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過ぎた年月は記憶を曖昧にする?
3 何かの間違いだと言ってください
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「間に合ったみたいですね」
驚愕している雪乃の隣で、向島は突然の来訪者に笑顔で挨拶をしている。
二人の顔を交互にみながら、冷静になりはじめた頭は男が簡単に入れたということは、同窓会に参加する人間だと理解しはじめた。
同学年の人間と関係を持つ以上に、最悪なことはないかもしれない。
雪乃は、二人が談笑をはじめた隙に帰ろうと、向島の背中に隠れながらスツールを降りて、コートを抱えたが──。
「あれ? どちらに行かれるんですか?」
ぎくり、と雪乃の肩が強張った。間違いようのない男の声に、向島も振り返り問い掛けるような眼差しを向けてくるものだから、帰ろうとしていたなんて口に出来なくなった。
「あ、いや……お邪魔かな~と思って」
「何でですか?」
ひどく真面目な顔で言われて、雪乃は顔を引き攣らせた。
「ほら、内々の話だってあるでしょ? 聞いちゃ、悪いかと思って」
「何を言ってるんです? 朝日奈さんだって彼と積もる話があるでしょ」
「は?」
失礼かもしれないが、思わず素っ頓狂な声が出てしまった。
それもそのはず、朝のハプニングの前に会った記憶がないのだから。今回、集まっているのは高校時代の同学年の人たちだが、クラスが一緒になったことのない相手の名前は知るはずもない。
自慢にはならないが、雪乃の交遊関係は広く浅いものではなく、狭く深いものなのだ。
「いや、失礼かもしれないけどこの人、誰?」
北風プラス雪でも降りはじめたのかってくらい、店内は冷たい沈黙に包まれた。
雪乃だけが別の惑星から来た異端者みたいな気分だ。
「本気で言ってます?」
すぐさま頷けば、あちらこちらからため息が聞こえて来る。
「ねえ、朝日奈さんなんて放っておいて、向こうで盛り上がりましょうよ、朔くん」
男の横に立っていた胸元を強調している服を着た子が、彼の腕に自らの腕を絡めた。
あまりの積極的な行動に感心していたせいで、雪乃は危うく重要なことを聞き逃しそうになった。
(ん? さくくん?)
聞き覚えのある名前に、雪乃は男へと視線を戻した。
今朝、戸惑いの中で目にした見た目と変わらない。艶やかな黒髪と灰色の瞳。冷たいとも見える整った顔立ち。
高い身長と広い肩幅。
何一つ変わっていないはずなのに、見る目が変わったからか、昔の記憶と今が点と点でなかなか繋がらない。
それでも、同じクラスに珍しい名前の朔は一人しかいなかった。
「まさか、大上朔?」
冗談であってほしいという思いを込めて言えば、当の本人は雪乃の思いとは裏腹に嬉しそうに顔を綻ばせた。
「そうだよ、ヒナ」
知っている声より低くなった声で朔しか呼ばないあだ名で呼ばれ、頭の奥で一生開かないように鍵を閉めた記憶の保管庫が不可解な音を立てる。
嫌だと思った。あの頃のように傷つきたくない。
雪乃は、近づこうと一歩を踏み出す朔に合わせて、一歩後ずさる。
それは本能的な行動だった。
「ヒナ?」
片方の手で、もう片方の腕を掴んで体ごと引いた拒絶の動作に、朔の顔が曇った。
眉を寄せて、雪乃以上に驚き、傷ついた表情をする彼に、くすぶっている記憶が触れて撫でて慰めたがっている。
「どうかしたか、雪」
もう一歩下がったところで、卓馬の胸にぶつかった。両肩に手が乗せられて、これ以上さがれないことに胸の奥でパニックが沸き上がる。
逃げたい、逃げたい、逃げたい。
対処しきれない感情で、喉が詰まったように感じて息がしづらい。心臓の鼓動が、どんどん速くなって胸が苦しくなってくる。
別に泣きたくもないのに、生理的な涙が目に浮かびはじめた。
(もう嫌だ! 私の平穏を乱さないでよ!)
心の中でそう叫んだ瞬間、目の前が真っ暗になった。
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
ぐにゃりと力の抜けた体が傾ぎ、卓馬は雪乃を受け止めた。
「朔? 雪に……何かしたのか?」
「雪乃!? って、なんであんたがいるのよ!」
異変に気づいた香穂が、人混みを掻き分けて側までくると朔に目を留めて憤った。
予想外の人間の登場に、卓馬の中にある雪乃相手にだけ発揮される守ってやりたいという気持ちが、全面に押し出され、青ざめて動けないでいる朔に、攻撃的な苛立ちが渦巻く。
彼を囲む女たちの存在に、まるで高校時代に戻ったような錯覚さえ覚えた。あの頃も、こうして雪乃は傷ついたのだ。
「出席者の中に、お前の名前はなかったと思ってたんだがな。帰国は一週間後じゃなかったか?」
「僕が……声をかけたんです」
手を上げたのは、向島だった。
「イギリスで雑誌の撮影をしている時に会って、同窓会があることを教えたんですよ」
「チッ……余計なことを」
「朝日奈さんと朔は、親しい友人同士ですよね?」
「他人が勝手に思い描いている関係が、永遠に通じる真実だと思うなよ」
雪乃を抱き上げた卓馬は、真っ正面から向島を睨みつけた。
「朔……勝手にいなくなったお前を、雪が笑顔で迎えてくれるとでも思ってたのか?」
「……卓馬、俺は」
言いよどむ朔に苛立った様子で背を向けた卓馬は、雪乃を抱え直すと歩き出した。
和気あいあいとした雰囲気は無くなり、店の中にいる全員が抱えられている雪乃へと向けられている。注目されることを望んでいないであろう彼女の為に、立ち止まって胸板に顔が押し付けられるようにして足早に横切った。
「ここは勝手に使ってくれ。鍵は綾瀬に渡してくれればいいから」
最も信頼できる香穂の名前を出した卓馬は、朔について来るように頭を傾けた。
雪乃が認めたくなくとも、長い付き合いだっただけに、仕草で読み取りついて来た。もちろん、香穂も。
厨房を抜け、扉を開いて庭で立ち止まった卓馬が振り返ると、今にも泣き出しそうな顔で近づいてくる。
「朔……雪に近づくなとは言わない。けどな、傷つけることだけは許さない。中途半端な気持ちなら、雪との再会は無かったことにして過ごせ」
雪乃に注意を向けている朔が聞いているのか気になりはしたが、強張った肩と顎を見ればきちんと理解しているのだと分かる。
「再会をなかったことには出来ない。俺が何年……この日を夢見ていたか、卓馬には分からないよ」
「ああ、わかんねえよ。わかりたくもねえけどな。まあ、本気なんだったら、何もいわねえよ。雪を傷つけないなら邪魔しない」
卓馬の胸に顔を埋める雪乃の顔が見えるように、髪を耳にかけるために伸ばした朔の手は、傍から見ても分かるほど震えている。
それだけでも、いかに朔の雪乃に対する気持ちが適当なものではないのは分かった。だが、あの日傷つく雪乃を支えた卓馬には、朔の存在は有り難くもない。
その手を振り払うように歩き出すと、先にガレージの扉を開いておいてくれた香穂が車のドアも開けてくれた。
「悪いな」
「あとはあたしが、上手くやっておくから雪乃のそばにいてあげて」
後部座席に雪乃を寝かせ、静かにドアを閉めると朔の方を見ることなく運転席に乗り込みエンジンをかけた。
ガレージから車を出し、ちらりとバックミラーを見ると、香穂が朔の頬を力一杯張るのが見えた。
香穂も朔と雪乃の関係を知っている一人であり、雪乃が立ち直るまでを支えた一人だ。当時も、朔に対する怒りで震えていたが、ぶつけるべき相手は近くにいなかった。
あれから十年以上経っているが怒りは消えていなかったのかと、香穂の執念深さに卓馬は敵に回さないようにしようと、心の中で誓った。
彼女はまるで怒れる母グマのようだ。
結婚するために日本を離れなければならないと、出発の前日にバーに訪ねてきた香穂に雪乃のことを頼まれた。
決して、卓馬だけは雪乃を裏切らないでくれと──。
頼まれるまでもなかったが、彼女が結婚を渋り出しそうな気がして頷いた。
そんな心配をよそに結婚式の時には、すでに雪乃は落ち着いていて、作家としての一歩を踏み出し朔の存在すら忘れているようだった。
あれから、一度だって朔の名前も話題も出なくなった。
心の傷を癒すには十分な時間だったはずなのに。
卓馬は奥歯を噛み締めた。思わずハンドルを握る手にも力が入る。
「朔……お前は、何を考えてんだよ」
誰にでもなく卓馬は吐き出すと、自宅マンションの地下駐車場へと車を進め、決められた駐車スペースへと停めると乱暴にシートベルトを外して外に出た。
地下駐車場らしい冷たさと、タイヤのゴムと排気ガスの匂いに顔をしかめながら後部座席を開けると、雪乃が身じろいだ。
「んっ……あれ?」
「大丈夫か、雪。わかるか?」
「……卓馬? 同窓会は?」
「綾瀬に任せてきた。覚えてるか? 気を失ったこと」
卓馬は屈むと、ふらふらするのかこめかみを摩る雪乃に手を貸して車から降りるのを手伝った。
「あー、朔と会ったんだっけ」
「ああ」
車の中から雪乃の鞄を拾い上げ、ドアを閉めて鍵をかけると、彼女の腰に手を沿えて歩き出すように促し、エレベーターに歩み寄った卓馬は、車のキーと一緒につけてある鍵をパネルに刺す。
卓馬が住むタワーマンションは、セキュリティーが厳しく、エレベーターも専用の鍵でしか動かない。
おまけに、住んでいる階に直通である。
他人と乗り合わせないという所が、卓馬は煩わしくなくて特に気に入っていた。
流れるような動きで昇っていくエレベーターが最上階で止まると、いくらか彼の肩から力が抜けた。
最上階には二部屋しかなく、今は売りだし中のためより気楽である。
自室の前でパネルに親指を押し当てると、鍵の開く軽やかな電子音がした。雪乃のために扉を押し開け先に通すと、中に入って靴を蹴り脱ぎゲストルームへと真っ直ぐ向かった。
卓馬の部屋は3LDKで、そのうちの一つは雪乃用にしてある。好きな本、好きなアロマ、好きな音楽、パソコン、専用のバスルームとトイレ、ベッドが置かれていた。
卓馬が付き合った相手と長く続かない理由の一つかもしれない。
簡単に部屋に上げない彼が、ようやく招いたと思えば、見ず知らずの女の為の部屋が用意されている。
誰が許すというのだろうか。
決まって、初めて部屋に招いた後には別れを切り出されるのが常だ。
卓馬の中で、唯一相手に求めることは、雪乃を受け入れてくれること。変に勘繰らず、邪険にせず、卓馬の一部だと理解いてくれることだけを望んでいる。
けれど、それが一番の難題でもあった。
雪乃をベッドに腰掛けさせ、卓馬も隣に座ると重みでベッドが音を立てて沈んだ。
「あっ……ごめん。家に行ってくれればよかったのに」
「んなわけにはいかねえよ。旅行中だろ? お前の両親」
「うん……明後日だったかな帰ってくるの」
「なら、それまで泊まってけよ。急ぎの仕事はないんだろ?」
「今の分は順調にいってて、締め切りまでまだあるから大丈夫」
「なら、決まりだ。今日はもう寝ろ。話は明日しよう」
ベッドから立ち上がり、卓馬は部屋から出ていこうとしていたが、コートの裾を引っ張られる感覚に足を止めると振り返った。
「どうした、雪」
コートを握る雪乃の手が、ぴくりと揺れた。大した力が入っている訳ではないから、コートを引き寄せて部屋を出ることも出来る。
けれど、卓馬はそうしなかった。
暫く待っていると、雪乃は恥ずかしそうに口を開いた。
「寝付くまで、一緒に居てくれないかな」
その言葉を言うのに、雪乃は今ある勇気を振り絞った。これまで、人に甘えたことはないし、甘えたいとも思ったことがなかった。今回、朔が帰ってきたことと、見知らぬ男が朔だったという事実は、雪乃の精神を擦り減らすものだった。
心細い。
決して変わらない存在である卓馬に側に居てほしい。
そう考えたら、言葉よりも先に手が動いていた。
長い沈黙の後、卓馬は歩き出し手の中からコートの裾が滑り出ていく。
「あっ……」
思わず出た声に、出入口で止まった卓馬が振り返った。
「楽な服に着替えてくるから、少し待ってろ」
ふわりと笑った卓馬は、斜め向かいにある自室へと姿を消した。
暫く窓の外を眺めていた雪乃は、物音で出入口に目を向けた。
そこには、もう出掛けないということを表すように、黒いロングTシャツと灰色の緩めのズボンを穿いた卓馬が立っていた。手にはハードカバーの本と眼鏡を持っている。
「少しだけつめて」
ベッドに横になって枕を窓側に少しずらすと、彼は椅子に置いてあるクッションを背当てがわりに立てかけると、ベッドの上掛けの上に座った。伸ばした足を足首で交差させて、眼鏡をかけて本を開く。
「ほら、安心して寝ろ」
「……ありがとね、卓馬」
雪乃は卓馬の方を向きながら目を閉じると、規則正しくめくられるページの音だけが、子守唄のように雪乃を眠りへと誘った。
驚愕している雪乃の隣で、向島は突然の来訪者に笑顔で挨拶をしている。
二人の顔を交互にみながら、冷静になりはじめた頭は男が簡単に入れたということは、同窓会に参加する人間だと理解しはじめた。
同学年の人間と関係を持つ以上に、最悪なことはないかもしれない。
雪乃は、二人が談笑をはじめた隙に帰ろうと、向島の背中に隠れながらスツールを降りて、コートを抱えたが──。
「あれ? どちらに行かれるんですか?」
ぎくり、と雪乃の肩が強張った。間違いようのない男の声に、向島も振り返り問い掛けるような眼差しを向けてくるものだから、帰ろうとしていたなんて口に出来なくなった。
「あ、いや……お邪魔かな~と思って」
「何でですか?」
ひどく真面目な顔で言われて、雪乃は顔を引き攣らせた。
「ほら、内々の話だってあるでしょ? 聞いちゃ、悪いかと思って」
「何を言ってるんです? 朝日奈さんだって彼と積もる話があるでしょ」
「は?」
失礼かもしれないが、思わず素っ頓狂な声が出てしまった。
それもそのはず、朝のハプニングの前に会った記憶がないのだから。今回、集まっているのは高校時代の同学年の人たちだが、クラスが一緒になったことのない相手の名前は知るはずもない。
自慢にはならないが、雪乃の交遊関係は広く浅いものではなく、狭く深いものなのだ。
「いや、失礼かもしれないけどこの人、誰?」
北風プラス雪でも降りはじめたのかってくらい、店内は冷たい沈黙に包まれた。
雪乃だけが別の惑星から来た異端者みたいな気分だ。
「本気で言ってます?」
すぐさま頷けば、あちらこちらからため息が聞こえて来る。
「ねえ、朝日奈さんなんて放っておいて、向こうで盛り上がりましょうよ、朔くん」
男の横に立っていた胸元を強調している服を着た子が、彼の腕に自らの腕を絡めた。
あまりの積極的な行動に感心していたせいで、雪乃は危うく重要なことを聞き逃しそうになった。
(ん? さくくん?)
聞き覚えのある名前に、雪乃は男へと視線を戻した。
今朝、戸惑いの中で目にした見た目と変わらない。艶やかな黒髪と灰色の瞳。冷たいとも見える整った顔立ち。
高い身長と広い肩幅。
何一つ変わっていないはずなのに、見る目が変わったからか、昔の記憶と今が点と点でなかなか繋がらない。
それでも、同じクラスに珍しい名前の朔は一人しかいなかった。
「まさか、大上朔?」
冗談であってほしいという思いを込めて言えば、当の本人は雪乃の思いとは裏腹に嬉しそうに顔を綻ばせた。
「そうだよ、ヒナ」
知っている声より低くなった声で朔しか呼ばないあだ名で呼ばれ、頭の奥で一生開かないように鍵を閉めた記憶の保管庫が不可解な音を立てる。
嫌だと思った。あの頃のように傷つきたくない。
雪乃は、近づこうと一歩を踏み出す朔に合わせて、一歩後ずさる。
それは本能的な行動だった。
「ヒナ?」
片方の手で、もう片方の腕を掴んで体ごと引いた拒絶の動作に、朔の顔が曇った。
眉を寄せて、雪乃以上に驚き、傷ついた表情をする彼に、くすぶっている記憶が触れて撫でて慰めたがっている。
「どうかしたか、雪」
もう一歩下がったところで、卓馬の胸にぶつかった。両肩に手が乗せられて、これ以上さがれないことに胸の奥でパニックが沸き上がる。
逃げたい、逃げたい、逃げたい。
対処しきれない感情で、喉が詰まったように感じて息がしづらい。心臓の鼓動が、どんどん速くなって胸が苦しくなってくる。
別に泣きたくもないのに、生理的な涙が目に浮かびはじめた。
(もう嫌だ! 私の平穏を乱さないでよ!)
心の中でそう叫んだ瞬間、目の前が真っ暗になった。
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
ぐにゃりと力の抜けた体が傾ぎ、卓馬は雪乃を受け止めた。
「朔? 雪に……何かしたのか?」
「雪乃!? って、なんであんたがいるのよ!」
異変に気づいた香穂が、人混みを掻き分けて側までくると朔に目を留めて憤った。
予想外の人間の登場に、卓馬の中にある雪乃相手にだけ発揮される守ってやりたいという気持ちが、全面に押し出され、青ざめて動けないでいる朔に、攻撃的な苛立ちが渦巻く。
彼を囲む女たちの存在に、まるで高校時代に戻ったような錯覚さえ覚えた。あの頃も、こうして雪乃は傷ついたのだ。
「出席者の中に、お前の名前はなかったと思ってたんだがな。帰国は一週間後じゃなかったか?」
「僕が……声をかけたんです」
手を上げたのは、向島だった。
「イギリスで雑誌の撮影をしている時に会って、同窓会があることを教えたんですよ」
「チッ……余計なことを」
「朝日奈さんと朔は、親しい友人同士ですよね?」
「他人が勝手に思い描いている関係が、永遠に通じる真実だと思うなよ」
雪乃を抱き上げた卓馬は、真っ正面から向島を睨みつけた。
「朔……勝手にいなくなったお前を、雪が笑顔で迎えてくれるとでも思ってたのか?」
「……卓馬、俺は」
言いよどむ朔に苛立った様子で背を向けた卓馬は、雪乃を抱え直すと歩き出した。
和気あいあいとした雰囲気は無くなり、店の中にいる全員が抱えられている雪乃へと向けられている。注目されることを望んでいないであろう彼女の為に、立ち止まって胸板に顔が押し付けられるようにして足早に横切った。
「ここは勝手に使ってくれ。鍵は綾瀬に渡してくれればいいから」
最も信頼できる香穂の名前を出した卓馬は、朔について来るように頭を傾けた。
雪乃が認めたくなくとも、長い付き合いだっただけに、仕草で読み取りついて来た。もちろん、香穂も。
厨房を抜け、扉を開いて庭で立ち止まった卓馬が振り返ると、今にも泣き出しそうな顔で近づいてくる。
「朔……雪に近づくなとは言わない。けどな、傷つけることだけは許さない。中途半端な気持ちなら、雪との再会は無かったことにして過ごせ」
雪乃に注意を向けている朔が聞いているのか気になりはしたが、強張った肩と顎を見ればきちんと理解しているのだと分かる。
「再会をなかったことには出来ない。俺が何年……この日を夢見ていたか、卓馬には分からないよ」
「ああ、わかんねえよ。わかりたくもねえけどな。まあ、本気なんだったら、何もいわねえよ。雪を傷つけないなら邪魔しない」
卓馬の胸に顔を埋める雪乃の顔が見えるように、髪を耳にかけるために伸ばした朔の手は、傍から見ても分かるほど震えている。
それだけでも、いかに朔の雪乃に対する気持ちが適当なものではないのは分かった。だが、あの日傷つく雪乃を支えた卓馬には、朔の存在は有り難くもない。
その手を振り払うように歩き出すと、先にガレージの扉を開いておいてくれた香穂が車のドアも開けてくれた。
「悪いな」
「あとはあたしが、上手くやっておくから雪乃のそばにいてあげて」
後部座席に雪乃を寝かせ、静かにドアを閉めると朔の方を見ることなく運転席に乗り込みエンジンをかけた。
ガレージから車を出し、ちらりとバックミラーを見ると、香穂が朔の頬を力一杯張るのが見えた。
香穂も朔と雪乃の関係を知っている一人であり、雪乃が立ち直るまでを支えた一人だ。当時も、朔に対する怒りで震えていたが、ぶつけるべき相手は近くにいなかった。
あれから十年以上経っているが怒りは消えていなかったのかと、香穂の執念深さに卓馬は敵に回さないようにしようと、心の中で誓った。
彼女はまるで怒れる母グマのようだ。
結婚するために日本を離れなければならないと、出発の前日にバーに訪ねてきた香穂に雪乃のことを頼まれた。
決して、卓馬だけは雪乃を裏切らないでくれと──。
頼まれるまでもなかったが、彼女が結婚を渋り出しそうな気がして頷いた。
そんな心配をよそに結婚式の時には、すでに雪乃は落ち着いていて、作家としての一歩を踏み出し朔の存在すら忘れているようだった。
あれから、一度だって朔の名前も話題も出なくなった。
心の傷を癒すには十分な時間だったはずなのに。
卓馬は奥歯を噛み締めた。思わずハンドルを握る手にも力が入る。
「朔……お前は、何を考えてんだよ」
誰にでもなく卓馬は吐き出すと、自宅マンションの地下駐車場へと車を進め、決められた駐車スペースへと停めると乱暴にシートベルトを外して外に出た。
地下駐車場らしい冷たさと、タイヤのゴムと排気ガスの匂いに顔をしかめながら後部座席を開けると、雪乃が身じろいだ。
「んっ……あれ?」
「大丈夫か、雪。わかるか?」
「……卓馬? 同窓会は?」
「綾瀬に任せてきた。覚えてるか? 気を失ったこと」
卓馬は屈むと、ふらふらするのかこめかみを摩る雪乃に手を貸して車から降りるのを手伝った。
「あー、朔と会ったんだっけ」
「ああ」
車の中から雪乃の鞄を拾い上げ、ドアを閉めて鍵をかけると、彼女の腰に手を沿えて歩き出すように促し、エレベーターに歩み寄った卓馬は、車のキーと一緒につけてある鍵をパネルに刺す。
卓馬が住むタワーマンションは、セキュリティーが厳しく、エレベーターも専用の鍵でしか動かない。
おまけに、住んでいる階に直通である。
他人と乗り合わせないという所が、卓馬は煩わしくなくて特に気に入っていた。
流れるような動きで昇っていくエレベーターが最上階で止まると、いくらか彼の肩から力が抜けた。
最上階には二部屋しかなく、今は売りだし中のためより気楽である。
自室の前でパネルに親指を押し当てると、鍵の開く軽やかな電子音がした。雪乃のために扉を押し開け先に通すと、中に入って靴を蹴り脱ぎゲストルームへと真っ直ぐ向かった。
卓馬の部屋は3LDKで、そのうちの一つは雪乃用にしてある。好きな本、好きなアロマ、好きな音楽、パソコン、専用のバスルームとトイレ、ベッドが置かれていた。
卓馬が付き合った相手と長く続かない理由の一つかもしれない。
簡単に部屋に上げない彼が、ようやく招いたと思えば、見ず知らずの女の為の部屋が用意されている。
誰が許すというのだろうか。
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卓馬の中で、唯一相手に求めることは、雪乃を受け入れてくれること。変に勘繰らず、邪険にせず、卓馬の一部だと理解いてくれることだけを望んでいる。
けれど、それが一番の難題でもあった。
雪乃をベッドに腰掛けさせ、卓馬も隣に座ると重みでベッドが音を立てて沈んだ。
「あっ……ごめん。家に行ってくれればよかったのに」
「んなわけにはいかねえよ。旅行中だろ? お前の両親」
「うん……明後日だったかな帰ってくるの」
「なら、それまで泊まってけよ。急ぎの仕事はないんだろ?」
「今の分は順調にいってて、締め切りまでまだあるから大丈夫」
「なら、決まりだ。今日はもう寝ろ。話は明日しよう」
ベッドから立ち上がり、卓馬は部屋から出ていこうとしていたが、コートの裾を引っ張られる感覚に足を止めると振り返った。
「どうした、雪」
コートを握る雪乃の手が、ぴくりと揺れた。大した力が入っている訳ではないから、コートを引き寄せて部屋を出ることも出来る。
けれど、卓馬はそうしなかった。
暫く待っていると、雪乃は恥ずかしそうに口を開いた。
「寝付くまで、一緒に居てくれないかな」
その言葉を言うのに、雪乃は今ある勇気を振り絞った。これまで、人に甘えたことはないし、甘えたいとも思ったことがなかった。今回、朔が帰ってきたことと、見知らぬ男が朔だったという事実は、雪乃の精神を擦り減らすものだった。
心細い。
決して変わらない存在である卓馬に側に居てほしい。
そう考えたら、言葉よりも先に手が動いていた。
長い沈黙の後、卓馬は歩き出し手の中からコートの裾が滑り出ていく。
「あっ……」
思わず出た声に、出入口で止まった卓馬が振り返った。
「楽な服に着替えてくるから、少し待ってろ」
ふわりと笑った卓馬は、斜め向かいにある自室へと姿を消した。
暫く窓の外を眺めていた雪乃は、物音で出入口に目を向けた。
そこには、もう出掛けないということを表すように、黒いロングTシャツと灰色の緩めのズボンを穿いた卓馬が立っていた。手にはハードカバーの本と眼鏡を持っている。
「少しだけつめて」
ベッドに横になって枕を窓側に少しずらすと、彼は椅子に置いてあるクッションを背当てがわりに立てかけると、ベッドの上掛けの上に座った。伸ばした足を足首で交差させて、眼鏡をかけて本を開く。
「ほら、安心して寝ろ」
「……ありがとね、卓馬」
雪乃は卓馬の方を向きながら目を閉じると、規則正しくめくられるページの音だけが、子守唄のように雪乃を眠りへと誘った。
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