擦過傷が額と上腕に出来ていた。
 朱璃は不意打ちとはいえあまりに見事にこけてしまうので自分でも情けなく肩を落としている。

「なんでこけるんやろ」
「蹴られたからだろ?」
「いや、久遠が同じように蹴られても、たぶんこけない」
 体格だけではない何かが違う。朱璃だけが莉己の仕打ちは苛めではないと確信していたので頭を悩ませていた。蹴られた側として解ることはそれほど力が掛かって入っていないという事。弱い力でこけてしまうのは軸足では無いからだ。軸足について思案したいところだがボーっとしていると一瞬のすきをついてまた手や足が飛んできてしまう。しかも次から次へと課題も与えられ息継ぐ暇もない。
 もちろん課題の多さは皆同じであり皆の顔からも笑顔が消えた。もう莉己に見惚れる者は誰もおらず、呼び名も女神から女王様に変わっていた。

 10日ほどたったある日の午後、朱璃が倒れてから起き上がれなくなってしまった。
2時間以上の走り込みの後、木の陰で嘔吐していたのを目撃していた者は朱璃が限界を迎えていると思わずにはいられなかった。
 人の数倍は課題が多いうえ、保険衛生係を任命され(最近はけが人、体調不良なものが多く泉李の手が回らない為発足された)大忙しなのだ。
 みなの健康管理を任されて張り切っている朱璃だったが、今の所不評である。自分以上に体調の悪そうな朱璃に「顔色が悪いですね。眠れていますか?食事はとれていますか?無理はしてはいけませんよ」などと気遣われる身になって欲しいと仲の良い久遠たちに訴えるものもいた。

「おやおや、水を持って来なさい。コップではありませんよ。バケツに一杯ですよ」
 劉師範が朱璃を見ながらそう命令した。

 誰もが息をのんだ。まさかと思ったが長官なら、十分あり得ると思い直す。
「長官! おやめください」
「今、水をかけるなんて彼女が死んでしまいます! 
「ふふっ。大袈裟な」
「どうして籐武官にだけひどい仕打ちをなされるのですか!」
 久遠と紫明が朱璃を守るよう前に立ちはだかる。その間健翔が朱璃の様子を診に行く。

「言葉を慎みなさい」
 あわてる次官が2人を制する為割って入ろうとしたがそれを邪魔し、付き人である琉晟が素早く劉莉己にバケツを渡した。

 莉己がバケツを片手に二人に近付く。
「そのような事を言われるなんて心外ですね。彼女を特別扱いした覚えはありませんよ。指導量が多いのは彼女が未熟だからに過ぎません。それに、強いて言うなら彼女の中にある甘えを取り除く手伝いをしているだけです」

「甘え?」

「ええ、女だからという甘えですよ。自分が特別だと分かっていて、それを利用し楽をしようとしていますからね」

「そんなはずありません。籐武官は一度たりとも女だからと特別扱いを望んだことはありません」

「ふふふっ どうしてそんなことがわかるのですか? 彼女は君たちが考えている以上にしたたかですよ」
 劉長官は笑顔でゆっくりと隊員たちを見渡した。いつもは見て見ぬふりをする連中もさすがにこの事態を重く感じたのか動きを停めている。

「弱音を吐かずじっと耐えいつも笑顔でいることで健気さを演出し、同情され助けてもらう。男はそんな娘に弱いですからね。実際君たちのようにまんまと彼女の策略に嵌まったものもいますよね。そもそも武家出身でもない娘が人のためになりたいからと武官を目指すなんていかにも偽善者ではありませんか? ふふふっ」

 美しい史上最強極悪非道長官は本当に楽しそうに笑っていた。

しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

一国の姫として第二の生を受けたけど兄王様が暴君で困る

恋愛 / 完結 24h.ポイント:220pt お気に入り:2,183

みなしご白虎が獣人異世界でしあわせになるまで

BL / 完結 24h.ポイント:35pt お気に入り:436

氷の軍師は妻をこよなく愛する事が出来るか

恋愛 / 完結 24h.ポイント:376pt お気に入り:3,679

自己肯定感の低い令嬢が策士な騎士の溺愛に絡め取られるまで

恋愛 / 完結 24h.ポイント:248pt お気に入り:2,607

夫に裏切られ子供を奪われた私は、離宮から逃げ出したい

恋愛 / 完結 24h.ポイント:163pt お気に入り:4,070

あなたの幸せを願うから

恋愛 / 完結 24h.ポイント:255pt お気に入り:1,015

[完結]王子に婚約を破棄されたら、完璧騎士様との結婚が決まりまして

恋愛 / 完結 24h.ポイント:369pt お気に入り:4,478

処理中です...