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第1章 二つの心
[3] 目が覚めて
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『来ないで!』
息を弾ませながら、エマは暗い森の中を走っていた。
何度も後ろを振り返るせいで、落ち葉や石に足を取られ、何も履いていない足には血が滲んでいる。
なのに、痛みよりも、血の匂いで気づかれてしまうのでは、ということばかりが気になってしまう。
『だめ……もうっ』
そう思った直後、森の終わりに辿り着いた。
一瞬、暗闇に慣れた目には眩しすぎる光に、目の前が真っ白になり――。
★★★★★★★★★★★★
エマは飛び起きた。
まるで、全速力で走っていたかのように、心臓は早鐘を打っている。
着ているシャツは汗で張り付き、髪から汗が滴り落ちて、その冷たさに思わず身震いした。
そのおかげで、ようやく今見ていたものが夢の中でのことだと認識できて、少し青ざめている唇の間から安堵のため息が漏れる。
しかし、今に意識が向いた途端に――。
「うー、痛い」
一気に頭痛と目眩、軽い吐き気に襲われ、ゆっくりと体を倒して横になった。
この二日酔いになるから、普段は気を付けているというのに、今回だけは仕方がない。
こんなとき、普通の人なら薬を飲んでアイマスクをして寝てしまえば治るだろうが、エマの体には薬が合わない。
一日苦しむか、一階に下りて少しでも緩和させるために効果的なハーブティーを入れて飲むかの二者択一だ。
(うーん、少しでも緩和させたい)
そうは思っても、今日は動ける気がしない。
諦めて半日、じっとしていようかと考えていると、扉を遠慮がちに叩く音が聞こえてきた。
「はい、どうぞ」
扉の向こうに聞こえるようにと声を張ってはみたが、自分で出す声でさえ頭に響く。
慎重に体を起こし、エマは誰が入ってくるのかと待った。
すぐにガチャリッ、と音を立てて扉が開き、黒髪に鮮やかな青い瞳を持つヘレンが入ってくる。
手に持つトレーの上には、湯気の立つマグカップとマフィンがのっていた。それも、エマの大好きなチョコチップバナナマフィンだ。
そして、遅れて別の匂いに気がついた。
「ありがとう、ヘレン。あなたが淹れてくれたの?」
「ええ。あの方は、自分でやらせなさいと言っていたけど……昨日の様子からして、辛いんじゃないかと思って」
手渡されたマグカップをありがたく受け取り、エマは鼻を近づけて深く息を吸った。
「それにしても、あんなに酔うほど飲むなんて珍しい。何かあった?」
「……うん。ちょっとね。それより、私はどうやって帰ってきたの?」
心に負った傷の話はしたくなくて、エマは気になっていたことを聞くことにした。
なんせ、起きてしばらく経った頃から、頭の片隅では不思議に思っていたのだ。
「覚えてないの? あなたがチャイムを鳴らしたから外に出たのよ? まあ、その頃には寝ていたけど」
「……覚えてない」
記憶にあるのは、タクシーを拾おうとしていた所までだ。
その後の記憶は、さっぱりない。
「まったく……今回は無事だったからいいけど、今は何があるか分からないんだから、次から気をつけてね?」
「うん。それに、次はないと思うから大丈夫」
エマは、不思議そうな顔をするヘレンに気づかないフリをして、カップに口をつけた。
「まあ、聞かないでおくわね。でも、話したくなったらいつでも聞くから。聞いてあげることくらいしか出来ないけど」
「ありがとう、ヘレン」
飲み干したマグカップを渡すと、彼女は静かに部屋を出ていった。
従姉妹の中でも、一番仲の良いヘレンは、昔から人の感情に敏感で、優しい心の持ち主だ。誰かが自分を必要としていると直感的に分かるため、一番自分の能力が役に立つと、カウンセラーの仕事をしている。
昨日、何が原因で飲みすぎたのかってことも、彼女は知っている気がして落ち着かなかった。
仲は良いが、自然と知られたくない事があると、思わず身構えてしまう。
「もう少し眠ろうかな」
エマはまた横になり、ゆっくりと目を閉じて、何度か深呼吸を繰り返す。静まり返った室内には、彼女の呼吸する音だけが存在する。
徐々に心臓が落ち着きを取り戻し、もう少しで眠りに落ちるってときに――スマートフォンが鳴り出した。
(ああー、また頭痛が戻ってきそう)
早く音を止めたくて、ベッドから手だけを伸ばして床に置いてある鞄の中を探る。
すぐに固くて、振動しているスマートフォンを見つけた。
「はい……もしもし?」
「おはよう、エマちゃん」
相手が誰かも確かめていなかったため、聞こえてきた声に勢いよく体を起こした。
頭痛があることも忘れて……。
「おはようございます、莉良さん」
電話の相手である彼女――坂本莉良は、エマも参加しているドッグシェルター〈オアシス〉の代表で、センターに収容されたり、ブリーダー崩壊のためレスキューされた犬たちに第二の犬生が幸せであるように尽力している人だ。
「ごめんなさいね……起こしちゃった?」
「いえ、起きてましたから、大丈夫です。緊急事態ですか?」
莉良が電話してくるのは、緊急のレスキューがあった時だけに、ベッドの上でエマは姿勢を正した。
「今、三頭の大型犬をレスキューをしたから、シャンプーの助っ人に来てもらえる?」
その言葉に、エマは目を輝かせた。
「喜んで参加させてもらいます」
保護犬と関わるほど素敵なことはない。
もちろん、楽しいことばかりじゃないのが現実だ。虐待によって傷ついた子や、劣悪な環境に置かれていた子、理解しがたい理由で保健所に飼い主の手で連れて来られた子。
いつだって、悲しみと恐怖を浮かべる目を見るたびに涙が零れてしまう。
唯一、喜びを感じられるのは、新たな出会いによって第二の犬生を歩み始めた瞬間に立ち会えた時だ。
それがあるから、続けられるともいえる。
「何時くらいに行けばいいですか?」
「今、先生の所で一通り検査をしてもらってるから、十時くらいには準備が出来てると助かるわ」
「分かりました。すぐに行きます」
軽い挨拶を交わし電話を切ると、エマはクローゼットへと歩み寄る。
これから会うのは、二度洗いが必要な子達だろうと考え、黒いロングTシャツとジーンズに着替え、撥水加工の施されたエプロンを手に取った。
これで準備はできた。メイクなんて必要ない。
必要なのは、大丈夫だと安心させるための嘘偽りない笑顔だけで十分だ。
どんな状態の子が来ようと、動じないように気合いを入れて、エマは部屋を出た。
息を弾ませながら、エマは暗い森の中を走っていた。
何度も後ろを振り返るせいで、落ち葉や石に足を取られ、何も履いていない足には血が滲んでいる。
なのに、痛みよりも、血の匂いで気づかれてしまうのでは、ということばかりが気になってしまう。
『だめ……もうっ』
そう思った直後、森の終わりに辿り着いた。
一瞬、暗闇に慣れた目には眩しすぎる光に、目の前が真っ白になり――。
★★★★★★★★★★★★
エマは飛び起きた。
まるで、全速力で走っていたかのように、心臓は早鐘を打っている。
着ているシャツは汗で張り付き、髪から汗が滴り落ちて、その冷たさに思わず身震いした。
そのおかげで、ようやく今見ていたものが夢の中でのことだと認識できて、少し青ざめている唇の間から安堵のため息が漏れる。
しかし、今に意識が向いた途端に――。
「うー、痛い」
一気に頭痛と目眩、軽い吐き気に襲われ、ゆっくりと体を倒して横になった。
この二日酔いになるから、普段は気を付けているというのに、今回だけは仕方がない。
こんなとき、普通の人なら薬を飲んでアイマスクをして寝てしまえば治るだろうが、エマの体には薬が合わない。
一日苦しむか、一階に下りて少しでも緩和させるために効果的なハーブティーを入れて飲むかの二者択一だ。
(うーん、少しでも緩和させたい)
そうは思っても、今日は動ける気がしない。
諦めて半日、じっとしていようかと考えていると、扉を遠慮がちに叩く音が聞こえてきた。
「はい、どうぞ」
扉の向こうに聞こえるようにと声を張ってはみたが、自分で出す声でさえ頭に響く。
慎重に体を起こし、エマは誰が入ってくるのかと待った。
すぐにガチャリッ、と音を立てて扉が開き、黒髪に鮮やかな青い瞳を持つヘレンが入ってくる。
手に持つトレーの上には、湯気の立つマグカップとマフィンがのっていた。それも、エマの大好きなチョコチップバナナマフィンだ。
そして、遅れて別の匂いに気がついた。
「ありがとう、ヘレン。あなたが淹れてくれたの?」
「ええ。あの方は、自分でやらせなさいと言っていたけど……昨日の様子からして、辛いんじゃないかと思って」
手渡されたマグカップをありがたく受け取り、エマは鼻を近づけて深く息を吸った。
「それにしても、あんなに酔うほど飲むなんて珍しい。何かあった?」
「……うん。ちょっとね。それより、私はどうやって帰ってきたの?」
心に負った傷の話はしたくなくて、エマは気になっていたことを聞くことにした。
なんせ、起きてしばらく経った頃から、頭の片隅では不思議に思っていたのだ。
「覚えてないの? あなたがチャイムを鳴らしたから外に出たのよ? まあ、その頃には寝ていたけど」
「……覚えてない」
記憶にあるのは、タクシーを拾おうとしていた所までだ。
その後の記憶は、さっぱりない。
「まったく……今回は無事だったからいいけど、今は何があるか分からないんだから、次から気をつけてね?」
「うん。それに、次はないと思うから大丈夫」
エマは、不思議そうな顔をするヘレンに気づかないフリをして、カップに口をつけた。
「まあ、聞かないでおくわね。でも、話したくなったらいつでも聞くから。聞いてあげることくらいしか出来ないけど」
「ありがとう、ヘレン」
飲み干したマグカップを渡すと、彼女は静かに部屋を出ていった。
従姉妹の中でも、一番仲の良いヘレンは、昔から人の感情に敏感で、優しい心の持ち主だ。誰かが自分を必要としていると直感的に分かるため、一番自分の能力が役に立つと、カウンセラーの仕事をしている。
昨日、何が原因で飲みすぎたのかってことも、彼女は知っている気がして落ち着かなかった。
仲は良いが、自然と知られたくない事があると、思わず身構えてしまう。
「もう少し眠ろうかな」
エマはまた横になり、ゆっくりと目を閉じて、何度か深呼吸を繰り返す。静まり返った室内には、彼女の呼吸する音だけが存在する。
徐々に心臓が落ち着きを取り戻し、もう少しで眠りに落ちるってときに――スマートフォンが鳴り出した。
(ああー、また頭痛が戻ってきそう)
早く音を止めたくて、ベッドから手だけを伸ばして床に置いてある鞄の中を探る。
すぐに固くて、振動しているスマートフォンを見つけた。
「はい……もしもし?」
「おはよう、エマちゃん」
相手が誰かも確かめていなかったため、聞こえてきた声に勢いよく体を起こした。
頭痛があることも忘れて……。
「おはようございます、莉良さん」
電話の相手である彼女――坂本莉良は、エマも参加しているドッグシェルター〈オアシス〉の代表で、センターに収容されたり、ブリーダー崩壊のためレスキューされた犬たちに第二の犬生が幸せであるように尽力している人だ。
「ごめんなさいね……起こしちゃった?」
「いえ、起きてましたから、大丈夫です。緊急事態ですか?」
莉良が電話してくるのは、緊急のレスキューがあった時だけに、ベッドの上でエマは姿勢を正した。
「今、三頭の大型犬をレスキューをしたから、シャンプーの助っ人に来てもらえる?」
その言葉に、エマは目を輝かせた。
「喜んで参加させてもらいます」
保護犬と関わるほど素敵なことはない。
もちろん、楽しいことばかりじゃないのが現実だ。虐待によって傷ついた子や、劣悪な環境に置かれていた子、理解しがたい理由で保健所に飼い主の手で連れて来られた子。
いつだって、悲しみと恐怖を浮かべる目を見るたびに涙が零れてしまう。
唯一、喜びを感じられるのは、新たな出会いによって第二の犬生を歩み始めた瞬間に立ち会えた時だ。
それがあるから、続けられるともいえる。
「何時くらいに行けばいいですか?」
「今、先生の所で一通り検査をしてもらってるから、十時くらいには準備が出来てると助かるわ」
「分かりました。すぐに行きます」
軽い挨拶を交わし電話を切ると、エマはクローゼットへと歩み寄る。
これから会うのは、二度洗いが必要な子達だろうと考え、黒いロングTシャツとジーンズに着替え、撥水加工の施されたエプロンを手に取った。
これで準備はできた。メイクなんて必要ない。
必要なのは、大丈夫だと安心させるための嘘偽りない笑顔だけで十分だ。
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