上 下
25 / 34
第3章 近づくほどに遠のく距離

[9] アルファであるということ

しおりを挟む
 外に出た冬呀の両手は震えていた。
 エマへの愛しさと保護本能で、半身である狼が献身を捧げたがっている。
 そんな想いを押し止め、冬呀は響夜と琅吾の元へと意思の力を総動員して歩き出した。
 自分の縄張りにエマが居ることで、半身である狼は冷静に頭を働かせることが出来ている。
 エマが魔女であることを、もはや狼も人間の部分も気にしていない。
 半身である狼が気にしているとすれば、それはーー彼女に触れられないという点だ。
 マリアが少し肌に触れただけで、記憶の放流に投げ込まれてしまうのなら、二人が肌を重ねた場合はどうなってしまうというのか。
 狼シフターである冬呀は、アルファとしてこれまで残酷と人々が言うであろう決断をしてきたし、群れを守るためなら両手を血にも染めてきた。
 後悔したこともない。
 相手は密猟者や動物虐待者だ。時には、犯罪者の時もある。
 完全なるブラックな人間たちであり、縄張りを奪おうとする別の群れのアルファだった。
 例外とするなら、マリアの兄弟を追い詰め悩みの種となっていた人間を殺したことだろう。けれど、調べによると他にも大勢の人間を追い詰め、時には自殺へと追いやっているようなクズだった。
 そして、そんな男の妻もまたクズだったのだ。
 思い出しただけでも、半身である狼が見えない敵に牙を剥き出し、攻撃的な唸り声を上げている。
 あの時、あと一歩で死を受け入れる所まで、間接的にマリアは傷つけられ、苦しめられた。
 今では吸血鬼である横溝レンに、感謝の念さえ抱いている。
 あの男がマリアを助け、その後も力になっていたのだ。
 冬呀が守れなかった間のーー
 ただ、マリアが吸血鬼になるという選択肢を選んだ時は肝が冷えた。
 人間が九十九パーセント近くの血を吸われ、吸血鬼の血を体に取り込むことによって吸血鬼になる。
 冬呀も知識として吸血鬼の存在は知っていたーーが、狼の姿になれないとしても狼シフターの血を色濃く継いでいるマリアが、吸血鬼になる為のプロセスを終えられていただろうか。
 噂でしかないが、人狼が吸血鬼に噛まれ血を吸われると、細胞レベルでの殺し合いが体内で起こり、死に至ると聞いたことがあった。
 おそらく異なる種が混ざらないようにする力が働くのだろう。
 その逆もまた同じ結果だ。
 だとしたら、あの時待っていたのは、終焉だったのではないだろうか。
 過去の深い思いに捕われていると、よく知る匂いが漂ってきた。

「どうした? 冬呀」

 顔を上げると、扉に寄り掛かるようにして待っていた琅吾は、押すようにして離れると冬呀を中へと通した。

「いや、何でもない。それで……話ってなんだ?」

 リビングのソファーに座っていた響夜は、難しそうな顔をしている。それだけで、嬉しい情報がないことが分かった。

「言われたとおり、研究所の防犯カメラの映像をハッキングしてみたが……今のところ収穫はない」

「そうか……」

 エマの予知が外れているとは、冬呀は思えなかった。

「なあ、魔女の予知は確かなのか? そもそも、本当に手を貸してくれるのか?」

 彼女を否定するような物言いに、冬呀の半身である狼は不機嫌そうに唸っている。けれど、人間の声帯を通して外に出なかったのは、相手が自分の右腕的存在だからだ。
 琅吾には、アルファである冬呀に面と向かって反論する権利がある。
 そして、冬呀がいない時や、冬呀が倒れた時には群れを纏められるのも琅吾しかいない。
 これが、ただの群れの仲間だとしたらアルファへの挑戦と見なして血を見ることになっていただろう。

「彼女は協力してくれている。自身の精神を犠牲にしながらな。俺は彼女の予知を信じる」

「わかったよ。そんなに怒るな、冬呀。お前らしくもない」

「先に言っておくが、彼女に対して……俺は冷静でいられない。発言には気をつけてくれ」

 冬呀の半身である狼は、神経質になっている。エマに悪意を抱くものを全てに攻撃を加えようとするように。

「まさか……あの魔女が伴侶だってんのか!」

 その言葉に何かが手綱を離れた。
 声荒く立ち上がった響夜の喉目掛けて、冬呀は腕を伸ばしていた。

「くそっ! やめろ、冬呀!!」

 後ろから羽交い絞めにされて、冬呀は唸り声を上げて暴れた。
 伴侶への侮辱は許されるものではない。エマが何者であっても。
 視界が色を失い、自分が理性を無くしているのが分かるが、どうにも止められない。

「響夜、さっさとこの場から離れて頭を冷やしてこい」

 琅吾の強い声に、ようやく自分が何をしでかしたか理解した。
 よろよろと立ち上がる響夜は、首の横を片手で強く押さえている。視界が正常に戻ると、指の間から零れ出る血が白いTシャツを真っ赤に染めていた。
 人間よりはるかに強いシフターだとしても、失血死しないわけじゃない。
 響夜が立ち去るのを見てから自分の手を見下ろすと、伸びた鈎爪の先から血が滴り落ちていた。

「琅吾……俺は」

「気にするな、冬呀。あれは、あいつが悪い。伴侶について悪く言う権利は、誰にもないんだ」

「だがっ」

「やめろよ。今は、とにかく手を洗って彼女のところに戻れ。どうせ、何の情報もないんだ。冷静になれるまで、オレが群れを纏めておくから」

 琅吾が力強い手で冬呀の肩を掴むのと同時に、女性の悲鳴が森の中に響渡った。
 何を考えるより早く、冬呀は家を飛び出し走り出した。
 苦痛の悲鳴を上げたのは、間違いなくエマだ。
 マリアの家の前にたどり着くと、二階の部屋へと迷わず階段を駆け上がった。

「エマっ!」

 扉が開け放たれていた部屋に入ると、ベッドに胡座をかき、両手で自分自身を抱きしめているエマが、体を前後に揺すっている姿が飛び込んできた。
 ベッドの横では、どうすることも出来ないでいるマリアが戸惑っていた。

「マリア……一体、どうしたんだ?」

「分からないの。あたしとファングは部屋の中にいなかったから」

 この状態が正常だとは、冬呀には思えなかった。
 
「ここは任せて、ファングを連れて部屋を出ろ。玄関の鍵を閉めて、誰も家に入れないようにしろ」

「でもっ」

「いいから行けっ!」

 アルファの響きを込めて言うと、ようやくマリアは動いた。
 扉は閉められ、部屋の中にはエマと冬呀の二人きりだ。
 部屋を横切って、ベッドに近づくと端に座って彼女の膝に触れた。

「エマ? 戻って来るんだエマ」

 次の瞬間、ぴくりと肩を揺らしたエマが襲い掛かってきた。アルファであり、狼である冬呀は攻撃の予兆に気づいていたが、エマのさせたいようにさせた。
 これが他の誰かなら、主導権を渡すのに抵抗があったかもしれないが、伴侶であるエマにそうするのに何の疑問も抱かなかった。
 されるがまま、ベッドに押し倒され彼女に腹部へ跨がられる。
 体は強張り、オオカミシフターである冬呀にとっては少し体温が低く感じる。
 胸の上に置かれた両手は強く握りしめられていて、俯いた顔は前髪に隠れていて見えない。
 
「エマ……いったい何を見てるんだ?」

 素肌に触れると、相手の過去や未来が見えてしまうというエマの言葉を信じて、冬呀は彼女のシャツの下に両手を滑り込ませて背中を撫で上げた。
 滑らかで吸い付くような肌の感触に、半身である狼が冬呀の中で外に出られない不満の唸りをもらす。
 いつかな。
 そう宥めて、接触を続ける。
 無意味かと諦めかけた時、エマが身じろいだ。

「……冬呀さん?」

「そうだ、エマ。戻ってこい」

 彼女の髪に鼻をこすりつけながら素肌を撫でていると、冬呀の胸の辺りにあった両手が上がってきた。
 意識を取り戻したと、ほっとしていたがーー。
 エマは膝立ちになって冬呀の首に両腕を回し、キスを求めてきた。
 戸惑っていると、彼女は冬呀の喉と顎にキスをして、自ら唇に重ねてくる。
 触れるだけのキスから始まり、口を開くように促すかのように下唇に歯を立てた。
 官能的な伴侶の誘いに、冬呀が抗えるはずもなく、撫でるように下ろした両手で腰を掴んで自らの膝に跨がらせた。
 その間も唇が離れる事はなく、滑り込んできた舌を迎えて絡ませ合う。お互いの唾液を混ぜ合う音を立てながら、冬呀はジーンズを押し上げる勃起に唸り声を上げた。
 すると、エマは柔らかく潤っているであろう足の間を擦りつけてくる。
 服の上から同士であるにも関わらず、その快感は今まで味わったこともないほどいい。
 このままでは、ジーンズの中で果ててしまいそうだ。
 男としてのプライドと、エマの中に入りたい欲求から彼女の腰を掴んで引きはがした。

「待ってくれ、エマ」

 きちんと結ばれていた髪が解け、ふわりと髪が顔の周りを隠す。
 その瞬間、半身である狼が警戒するように身構えたのを冬呀は感じとった。

「……エマ?」

 問い掛けてみると、彼女の雰囲気が一気に変わった。

「あらあら、狼のアルファは意外と堪え性がないのね」

 くすくすと笑う声は、エマの口から発せられているのに、どこか違うように聞こえる。

「誰だ……お前は」

「あたし? あたしはリマ。産まれなかったエマの双子の姉よ」
 
 妖艶に微笑んだ彼女ーーリマは、冬呀の膝から下りると軽やかに室内を歩き出した。

「母の胎内で、あたしはエマに取り込まれた。そして、思考だけが残った」

「そんな事が可能なはずがない」

 双子の片割れが死産で産まれることはあるだろうが、だからといって一つになるはずがない。
 
「無知な犬ころ」

 扉に背をつけたリマは、顎をツンッと上げて蔑むような目を向けてくる。見た目はエマのままで変わらないのに、驚くほど違って見える。
 何一つ、変わっていないのにだ。
 
「あたしは、いつだってエマが嫌なことに直面した時のためにいるのよ。この子は白魔女。どす黒い世の中に対応出来るようにはなっていないの」

「何か酷い予知をしたってことか?」

「そうよ。堪えがたいほどの痛みと冒涜をね。そこで、一つ提案があるんだけど」

「なんだ?」

 不思議なことに、冬呀に対する悪意は感じるがエマに対しては危険は感じない。
 冬呀は自分の本能を信じて、リマの話を聞くことにした。

「この子……エマをこれ以上つらい目に合わせたくないでしょ?」

「ああ、もちろんだ」

「だったら、あたしとセックスしない?」

 あまりにも突拍子もないことを言われて、言葉を失った。
 
「魔女は複数の可能性を持って生まれる。だけど、純潔を失う時に一つの能力に絞られるのよ。この子は白魔女。純潔を失えば、あたしの能力だった予知は失える」

「出来ない。エマの許可無しにはな」

「何? 予知能力を失われたくないって訳? シフターの子供を取り返すために、起きても消えないような悪夢を見続けろと?」

「違う。彼女の意思を無視して抱くのは、レイプと一緒だろ」

「そっ。なら、さっさと気持ちを確かめ合ってセックスしなさいよ。じゃないと、長く持たないわよ」

 挑発的に微笑むと、エマの体が力を失って冬呀へと倒れ込んできた。
 咄嗟に受け止め、抱き上げベッドに寝かせると、エマの鞄からスマートフォンを取り出して彼女の祖母へと連絡した。

「どうしたんだい、エマ。ずいぶん帰りが遅いじゃないか」

「悪いな、エマは俺といる」

 そう答えれば、電話の向こう側が不気味に静まり返った。狼の聴力が無かったら、すでに電話が切られたと思うかもしれない。
 
「どういうことだい、若造のアルファ」

「怒らないでやってくれ。エマは、子供を助けたいと思ってくれて、協力するために来てくれたんだ」

 ベッドに腰掛けると小さく軋んだが、エマは身じろぎもしない。これが嫌な兆候ではなければいいがと思いながら、相手の大魔女の様子を伺う。

「エマに変わっとくれ」

「悪いが、彼女は寝ている」

「遠回しな話はおよし。電話をかけてきたからには、何かがあったんだろう? エマは無事なんだろうね」

「俺には分からない。側にいなかったから」

「……どういう状況なんだい?」

「突然……エマであって、エマでない者になった。その彼女は、自分をリマと呼んで性的なことを求めてきた。今は、意識を失っている」

 エマが心配で、冬呀の中の狼は気が狂わんばかりに歩き回っている。
 祖母であり、大魔女である彼女なら何か分かるだろうと思ったから連絡したのだ。

「問題ないよ。すぐに目を覚ますさ。は、エマを傷つけたい訳じゃない。誰よりも護りたいと思っているんだよ」

「なら、どうして……あんなことをエマの許可なくしようとする?」

 さっきのリマの行動は、勝手にエマの体を弄ぶような行いに近い。
 喜んで話しにのる男もいるだろう。

が何を言ったか知らないが」

「長くもたないとは、どういうことだ?」

 気を失う直前、口にされた意味深な言葉が耳に残っている。

「……リマのことを知られてしまったなら、隠してもしかたがないね。誰もが予知能力や残留思念は使い放題の能力だと思っているだろ? だけどね、そんなモノはこの世にないんだよ」

「つまり、いつかは能力が無くなると?」

「違う。能力は伸びはしても、消えることはない」

「どういうことだ?」

「……エマは相手になって追体験する。相手の気持ちになって見て、聞いて、自分のことのように体験する。その時の場面や恐怖は、エマの中に根を張り、消化されることなく溜まっていく。続ければ続けるだけ、他人の感情や思考が溢れ出し……いずれ、エマという存在すら浸蝕して埋めつくすだろう」

 ゾッとする内容に、スマートフォンを握る手に力が入り、本体が軋む音がした。

「リマが肉体を手に入れるために、嘘をついているということは?」

「事実だよ。これまで存在した魔女の歴史と系統が記された『魔女録』にそう書かれている。それどころか、一つ前の大魔女が予知の魔女で、壊れていく彼女を見て育ったんだ。だから、関わらせたくなかった」

 つまり、冬呀のせいだということだ。
 冬呀に出会わなければ、シフターの行方不明事件に手を貸すこともなかったかもしれない。
 
「魔女の館は、エマを失う気はないよ。あんたも失いたくないと思うなら、これ以上関わらせるんじゃない。明日にでも、エマを送り届けな」

 あまりのショックに、相手が通話を終わらせたことにも気付かず、前のめりになり膝に両腕をついて呆然とするしかなかった。

 

 

しおりを挟む

処理中です...