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第一章「Blue glass」
第5話「heart beat」
しおりを挟む眼中にないとあからさまに誇示していた彼女は、どこまでも私を意識しているようだった。
菫子と涼が手を繋いで河川敷からの道を帰っていた時、偶然薫が現れた。
橋の途中で佇んでいた彼女は、さらりと髪をかきあげながら近づいてくる。
あまりにも都合がいい登場だと思ってしまった菫子だが、薫はいたって普通で。
映画の場面を切り取ったようで、
自然すぎるが故に不自然な登場の仕方だった。
涼が小さく手を上げると薫は、嬉しそうに駆け寄ってきた。
菫子の手から涼の手が離れる。
薫が涼に抱きついたからだ。
しっかりと背中に腕を絡めている。
涼は抱き返すことはせず腕をぶらりと下げたままだ。
菫子は、どうすればいいか分からずに、
二人から距離を取った。
涼の肩に顔を埋めている薫には、菫子の姿は見えない。
いや、薫は菫子など、視界に入れていなかったのだろう。
菫子が隣りにいるにも関わらず涼に、抱きついたのだから。
涼はこっそりと菫子に目線を送った。
”ごめんな、菫子”
涼は目線を送り声をひそめて伝えた。
それを聞いた菫子は、涼に笑顔を向けて歩き出す。
唇を引き結んだ少し無理のある表情だ。
菫子は歯噛みしたくなっていた。
涼に触れられた手のひらは、今もじんじんと熱く疼いている。
「菫子ちゃん、涼はもう返してね。
これからは恋人同士の時間だから」
よく通る薫の声が風に乗って届く。
どこまでも女の匂いがする声。
「薫さん、そんなに守らなくても取ったりしないよ」
振り返らないまま、菫子は強気に返した。
顔を見なくても声に全部出している。勿論意識して。
薫はぎりぎりと、歯軋りしたい思いを堪えていた。
菫子は早足で、その場を立ち去った。
菫子は部屋に戻ると携帯を取り出した。
相手は伊織だ。
何コールかしたあと出た伊織に菫子は、
「伊織、今いいかな」
ベッドに腰掛けながら、話しかける。
「何かあったの?」
最近の菫子を知っている伊織は、
こう聞くことが多くなっていた。
「それ口癖になってる?」
ふふっと董子は笑った。
「菫子が心配かけるからよ?」
「ごめん」
「いいんだけど……」
「薫さんって本当に涼ちゃんのことが好きなんだよね……。
正直怖いくらい」
「そうねえ。菫子のことあんなに敵視してるものね。
草壁くんを独り占めしたい気持ちが強いのよ」
「わかんない」
「菫子?」
「薫さんに敵うわけないじゃない!
綺麗だし、涼ちゃんと付き合ってるのは彼女なわけだし。
涼ちゃんが、私のことを妹みたいで
放っておけないって言ってたの
嬉しそうに伝えに来ておいて、心と行動は別なのよ」
本音だった。
余裕たっぷりの態度を貫いていたはずの
薫が、菫子をやけに目の敵にしている。
涼の近くにいつもいるのは薫の方だ。
菫子は、羨ましくて嫉妬心を隠すのに、
精一杯になっているのだ。
「薫さんがあまりに一生懸命だから、そんなに守らなくても
取ったりしないって言っちゃった」
「ああ、逆効果だわ。火をつけちゃったわよ」
「薫さんを傷つけたものね」
「そういう事じゃなくて、これからは、
もっと気をつけた方がいいわよ」
的を射ているのかよく分からない菫子に、
伊織は呆れ気味である。
「何が?」
「嫉妬に駆られた女は怖いわよ。
話を聞く限り三谷さんって、結構束縛するタイプよね。
これからはどちらかの都合に、合わせても二人で帰らなきゃ。
菫子を一人にさせないために」
「へ、いや大げさだってば」
「そんなことないわよ」
強い口調の伊織に菫子は怯む。
「そうだわ。彼のお見舞い、菫子も一緒に行こ?」
「うん、行くわ。私も伊織の彼に会いたいし。
だけど薫さんについては、
そんなに警戒しなくてもいいんじゃないかなあ」
「駄目よ。心って理屈じゃ割り切れないわ。
口で言っても裏腹な行動に出ちゃう
ことってあるの。
草壁くんのことになったら、
我を失くしたりするかもしれない」
「肝に銘じておきます」
「一緒に帰るっていっても駅は、別だから途中までだけどね」
「毎日伊織と一緒って今までなかったから、
すっごくわくわくしてる」
菫子は高い声を上げて嬉しさを表現した。
「私はいつだって菫子の味方だからね。
告白するのも応援するわ」
「告白なんてできるわけないでしょ」
「いいんじゃない、自分に素直になれば」
「それじゃ悪女だわ!」
「……菫子と悪女って一番結びつかないわね」
伊織の言葉に菫子は心底胸を撫で下ろした。
「ふう、安心した。そうそう涼ちゃんったら
机に突っ伏して寝たら、頭が痛くなるから気をつけろ
とか言ったのよ。お兄ちゃんを通り越してお父さんでしょ」
からからと菫子は笑った。
「……あはは、草壁くんらしいわね」
「でしょう! 菫子は手のかかる奴やなって思ってるのよ」
伊織も笑っている。
「伊織、何だか元気になったよ。ありがとね」
「……元気になったなら良かったけど」
受話器越しを通して苦笑いが伝わってきた。
「えへへ、じゃあね、話聞いてくれて嬉しかった」
誰かに聞いてもらうだけで気持ちはぐっと楽になるのだ。
「話くらいならいくらでも聞くわよ」
「ありがとう、やっぱり伊織は伊織だね」
「当たり前じゃない」
笑い合っていれば、さっきまでの切なさも忘れていられる。
菫子は親友の声に、安堵を覚えていた。
「また大学でね」
「うん」
通話を終了すると、部屋に静寂が戻った。
物寂しさが湧き上がるが、
それでもどこかほっとしている菫子だった。
それから一ヶ月、何事もなく過ぎていった。
現状維持のまま、涼と薫の二人とは、
友達として上手く付き合っている。
ただし表面上のみで心は波打っていた。
今日は、伊織と共に彼女の恋人である
室生優むろうすぐるのお見舞いに行く日。
一緒に帰るといってもいつもは降りる駅が、
違うのだが今日は同じ。
病院は伊織のアパートの目の前にある。
お見舞いの帰りは、そのまま伊織の
アパートに寄って今日は泊まる約束だ。
並木道をざくざくと歩いていく。
枯れ木の寂しい風景だが、春になると桜が咲くらしい。
先ほど駅前の花屋で買った花を伊織は抱えている。
並木道を抜けた先に白い建物……病院があった。
目的の病室をノックすると澄んだ声の返事が聞こえた。
扉を開けるとベッドに半身を起こした青年の姿。
彼は伊織を見て目を細めた後菫子にぺこりと頭を下げた。
「はじめまして、柚月菫子です」
「はじめまして、室生優です。伊織から色々と話聞いてますよ」
自己紹介する二人に伊織が笑う。
「同い年なんだから敬語はいらないんじゃない」
「「そうだけど、初対面だから」」
同じ台詞をはもった菫子と優に伊織は笑いが抑えられない様子だ。
「すごい息ぴったりね、妬けちゃうわ」
「思いっきりおかしそうな声で言われても」
菫子は伊織の肩を指先で叩く。
「菫子ちゃんのことは、伊織から色々聞いてるよ。
ちっちゃいけどいつも元気で頑張り屋だって」
「……ちっちゃいは余計だよ、伊織」
菫子は顔を赤らめた。
「そう? 長所だと思うんだけどな」
「どこが。最大のコンプレックスなのに!」
病室内なので声を抑えつつ菫子は反論する。
伊織はくすくすと口元に手を当てて笑うばかり。
それを見て優は笑顔になっていた。
「いいなあ、僕も混ぜて」
その言葉にぷっと吹き出す菫子と伊織。
薬品の匂いがする病室内。
一件健康な人と変らないように見える優だが、
病気は一進一退といった状態らしい。
あと半年の命と伊織は言っていた。
菫子はその時彼女の瞳に浮かんだ
寂しい光に気づいていたが、何も言わなかった。
今日ここを訪れるまでも
彼の病気のことが、気にかかっていたが、
逆に気遣わない方がいいのだと判断した。
雰囲気を壊す愚かな真似ができようはずもない。
夕陽が沈んでいく景色の中、小さな笑い声が響く病室。
純粋に楽しいと三人ともが感じていた。
「優、寒い? 窓閉めようか」
伊織の声に菫子は窓を見つめる。
窓が開けられた病室では、
風で膨らんだカーテンが揺れていて。
日に日に冷たくなっている秋の風が、
直接病室内に吹き込んでいた。
「うん、ありがとう伊織」
菫子の瞳に、伊織と話す時とても
穏やかな表情をしている優が印象的に映った。
何をするにも優に声を掛けてから動く伊織。
菫子なら窓くらい聞かずに閉めてしまいそうだ。
病室にいた1時間程の間、菫子は優と伊織の二人を見ていて
すごく勇気付けられた。励まされたというべきか。
儚さも脆さも見えない強い絆。
伊織は本当に幸せなんだと感じていた。
優自身も物静かだけれどさりげなく優しくて
見舞いに来たはずが、ベッドの上にいる
彼に気遣われてしまい菫子は少し申し訳なかった。
帰り際ありがとうと柔和な笑みを浮かべた優に
また近い内に伊織とお見舞いに行こうと思った。
「今度はうちに来て、伊織。料理の腕振るうわ」
菫子はぐっと拳を握った。
最近何故か拳を握るのが、癖になっている自分がいた。
気合入れるのには抜群の効果を発揮するのだ。
気持ちの問題かもしれないけれど。
「うん、お邪魔させて」
伊織は泊まりは無理だから、
短い時間しか菫子の部屋に居ることはできない。
こんな時もっと家が近かったらと二人は思う。
「室生くんのお見舞い、連れて行ってくれてありがとうね」
「お礼を言うのはこっちの方よ。
優も菫子が来てくれて楽しそうだったし」
「素敵な人だね。今日会えて本当によかった。
病気の彼の方に色々励まされて、
申し訳なかったけど嬉しかったの」
「自分より周りを気遣う人だから。彼こそ病気なのに
いつも私の心配ばかりしてる。
心配かける私も駄目なんだけどね」
「私からも二人はとっても幸せに見えたわ。
お互いのことを理解して、
手を取り合ってるすごく穏やかな関係。
ちょっと羨ましい……」
無神経な物言いだと菫子は自分自身でも
分かっていたが、言わずにいられなかった。
「ごめん、勝手だよね」
「ううん、そんな風に思ってくれて嬉しい」
菫子はほっとして口元を緩めた。
「二人に大切なことを教えてもらったの。
自分に素直になってもいいのかなって思った」
「あら、今頃気づいたの? 」
「彼女がいるから諦めて、
気持ちを封じなきゃって思ってたのに、
今を大事にしないとあっという間に、
時は過ぎ行くだけだって気づいたの。
勿体ないって」
「うん」
「自分の気持ちにはこれ以上嘘つきたくない。
本当の兄だったらよかったのにとか、
涼ちゃんに口走ったのは、
きっと自分の気持ちから、逃げようとしてたから。
彼のためじゃなくて自分のために、
気持ちを閉じ込めようとしてた」
菫子は伊織を一瞬見やった後、真剣な表情で話を続けた。
「前みたいに笑わなくなった涼ちゃんを見てるのは嫌なの。
砕けた冗談を言うことも減って、
涼ちゃんらしさも失ってるんだよ。
あの頃に戻ることが、幻想に過ぎないのだとしたら、
前に踏み出す方がいいに決まってるもの。
例え取り返しがつかない事態になったとしても」
伊織は目蓋を伏せた後、大きく瞳を開いて菫子を見つめた。
「すごい覚悟ね。偉いぞ、菫子よく言った」
「ちゃんと返事求めてるわけじゃないから、
聞くだけ聞いてねって伝える」
「それがいいわね」
伊織が差し出した手の上に菫子は、自分の手を重ねる。
まるでスポーツの試合の前にする気合入れの如ごとく。
「薫さんに、涼ちゃんを幸せにしてあげて。
もしそれが、できないんなら私が、
彼に告白するからって言うわ」
菫子は悪戯っぽく笑った。
「……奪うって言わない所が菫子ね。
まったく憎らしいほどいい子ね」
「言えないわよ。涼ちゃんが幸せならいいの。
いつも彼らしく在れるのなら。
だから薫さんに宣戦布告する」
菫子は心臓ばくばく状態だ。
部屋の中に響くほど大きな音に、
なっているに違いないと自分でも思っていた。
「見守ってるからね」
伊織は、そう言って菫子の髪を梳いた。
頷く菫子の瞳に迷いはなかった。
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