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第3章 お試し期間の申し込み
[3] どうして邪険にできないの?
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迎えに来てくれたレンは、何も聞かずに彼の家に連れていってくれた。
でも、何も話してくれない。
もちろん、世間話みたいなものはする。
しないのは、大事な話。
『マリアは、吸血鬼の保護下にある。彼女への無理強いは、僕たちとお前たちとの関係に亀裂を生む』
あの時、分からなかったレンの言葉。
彼は、自ら吸血鬼の事を狼呀に言った。
それに、二人の関係に亀裂?
一体、二人に何があるのか気になって仕方がない。
あたしはベッドに倒れるように横になると、天井を見上げた。
勢いがよすぎて、ベッドが弾むと同時に野性的な匂いが舞う。
顔を横に向けると、狼呀のTシャツが目に入る。
鞄を掴んで逃げるように部屋を出た時、一緒に持ってきてしまったらしい。
あれから三日が経つけど、なんとなく肌から匂いが消えていない気がする。
この部屋に入ってから、シャワーを毎日浴びてさっぱりとしているずなのにだ。
高そうな濃厚な薔薇の香りじゃ、落ちないっていうの?
なんだか気に入らない。
狼呀はたった数日前の出来事を忘れさせてくれない。
なぜか不思議な事にパニックにはなったけど、温かい腕と情熱的な瞳は安らぎを与えてくれた。
出会って間もない相手に、安らぎを見出したことなんてこれまで無かった。
「このTシャツ……どうしよう」
ぽつりと呟いてみたけど、あたしは狼呀のマンションの位置を知らないから返す方法がない。
それに、もう一度会いたいかとよくよく考えてみても、会いたいのかよくわからなかった。
狼呀と別の男で、いったい何が違うのか。
あの日、帰りの車の中でレンがあたしの耳元で、眠るように囁いた時の事を、参考までに思い出してみる。
狼呀に囁かれた時と違い、胸はドキドキしなかったけど、代わりに眠っても安全だという安心感はあった。
とはいえ、あの時はとにかく眠くて、駐車場をでる車の揺れは心地が良かったのだから、あまり参考にならない。
気がつけば、レンの家にあるゲストルームで寝ていて……。
ただ、背中に感じる温かさがなくて、あたしは淋しさを感じていた。
なにも知らない相手なのに――。
そんな事を考えていると、扉を叩く音がした。
「マリア、いいかな?」
「あ、うん。どうしたの?」
扉が開くと同時に、あたしはベッドから体を起こした。
レンは腕時計を気にしてる。
「そろそろお昼だから、お腹が空いてるかなってね。この家に食べ物はないから、買いに行くなら車を出すよ」
たしかに、言われてみればお腹が空いている。
でも、お弁当というよりは、お店で食べたい気分。
「大丈夫、ありがとう。一人でお店に行って食べるから」
あたしは食べるのがゆっくりで、食事をしないレンを付き合わせようって気にはなれない。吸血鬼にとって、食事の匂いはきついはず。
それに、レンが同じ席にいると、不釣り合いなあたしに対する嫌悪にも似た視線が痛すぎて、食事が喉を通らなくなる。
「そう? なら、お金を」
あたしは、途中で遮った。
「レン。自分で出すから」
あたしの事を少しは分かってきたレンは、同じ事を二度は言わせなかった。
「なら、一言だけ……」
レンはあたしの頬に触れた。
「知らない人に、ついて行っちゃだめだよ」
「レン。あたしは、小学生かなにか?」
あまりにも真面目な顔で言われて、あたしは笑ってしまった。
きっと、狼呀との事をレンは気にしてる。なにより、トランス状態になった自分を許せないでいる。
その証拠にあの日以来、直接は吸ってこないし、血液パックに入っているあたしの血すら飲まない。
代わりに、どんなモノからも守ろうという姿勢が強くなった。
「オートロックだから、カードキーを忘れずにね」
あたしの頬にキスをすると、レンは部屋を出ていった。
一人になると、また淋しさが忍び寄ってくる。
こんなにも自分は、寂しがりやだったなんて驚きだ。
一人の時間が好きだったはずなのに。
人混みは嫌いだけど、今は酷く必要な気がして、あたしは鞄を掴んで部屋を出た。
最上階は全てレンの物で、専用の鍵でしか動かない直通のエレベーターもある。
吸血鬼はお金持ち過ぎると、感じずにはいられない。
高級車、高級マンション、自家用ヘリに会員制クラブ。
考えただけで、頭痛がしてきそう。
不死だと、時間がありすぎて仕事中毒にでもなるの?
そんなくだらない事を考えながら一階まで下りると、一気に部屋に戻りたい気にさせられた。
エレベーターが開いた瞬間、目に飛び込んできたのは、露出の高い服を着てフロアに立っている妖艶な女たち。
視線は全て、あたしの乗っているエレベーターに注がれている。
あからさまに『何であんな女が?』って目もあれば、あたしの首を見て納得する女もいた。
あたしの首には、まだ塞がらないレンの噛み痕があり、大袈裟にならない程度のガーゼをしてある。
それで納得するタイプなら可愛いものだ。
「なんであの子、レン様専用エレベーターの鍵を持ってるの?」
前を通って外に出ようとした時、嫉妬に燃える声が聞こえてきた。
これだから、恋と愛に脳みそを支配されている女は嫌になる。
周りなんて見えなくて、勝手な憶測と妄想で頭を一杯にして、無関係な人間に不快な思いをさせるんだからたちが悪い。
振り返ると、嫉妬の視線があたしに突き刺さる。
その瞬間、食事を食べ終わっても帰ってきたくなくなった。
根掘り葉掘り聞かれて、嫉妬に狂った女たちの攻撃を受けるのは避けたい。
あたしはマンションの出入口から出ると、足早にレストランの集まる方向へと歩き出した。
外は昼食に出てきたサラリーマンやOL、子供連れの母親集団で賑わっている。
そのせいで苦手とするベビーカーと赤ん坊に、嫌な汗とゾッとする感覚が襲う。
あたしは、大の子供嫌いだ。
たまに、嫌いな原因はなにか聞かれるけど分からない。
ただ、ゾッとして嫌悪しか感じないって事しか言えなかった。ヨダレでベタベタの手で触られたくないし、泣き叫ぶ声も我慢ならない。
なかでも、子供の中で『赤ちゃん』と呼ばれる大きさの子供がだめだ。
だからか、恋人や結婚の必要性を感じた事はなかった。
きっと、あたしには母性本能が欠けている。
唯一、愛しさを感じていたソウルメイトを失った日から、なおさら母性本能も消えてなくなった。
ぐるぐる渦巻く自分の感情に捕らわれていると、ドアベルの音に、はっとした。いつの間にか、目的の店に着いていた。
あたしの大好きな店〈ステーキハウス バイソン〉。
サラリーマンやOL、子供連れが絶対に来なくて、静かに食事出来る大好きな店。
扉を押し開くと、扉に取り付けられたドアベルが優しく鳴った。
「いらっしゃい、マリアちゃん」
「こんにちは、絢華さん」
軽やかに店の奥から出てきたのは、この店でウェイトレスをする2歳上の絢華さん。
店の制服でもあるショートパンツと、カーボーイブーツが良く似合う人。
ネルシャツは赤系で、彼女に合わせて作られたんじゃないかってぐらい素敵だ。
絢華さんは、あたしがいつも座わる一番奥にあるボックス席に案内してくれた。
どんなに混んでいても、そこだけは空けておいてくれる。あたしが静かに食べるのが好きなことを知ってから――。
「いつものでいい?」
「はい。でも、少しだけポテトを多くしてもらえますか?」
「いいわよ。兄さんに伝えるから、出来上がるまで待ってね」
伝票をテーブルに置くと、絢華さんは他の客に声をかけながら行ってしまった。このフレンドリーさが好きだ。
ただの店と客って感じではなく、まるで家族と接するように温かい。サービスがいい店より、アットホームな雰囲気のある店のほうが落ち着く。
暇になったあたしは、他の客を眺めるのをやめて鞄を引き寄せ、着信とメールを調べるため鞄の中に手を突っ込んだが――
あれ? ない!
何度も、鞄の中を探しても携帯電話はどこにもない。
道に落としたなら最悪だ。
よくドラマとかで、自分の携帯電話にかけて、拾ってくれた人に連絡して返してもらうってあるけど、あんなの夢物語。
現代人に、そんな親切な人はいない。
変な事、面倒な事には関わりたくないのが普通だ。
これは、電話会社に相談した方がいいのかな?
空腹さえ感じなくなりそうなぐらい頭を悩ませていると、見慣れた物がテーブルに置かれた。
それは、水色で艶々した――あたしの携帯電話。
「ありがと……」
人間まだまだ腐った奴ばっかりじゃないんだと顔を上げて、あたしは言葉を止めた。
「忘れてっただろ」
目の前の席に、当たり前のように座ったのは――狼呀だった。
「忘れてったは、正解じゃないと思う。あれは、うっかり忘れた時に対する言葉だけど、あたしの携帯電話は……月城さんが取り上げたんでしょ!」
顔を見て思い出した。
あたしの携帯電話は、三日前にレンとの会話中に取り上げられて、彼のジーンズの後ろポケットに消えた。
壊れてないといいけど。
あたしの体重をモノともしない腕力があるなら、それなりにトレーニングしていて体重もありそう。携帯の存在を忘れて、体重をかけられたらと考えると、身震いがした。
あたしは狼呀の存在を無視して、メールと着信を調べようと携帯に手を伸ばしたけど、いつの間にかテーブルの上から消えている。
上に向かって睨み付けると、涼しい顔をして携帯電話を見せびらかす狼呀と目が合う。
「ちょっと、返してくれない……月城さん」
「返してほしいなら、先ずは俺を名前で呼べよ」
これって、何かの拷問?
それとも、脅迫?
携帯は返してほしいけど、意地でも名前を呼びたくなかった。名前で呼んだら、今ある不確かな気持ちが確定してしまいそうで恐い。
無くしたと思っていたし、新しい物に変えてもいいかもしれない。五年近く使っているから、最近は電池もすぐ減るようにもなっていたから不便だった。
あたしは、無視する事に決めた。
それに、タイミングよくステーキがテーブルに置かれて、ほっとした。
「ありがとう、絢華さん」
おかしな事に、いつもの台詞が無くて不思議に思って見上げると、不機嫌そうに狼呀を睨む絢華さんがいた。
彼女にしては珍しい。
どんな客にも笑顔を向け、どんな体調の時でもそれは変わらないのに。
「どうしたんですか?」
「……この人、うちの店では歓迎しないのよ」
水すら置かずに、絢華さんは厨房に戻っていった。
「あなた、この店で何をしたの?」
「何もしてない。彼女たちが、少しばかり神経質なだけさ」
そう言いながら図々しくも皿を自分のほうに引き寄せ、ナイフとフォークを掴んで食べやすい大きさに切りはじめた。
「なに? あたしの食事を取る気?」
「そういう訳じゃない」
「あっそう。なら、はやく返して。そんなことしてもらわなくても、初めて食べるんじゃないし、手も使えるんだけど」
「ただ、俺がしたいだけだよ」
そう言うと、皿を返してくれた。
顔を見つめて驚いた。
狼呀は、すごく嬉しそうな顔をしている。
訳がわからずにいるとフォークだけを渡され、あたしは気を取り直して素直に食べ始めた。
週に五回は食べるけど、飽きる事はない。
香辛料とソースはレジで売っているから買ってみたものの、なぜか店と同じ味は出せなかった。
「そんなに美味しいのか?」
「ええ、かなりね。食べてみる?」
フォークに刺して、口を開けるように促すと、狼呀は目を見開いた。
呆然としてるから、あたしの行動で伝わってないのかと思ってフォークを振ってみる。
「ほら、口開けて」
ようやく狼呀はテーブルに両腕をついて、体を乗りだし口を開けた。
ステーキを口に入れて、くわえたところで、あたしはフォークをゆっくりと引いて無言で見つめる。
「たしかに、旨いな」
狼呀は微笑んだ。
少し頬と耳が赤い気がする。
「頬が赤いけど、どうかした?」
「いや……親密なことをしてくるから、びっくりしたんだ」
「親密? そんな事した?」
あたしは、そんな行動をしたって意識はなかった。
「俺たちの一族にとって、相手に食べさせるのは、親愛を意味してるんだよ」
「なっ! なにそれ!」
今度は、あたしが赤くなる番だった。
知らずにした行動だったけど、自分の迂闊さを呪いたい。
あたしは俯いて、黙々とステーキを口に運んだ。
恥ずかしすぎる。
拒絶している相手に、そんな事をするなんて。
咀嚼を繰り返していると、空いている左手に、狼呀の手が重ねられた。
「マリア」
引き抜こうとしたら優しく掴まれ、レンの体温とは真逆の温かさに胸が切なくなって、引き抜こうなんて思えなくなった。
ここが、人目のある店って忘れそう。
「なに……他に用でもあるの?」
「ああ、そうなんだ。実は、俺と試しに付き合ってほしい」
「付き合う? どうして?」
意味が分からなかった。
「俺を知ってほしいから」
優しく手の甲に親指で円を書くように撫でられ、うまく頭が働かない。
目線を上げて狼呀を見ると、あまりに優しい瞳とぶつかって体が震えそうだ。
何か言わなくちゃ。
でも、上手いかわしかたも、断る理由も思い浮かばない。
「わ、分かった。ただし……期間は一週間。それで、あたしの心が動かなかったら、二度と関わらないで」
自分で言っておきながら、なぜ提案を受け入れたのか分からなかった。
好きでも嫌いでもないのに……。
でも、何も話してくれない。
もちろん、世間話みたいなものはする。
しないのは、大事な話。
『マリアは、吸血鬼の保護下にある。彼女への無理強いは、僕たちとお前たちとの関係に亀裂を生む』
あの時、分からなかったレンの言葉。
彼は、自ら吸血鬼の事を狼呀に言った。
それに、二人の関係に亀裂?
一体、二人に何があるのか気になって仕方がない。
あたしはベッドに倒れるように横になると、天井を見上げた。
勢いがよすぎて、ベッドが弾むと同時に野性的な匂いが舞う。
顔を横に向けると、狼呀のTシャツが目に入る。
鞄を掴んで逃げるように部屋を出た時、一緒に持ってきてしまったらしい。
あれから三日が経つけど、なんとなく肌から匂いが消えていない気がする。
この部屋に入ってから、シャワーを毎日浴びてさっぱりとしているずなのにだ。
高そうな濃厚な薔薇の香りじゃ、落ちないっていうの?
なんだか気に入らない。
狼呀はたった数日前の出来事を忘れさせてくれない。
なぜか不思議な事にパニックにはなったけど、温かい腕と情熱的な瞳は安らぎを与えてくれた。
出会って間もない相手に、安らぎを見出したことなんてこれまで無かった。
「このTシャツ……どうしよう」
ぽつりと呟いてみたけど、あたしは狼呀のマンションの位置を知らないから返す方法がない。
それに、もう一度会いたいかとよくよく考えてみても、会いたいのかよくわからなかった。
狼呀と別の男で、いったい何が違うのか。
あの日、帰りの車の中でレンがあたしの耳元で、眠るように囁いた時の事を、参考までに思い出してみる。
狼呀に囁かれた時と違い、胸はドキドキしなかったけど、代わりに眠っても安全だという安心感はあった。
とはいえ、あの時はとにかく眠くて、駐車場をでる車の揺れは心地が良かったのだから、あまり参考にならない。
気がつけば、レンの家にあるゲストルームで寝ていて……。
ただ、背中に感じる温かさがなくて、あたしは淋しさを感じていた。
なにも知らない相手なのに――。
そんな事を考えていると、扉を叩く音がした。
「マリア、いいかな?」
「あ、うん。どうしたの?」
扉が開くと同時に、あたしはベッドから体を起こした。
レンは腕時計を気にしてる。
「そろそろお昼だから、お腹が空いてるかなってね。この家に食べ物はないから、買いに行くなら車を出すよ」
たしかに、言われてみればお腹が空いている。
でも、お弁当というよりは、お店で食べたい気分。
「大丈夫、ありがとう。一人でお店に行って食べるから」
あたしは食べるのがゆっくりで、食事をしないレンを付き合わせようって気にはなれない。吸血鬼にとって、食事の匂いはきついはず。
それに、レンが同じ席にいると、不釣り合いなあたしに対する嫌悪にも似た視線が痛すぎて、食事が喉を通らなくなる。
「そう? なら、お金を」
あたしは、途中で遮った。
「レン。自分で出すから」
あたしの事を少しは分かってきたレンは、同じ事を二度は言わせなかった。
「なら、一言だけ……」
レンはあたしの頬に触れた。
「知らない人に、ついて行っちゃだめだよ」
「レン。あたしは、小学生かなにか?」
あまりにも真面目な顔で言われて、あたしは笑ってしまった。
きっと、狼呀との事をレンは気にしてる。なにより、トランス状態になった自分を許せないでいる。
その証拠にあの日以来、直接は吸ってこないし、血液パックに入っているあたしの血すら飲まない。
代わりに、どんなモノからも守ろうという姿勢が強くなった。
「オートロックだから、カードキーを忘れずにね」
あたしの頬にキスをすると、レンは部屋を出ていった。
一人になると、また淋しさが忍び寄ってくる。
こんなにも自分は、寂しがりやだったなんて驚きだ。
一人の時間が好きだったはずなのに。
人混みは嫌いだけど、今は酷く必要な気がして、あたしは鞄を掴んで部屋を出た。
最上階は全てレンの物で、専用の鍵でしか動かない直通のエレベーターもある。
吸血鬼はお金持ち過ぎると、感じずにはいられない。
高級車、高級マンション、自家用ヘリに会員制クラブ。
考えただけで、頭痛がしてきそう。
不死だと、時間がありすぎて仕事中毒にでもなるの?
そんなくだらない事を考えながら一階まで下りると、一気に部屋に戻りたい気にさせられた。
エレベーターが開いた瞬間、目に飛び込んできたのは、露出の高い服を着てフロアに立っている妖艶な女たち。
視線は全て、あたしの乗っているエレベーターに注がれている。
あからさまに『何であんな女が?』って目もあれば、あたしの首を見て納得する女もいた。
あたしの首には、まだ塞がらないレンの噛み痕があり、大袈裟にならない程度のガーゼをしてある。
それで納得するタイプなら可愛いものだ。
「なんであの子、レン様専用エレベーターの鍵を持ってるの?」
前を通って外に出ようとした時、嫉妬に燃える声が聞こえてきた。
これだから、恋と愛に脳みそを支配されている女は嫌になる。
周りなんて見えなくて、勝手な憶測と妄想で頭を一杯にして、無関係な人間に不快な思いをさせるんだからたちが悪い。
振り返ると、嫉妬の視線があたしに突き刺さる。
その瞬間、食事を食べ終わっても帰ってきたくなくなった。
根掘り葉掘り聞かれて、嫉妬に狂った女たちの攻撃を受けるのは避けたい。
あたしはマンションの出入口から出ると、足早にレストランの集まる方向へと歩き出した。
外は昼食に出てきたサラリーマンやOL、子供連れの母親集団で賑わっている。
そのせいで苦手とするベビーカーと赤ん坊に、嫌な汗とゾッとする感覚が襲う。
あたしは、大の子供嫌いだ。
たまに、嫌いな原因はなにか聞かれるけど分からない。
ただ、ゾッとして嫌悪しか感じないって事しか言えなかった。ヨダレでベタベタの手で触られたくないし、泣き叫ぶ声も我慢ならない。
なかでも、子供の中で『赤ちゃん』と呼ばれる大きさの子供がだめだ。
だからか、恋人や結婚の必要性を感じた事はなかった。
きっと、あたしには母性本能が欠けている。
唯一、愛しさを感じていたソウルメイトを失った日から、なおさら母性本能も消えてなくなった。
ぐるぐる渦巻く自分の感情に捕らわれていると、ドアベルの音に、はっとした。いつの間にか、目的の店に着いていた。
あたしの大好きな店〈ステーキハウス バイソン〉。
サラリーマンやOL、子供連れが絶対に来なくて、静かに食事出来る大好きな店。
扉を押し開くと、扉に取り付けられたドアベルが優しく鳴った。
「いらっしゃい、マリアちゃん」
「こんにちは、絢華さん」
軽やかに店の奥から出てきたのは、この店でウェイトレスをする2歳上の絢華さん。
店の制服でもあるショートパンツと、カーボーイブーツが良く似合う人。
ネルシャツは赤系で、彼女に合わせて作られたんじゃないかってぐらい素敵だ。
絢華さんは、あたしがいつも座わる一番奥にあるボックス席に案内してくれた。
どんなに混んでいても、そこだけは空けておいてくれる。あたしが静かに食べるのが好きなことを知ってから――。
「いつものでいい?」
「はい。でも、少しだけポテトを多くしてもらえますか?」
「いいわよ。兄さんに伝えるから、出来上がるまで待ってね」
伝票をテーブルに置くと、絢華さんは他の客に声をかけながら行ってしまった。このフレンドリーさが好きだ。
ただの店と客って感じではなく、まるで家族と接するように温かい。サービスがいい店より、アットホームな雰囲気のある店のほうが落ち着く。
暇になったあたしは、他の客を眺めるのをやめて鞄を引き寄せ、着信とメールを調べるため鞄の中に手を突っ込んだが――
あれ? ない!
何度も、鞄の中を探しても携帯電話はどこにもない。
道に落としたなら最悪だ。
よくドラマとかで、自分の携帯電話にかけて、拾ってくれた人に連絡して返してもらうってあるけど、あんなの夢物語。
現代人に、そんな親切な人はいない。
変な事、面倒な事には関わりたくないのが普通だ。
これは、電話会社に相談した方がいいのかな?
空腹さえ感じなくなりそうなぐらい頭を悩ませていると、見慣れた物がテーブルに置かれた。
それは、水色で艶々した――あたしの携帯電話。
「ありがと……」
人間まだまだ腐った奴ばっかりじゃないんだと顔を上げて、あたしは言葉を止めた。
「忘れてっただろ」
目の前の席に、当たり前のように座ったのは――狼呀だった。
「忘れてったは、正解じゃないと思う。あれは、うっかり忘れた時に対する言葉だけど、あたしの携帯電話は……月城さんが取り上げたんでしょ!」
顔を見て思い出した。
あたしの携帯電話は、三日前にレンとの会話中に取り上げられて、彼のジーンズの後ろポケットに消えた。
壊れてないといいけど。
あたしの体重をモノともしない腕力があるなら、それなりにトレーニングしていて体重もありそう。携帯の存在を忘れて、体重をかけられたらと考えると、身震いがした。
あたしは狼呀の存在を無視して、メールと着信を調べようと携帯に手を伸ばしたけど、いつの間にかテーブルの上から消えている。
上に向かって睨み付けると、涼しい顔をして携帯電話を見せびらかす狼呀と目が合う。
「ちょっと、返してくれない……月城さん」
「返してほしいなら、先ずは俺を名前で呼べよ」
これって、何かの拷問?
それとも、脅迫?
携帯は返してほしいけど、意地でも名前を呼びたくなかった。名前で呼んだら、今ある不確かな気持ちが確定してしまいそうで恐い。
無くしたと思っていたし、新しい物に変えてもいいかもしれない。五年近く使っているから、最近は電池もすぐ減るようにもなっていたから不便だった。
あたしは、無視する事に決めた。
それに、タイミングよくステーキがテーブルに置かれて、ほっとした。
「ありがとう、絢華さん」
おかしな事に、いつもの台詞が無くて不思議に思って見上げると、不機嫌そうに狼呀を睨む絢華さんがいた。
彼女にしては珍しい。
どんな客にも笑顔を向け、どんな体調の時でもそれは変わらないのに。
「どうしたんですか?」
「……この人、うちの店では歓迎しないのよ」
水すら置かずに、絢華さんは厨房に戻っていった。
「あなた、この店で何をしたの?」
「何もしてない。彼女たちが、少しばかり神経質なだけさ」
そう言いながら図々しくも皿を自分のほうに引き寄せ、ナイフとフォークを掴んで食べやすい大きさに切りはじめた。
「なに? あたしの食事を取る気?」
「そういう訳じゃない」
「あっそう。なら、はやく返して。そんなことしてもらわなくても、初めて食べるんじゃないし、手も使えるんだけど」
「ただ、俺がしたいだけだよ」
そう言うと、皿を返してくれた。
顔を見つめて驚いた。
狼呀は、すごく嬉しそうな顔をしている。
訳がわからずにいるとフォークだけを渡され、あたしは気を取り直して素直に食べ始めた。
週に五回は食べるけど、飽きる事はない。
香辛料とソースはレジで売っているから買ってみたものの、なぜか店と同じ味は出せなかった。
「そんなに美味しいのか?」
「ええ、かなりね。食べてみる?」
フォークに刺して、口を開けるように促すと、狼呀は目を見開いた。
呆然としてるから、あたしの行動で伝わってないのかと思ってフォークを振ってみる。
「ほら、口開けて」
ようやく狼呀はテーブルに両腕をついて、体を乗りだし口を開けた。
ステーキを口に入れて、くわえたところで、あたしはフォークをゆっくりと引いて無言で見つめる。
「たしかに、旨いな」
狼呀は微笑んだ。
少し頬と耳が赤い気がする。
「頬が赤いけど、どうかした?」
「いや……親密なことをしてくるから、びっくりしたんだ」
「親密? そんな事した?」
あたしは、そんな行動をしたって意識はなかった。
「俺たちの一族にとって、相手に食べさせるのは、親愛を意味してるんだよ」
「なっ! なにそれ!」
今度は、あたしが赤くなる番だった。
知らずにした行動だったけど、自分の迂闊さを呪いたい。
あたしは俯いて、黙々とステーキを口に運んだ。
恥ずかしすぎる。
拒絶している相手に、そんな事をするなんて。
咀嚼を繰り返していると、空いている左手に、狼呀の手が重ねられた。
「マリア」
引き抜こうとしたら優しく掴まれ、レンの体温とは真逆の温かさに胸が切なくなって、引き抜こうなんて思えなくなった。
ここが、人目のある店って忘れそう。
「なに……他に用でもあるの?」
「ああ、そうなんだ。実は、俺と試しに付き合ってほしい」
「付き合う? どうして?」
意味が分からなかった。
「俺を知ってほしいから」
優しく手の甲に親指で円を書くように撫でられ、うまく頭が働かない。
目線を上げて狼呀を見ると、あまりに優しい瞳とぶつかって体が震えそうだ。
何か言わなくちゃ。
でも、上手いかわしかたも、断る理由も思い浮かばない。
「わ、分かった。ただし……期間は一週間。それで、あたしの心が動かなかったら、二度と関わらないで」
自分で言っておきながら、なぜ提案を受け入れたのか分からなかった。
好きでも嫌いでもないのに……。
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妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。
『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。
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