月の絆~最初で最後の運命のあなた~

大神ルナ

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第3章 お試し期間の申し込み

[4] 最初の一歩

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 マリアが自分の提案に応じてくれて、狼呀は満面の笑みを浮かべたいのを、どうにか我慢した。
 一週間という条件は気にいらないが、なんの問題もない。

「分かった。一週間でマリアが何も感じなかったら、二度と目の前に姿を見せない」

「そう、よかった。なら、明日から」

「いや、今日……今からだ」

 狼呀は優しく微笑んだ。

「そう……なら、何をする?」

「まずは、名前を呼んでくれよ」

「そんな事?」

「俺にとっては、かなり重要な事だ」

 マリアには大したことじゃなくても、狼呀にとっては大きな意味がある。
 最愛の人から呼ばれてこそ、自分の名前は本当の意味を持つのだ。

「分かった……ろ、狼呀」

 心の奥が、じんわりと熱を持つのを、狼呀は目を閉じて感じていた。

(最高に気分がいい)

 マリアの手を握る手に力を込めると、彼女もためらいがちだが握り返してきた。

「場所を変えて、ゆっくり話さないか」

 マリアは、戸惑いを浮かべながらも頷いた。
 一瞬、狼呀は伝票を掴んで会計を済ませてしまおうと思ったが、短い期間で感じたマリアの性格から嫌がるだろうと考えてやめた。
 今は、一つでも悪い印象を抱かせたくない。

「先に車を回してくるから、ゆっくり出ておいで」

 手を離して立ち上がり、忍び寄る切なさに、離したその手でマリアの頬を撫でる。

「どうしたの、狼呀?」

「いや、ただ……逃げるなよ」

「失礼ね! 約束は守るほうなのに」

 ぴしゃりと手を叩かれて、思わず狼呀の顔から笑みが零れた。
 マリアは気づいていないかもしれないけれど、気安い言い合いと戯れも親愛の行動の一つだ。
 悪くない始まりに、狼呀は嬉々として店を出た。
 狼呀が乗っているのは、黒のジープ。
 デートには不向きで、あまり女受けはよくないが、アウトドアを好む狼呀のお気に入りの車である。
 しかし経験から女が乗りたがるのは、瑞季の持っているポルシェやフェラーリだ。

(マリアが嫌がらなければいいが)

 車に乗り込みエンジンをかけ、店の前に車をつけると、マリアが会計を済ませて出てこようとしていた。
 見ていると、出る直前でマリアと親しげだった女が呼び止め、何かを話している。
 狼呀をちらちら見ながら話している事から、話題が自分である事は嫌でも分かった。

(何を吹き込む気だ?)

 不安が狼呀の胸を締め付けた。
 同じ狼の匂いがする女だが、匂いは狼呀の知らない群れのものだった。
 それに、どこか人狼とは異なる匂いがしている。
 だが、この地帯全体があの匂いを持つ群れの縄張りなのかもしれないが、狼呀もまだこの辺りの人狼を全て把握している訳じゃない。
 じっ、と観察していると数分でマリアは話を打ち切り、女に声をかけられながらも手を振って店を出てきた。
 彼女は気づいていないが、女は狼呀を敵意のこもった目で睨み付けている。

(なんなんだ?)

 気にはなったが、そんな事よりも小走りで来るマリアに視線も心も掴まれていた。
 狼呀の知る女たちは、平気で人を待たせて焦りも急ぎもしないで、見た目を気にして歩いてくる。
 考えただけでも、マリアは他の女たちとは違う。
 露出の多い服は着ないし、男に媚びた行動もせず、物をねだる事も狼呀をまるで高級品かアクセサリーのように、見せびらかすために連れ歩くこともない。
 もっとも、まだ好意すら向けてきていないし、どちらかと言えば嫌っている。
 それなのに――。

「ごめんなさい、待った?」

 助手席のドアを開けて乗り込むと、狼呀の目を見てそう言った。

(こんな伴侶で、俺は幸せだ)

 たとえ嫌っている相手でも、人を気遣える心に狼呀は笑みを溢した。

「いいや、車を停めたばかりだよ」

「そ……そう、なら良かった」

 マリアは驚いた顔をしたけど、すぐに顔を反らしてドアを閉めて、シートベルトをつけはじめた。

「それで、何処に連れていってくれるの?」

「……ゆっくり話すなら、俺のマンションに」

 そう狼呀が言い終わらないうちに、マリアの悲鳴に近い声が割って入った。一気に、車内をパニックの匂いが包み込む。

「なら降りる!」

 狼呀が驚いたことに、マリアはすぐにシートベルトを外した。
 その瞬間、軽い恐怖が二人の絆を通して、狼呀の心を打ち砕く。

「どうしたんだ、マリア」

「あたしをその辺の尻軽女と同じように思ってんなら、その小綺麗な顔をズタズタにしてやるから!」

 狼呀はマリアの気持ちを落ち着かせるために、駐車場の空きスペースに車を停め、エンジンを切った。
 顔には出さないが、少しだけ心が打ちのめされている。
 それでも、狼呀にとって優先すべきはマリアだ。自分のことは後でいい。
 正しい判断だったのか、ほっとしたことにマリアは少しだけ肩から力を抜いた。

「どういう事か聞いてもいいか?」

「……」

 その質問に、落ち着いたと思っていたマリアはドアのノブに手をかけた。

「もし……話してくれるなら、俺も何でも話す」

 賭けだった。
 興味ないと言われてしまえば、一瞬で終わる。
 だが、目の前に餌をぶら下げられて、食いつかない動物がいるだろうか。

「……分かった」

 マリアはノブから手を放すと、シートに深く座り直した。思わず抱き締めたくなるが、ハンドルをぎゅっと握りしめて堪える。

「あなたが声をかけたら、その顔ならどんな女だって家に連れ帰り放題でしょうけど。ほら……みんな、あなたと一夜を共にしたがるだろうから」

 そこまで一気に話して、マリアは狼呀と目を合わせた。

「でも、あたしは……出会って数日の男の家には行かない」

 現代では、頭がかたいと言われるだろう。
 だけど狼呀は、一族の歴代アルファがそうだったように、古い考えの持ち主で、そんなマリアが誇らしくさえあった。
 一人くらいならまだしも、伴侶が複数の男と交際したり、体の関係を持っていたら我慢できない。
 その可能性が消えて、歓喜の遠吠えを上げたくなった。

「分かった。なら、どこでなら二人でも落ち着ける?」

「カフェとかなら」

「だったら、俺の友人が経営しているカフェにしよう」

 マリアが小さく息を吐いて、シートベルトをしたのを確認してから、狼呀はエンジンをかけた。
 駐車場を出て、車を走らせる間はラジオ番組の流す音楽が車内に流れ、狼呀が視線を向けてもマリアは次々と変わる外の景色を眺めている。

(まったく楽しくないな)

 絆を通して、いまだに緊張が伝わってくる。
 狼呀の理想は、楽しく会話をする事だ。
 なんの曲が好きか、何処に行くのが好きか、何をしたいか。そんな甘い会話を狼呀はしたかった。
 でも、ちょっと前みたいな恐怖を抱かれるくらいなら、この方がマシとさえ思う。
 少しでも救いにもなったのは、ステーキハウスからカフェまでが、そう遠くなかった事だ。
 カフェ〈狩人〉は、狼呀のガンマである葉山聖呀が経営者で、瑞季と同じように顔が良く、会いたいが為に若い女たちが通う。もちろん、味も評判がいい。
 昼を過ぎた今頃はOLも会社に戻り、静かな時間を取り戻している。

「ここがそうなの?」

 車のドアを開けようと思っていた狼呀だったが、マリアは自分で開けて店を見上げていた。
 聞きたくなるのも無理はない。
 聖呀の趣味なのか、店の外壁には草の蔓がからまり、所々レンガも外されていて、まるで廃墟のように見える。
 狼呀が思うに、聖呀は昔住んでいた古城が恋しいのだ。
 少しだけ、狼呀も責任を感じている。
 彼が一ヶ月ほど前に、感じるがまま日本に来なければ、瑞季も聖呀も故郷を離れる必要もなかったのだから。

「どうかしたの?」

 いつの間にか、心配そうに狼呀の顔を見つめるマリアがいた。彼女は、意識せずに他人の感情を察知するらしい。
 これでは、気遣いや思いやりを忘れられつつある今の人間社会では、暮らしにくいだろうなと狼呀は思う。

「いや、悪い。入ろうか」

「う、うん」

 まだ心配そうなマリアに、心が温まる。
 先に歩いて店の扉を開けると、優しいベルの音が室内に響いた。

「いらっしゃ……」

 カウンターでパソコンを開いていた男が、ベルの音に顔を上げて固まった。

「お前……その顔、不気味だぞ」

 あまりにも見慣れない顔に、狼呀まで固まった。
 その言葉に、男はすぐに立ち直ったのか営業用の微笑みを引っ込めると、無表情になってパソコンを閉じる。

「って……狼呀じゃねえか。珍しいな、あんたが店に来るなんて」

「ああ、ちょっとな」

 狼呀は、自分の体で隠れてしまっているマリアの腰に手を回すと、男に見えるように引き寄せた。

「聖呀、彼女はマリアだ」

「ふーん、あんたが女連れてくるとはね」

 聖呀はカウンターの中から出てくると、じっとマリアを見た。まるで。彼女が何者であるか、害をもたらす存在ではないかを見極めようとしているみたいに。

「マリア、こいつは葉山聖呀だ」

「……はじめまして、楠木マリアです」

 緊張しているのが、触れている腰の筋肉で狼呀には分かった。
 無理もない。
 聖呀は瑞季とは違って、相手を緊張させるような雰囲気を持っている。
 相手の心理や本質を探るのが聖呀の役割でもあるからか、いつでも彼の緑色の瞳は誰も信用しない。仲間だと、家族だと認めない限り。
 なのに、驚いたことに他人が見ても分からないが、小さく微笑んだことに狼呀は気がついた。

「聖呀だ、よろしく。まあ、好きな所に座ってくれ」

「それじゃあ、奥の個室は空いてるか?」

「ああ……空いてる」

 短くそう言うと、聖呀はカウンターの奥へと消えていった。
 こんな感じの彼が、どうして人気なのか狼呀には謎でしょうがない。

「こっちだ」

 ぼんやりと、聖呀の消えていった方を見つめているマリアを促し、開放的な日差しの入る客席ではなく、奥にある扉で隔てられた部屋に案内する。

「何がいい?」

 テーブルに置かれたメニューを手渡し、狼呀は扉に寄りかかった。
 瑞季の隣で観察したり、モデルの女たちに誘われた飲み会などで狼呀は知ったが、女はメニューを決めるのに時間がかかる。
 時には、男受けする食べ物や飲み物を、好きでもないのに注文するような女を何度か見たこともある。
 そのたびに、相手に対する興味すらなくなったほどだ。

「ケーキセット。飲み物はホットコーヒーで、ケーキは……チョコのやつ」

 あっさりと決めてメニューを返してくるマリアに、狼呀は目を丸くした。

「どうしたの? 品切れ中とか?」

「いや、あるはずだ。座って……少し待っててくれ」

 不思議そうな顔をしたまま、マリアは素直にソファーに座った。
 車の中で見せた不安や恐怖はない。
 あるのは狼呀への心配だけ。
 それを見届けてから、狼呀は聖呀のいるカウンターに向かった。
 あまりのはやさに、聖呀すら驚いた顔をしている。

「コーヒーとケーキセットを一つ。ケーキセットはコーヒーとチョコのケーキを頼む」

「まさか、あんたが女の分まで注文に来るとはな。だが、勝手に選ぶと女は怒るぞ?」

 狼呀は鼻で笑った。

「余計なお世話だ。それに、彼女が自分で選んだんだよ」

「へえー、選ぶのが早いから、てっきりあんたが選んだのかとそれで……彼女が瑞季の騒いでた女か?」

「騒いでたって、何を?」

「あんたがお持ち帰りしてきたとか、彼女はフェロモン垂れ流しだとか、そんな感じにな」

 たしかに、狼呀の前でも似たような事を言っていた。
 しかし、聖呀は平気そうである。

「お前は平気なのか?」

「オレ? 別に、特に何も感じない。そもそも、オレは瑞季と違って伴侶がいるからな」

「ああ、そうだったな」

 こんな聖呀だが、三年前くらいに小柄で華奢なエミリとか言う名前の伴侶を得た。
 毎度、顔を合わせるたびにこんな小さな体で、体格の大きな聖呀の欲望を受け止めきれるのかと、狼呀は不思議でならない。
 とはいえ、そんな事を本人には聞けないし、毎夜といっていいほど聞こえてくる声と、翌朝の満足そうな顔を見れば聞くだけ野暮というものだ。

「気を付けてやれよ。あんたに惚れてる女と、伴侶を持たない男たちは、何をするか分からないからな」

 珍しくよく喋る聖呀は、驚く狼呀に構わずトレーにケーキとコーヒー二つを乗せると、顎で行けと示した。

「言われなくても分かってる」

 レイラと同じように、ただの人間であるマリアを嫌う者たちがいる事も、性欲ではなく違う意味で彼女を味わいたがっている者たちがいる事も。
 そして、一部には今の狼呀がアルファにふさわしくないと言う者も少なからず出てきた事にも気づいている。
 何よりも、心の奥にはマリアさえいれば、アルファの座なんていらないと思う自分がいる事にも――。

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