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第1章
第8話 神殿へ
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【始まりの神殿】と言われるだけあって、城の神殿は【本殿】として別格であった。
ルーナも一級品で、艶があり、傷など一つもない。装飾も大胆で、広範囲に施される。廊下の天井はルーナの一枚板で、複雑な紋様が掘られている。部分的に石造りのところもあるが、そこには彩り豊かなタイルが填められ、繊細で美しい。
途中、神官たち、或いは巫女たちがプロクスを見て壁、あるいは庭の地面まで下がり、片膝をついて深々と礼を取る。イオダスが神鹿軍団長に就任してから、本殿は徹底して規律が守られていた。地方の神殿では、やかましくしゃべりながら寄ってくる神官もいるのを思うと、その違いに苦笑する。
プロクスは、さらに神殿の礼拝所に続く長い廊下を進む。窓がなく、灯火があるものの、夜中のように薄暗い。
廊下を抜けると、天井が半球の形をした部屋に出る。ガラス貼りのため、頭上からは日の光が明るく降り注ぐ。そこにはたくさんの職人がいて、飾られた絵画の修復作業を行なっていた。
そこでプロクスは、日の光の目映さに目を細めながら、歴史を描く壁画を久しぶりに眺めた。
✧ ✧ ✧
――始まりの壁画。美しい、鹿や雄牛のような角を持つ者たちの姿。
かつて、この大陸に精霊族と呼ばれる頭部に角を持つ者たちが、すべての生き物の頂点に立っていた。この地は魔力に満ちあふれ、豊かな国が形成されていた。
精霊族は精霊紋を肌に備え、一人一人強大な魔力を有し、繁栄していった。現在希少な精霊人、竜人などが精霊紋を持つのは、その名残とされる。
――二枚目の壁画。精霊の足下に跪く人間たちと、逃げる者たち。
どうしたことか、ある日魔力を持たない赤子が生まれた。その子たちは皆、角がなかった。
彼らは日増しに増え続け、精霊族は彼らを角無と呼び、奴隷として自分たちに仕えさせた。
数があまりに増えて居場所のなくなった角無たちは、精霊族から山の向こう――大陸の東、この聖地とは名ばかりの魔物溢れるサンクトランティッドに追い出されたのだった。
――三枚目の壁画。角無たちを率いる、濃紺の瞳を持つ騎士、魔術師、賢者。
奴隷を率いたのは、彼ら【夜】の目を持つ者たちだった。【夜】は角がなくとも魔力を体内から生み出した。そして、サンクトランティッドの支配者であった妖魔に戦いを挑んだ。
――四枚目の壁画。漆黒の甲冑、剣を持ち、大蛇の尾を踏み、その首を手にする男。
戦士、ガリウス=ハイキング。
数多の妖魔を殺し、最も魔族に呪われた存在。八人の魔族大公の首を狩った。
壁画に描かれた大蛇は八つ頭があり、ガリウスが断ち切ったその首を天高く掲げている。
他の戦士たちが盾を手に妖魔と戦ったのに対し、彼はそれを持たず、必要最小限の武装をして魔族を滅ぼしていった。頭から血を浴び、足下に広がる血溜まりから、まるで彼は悪魔のように描かれる。
――五枚目の壁画。誘惑する女と、ひれ伏すガリウス。
多くの妖魔を生み出した最悪の女王は、【奈落の魔女】と呼ばれる。壁画では、黒い山羊に裸でまたがった姿で描かれる。壁画の顔の周辺は激しく損傷しており、なびく黒とも赤茶ともつかぬ色彩の断片だけが残る。
雄々しく妖魔を屠っていた英雄は、女の美しさに負け、彼女の手先となった。後に、彼は騎士王の称号を抹消される。
――六枚目の壁画。黄金の甲冑、盾、剣を持ち、戦火の中に立つ男。サンクトランティッド帝国初代王、アトラス=ハイキング。
足下には折れた黒い剣、逃げる妖魔の姿が描かれる。奈落の魔女は吊され、魔を滅する青白い炎に炙られている。この青白い炎は、争いの最中に生まれ、【戦火】と呼ばれるようになる。
――七枚目の壁画。膝をつき、微笑み祈る乙女。赤い髪を飾る【戦火】の冠。
彼女が古代の聖女、女神ハルディアである。アトラス=ハイキングとその王子たちに仕えたという娘。
赤髪の乙女のおかげで、およそ三千年もの間、結界がこの国を守り続けていると云われている。
「七枚目の壁画だけ、随分丁寧に修復したものだ」
プロクスは静かに歩み寄る相手に言う。
「その時の最高の絵師に修復させておりますから」
答えたのは、彼女の弟子のイオダスである。背後には赤い衣を着た神官たちが控えている。
「他の絵画に比べて、随分写実的だ」
プロクスは、ハルディアの顔を指し示す。
すっきり整った鼻梁、今にも震えて開きそうな、伏せられた目。繊細な飾りのような睫。祈る手など、血管が透けて見えそうな白い肌をしている。
「特に民からの信仰の厚い御方ですので、絵師も念入りに修復されたようです」
「しかし、イオ。修復どころか、まるきり違う絵だぞ。これだけ浮いて見えるから、どっちかに合わせた方が良い気がするな。ほら、今修復中だし」
検討いたします、というその素っ気ない返事に、多分検討すらされないだろうなとプロクスは思った。
イオダスはプロクスの隣に立つと、同じように壁画を見上げた。
「……ガリウスと奈落の魔女の絵も修復するのか?」
「ある程度は。しかし、職人たちは呪われると嫌がっておりますね。奈落の魔女が描かれている絵は修復せずとも良いと言ってあります。何でも、昔顔の部分を再生しようとした魔術師が死んだらしいですからね。呪い自体は見当たりませんが、不吉な話です」
「確かに、そんなこともあったな。これも新王即位に当たっての事業か?」
「はい。王女が即位される年に合わせて修復を完成させる予定です」
なるほど、とプロクスは呟いた。
「ゴルダはどうした?」
「ただ今、部屋にて休まれています。また祝賀会が終われば、静養先に戻られるそうです」
「そうか。戻られる前に少し話がしたいから、また伝えておいてくれ」
プロクスは、会議で見たゴルダの様子が気になった。随分弱々しくなっていた。
ゴルダはその気品、慈悲深さ、穏やかな人柄で民からの人気が高い。だが、政権との一線は守り、神官の強硬派を押さえつけてきた。王家からの信頼も厚い、重要な人物だ。
「何を考えておられるか当てましょうか」
壁画を眺めながら神官のことを考えていると、イオダスが声を掛けてくる。
「神官で、残念ながらゴルダ大神官以上にマシな人間はおりません。彼亡き後は大神官の座を巡って争いが起きるでしょうね。あなたが懇意している地方神官のタイタニスとやらにも務まりませんよ」
「ダメかな。彼の父は北の大神官だったが」
タイタニスの父は、高名な神官であり、プロクスの従者でもあった。旅先で亡くならなければ、今頃本殿の神官となっていただろうとプロクスは思う。
「馬鹿真面目で筋肉が自慢なだけの男です。騎士ならまだしも、本殿の神官が務まるとは思えませんね」
「力持ちなことは良いことだ。私が高いところのものを取れなかったら、後ろから抱っこ……」
そこまで言って、プロクスは「抱き上げてくれる」と訂正したが、もう遅い。弟子の顔の黒みが増した気がした。
「そういう時は従者に取らせるものだ。注意しておかねば」
「楽しいから良いのだよ」
楽しい、とイオダスは呟きながら首を傾げる。
「……ところで、車の準備が整いました。【商人】たちもご一緒いたしますよ」
「そうか。あ、それを言いに来たのかな?君の新規事業と聞いて結構ワクワクしていたんだ」
「ワクワク、ですか?」
「弟子の活躍を見るのは嬉しいことだ」
いくら異形になろうと、プロクスの目には在りし日の弟子のまま。初めて会った時、睨むようにこちらを見つめていた、気の強そうな少年を思い出す。
「明日からお休みなんだ。宴に出たら、そのあたりぶらぶらしてこようと思う」
「また適当なことを。騎士王の肩書きが消えるわけではありませんよ」
イオダスはプロクスの手を取ると、するりと自分の左肘にのせる。
「……その服、お似合いです」
そして、プロクスの手に自分の手をそっと重ねて彼女を誘導する。
神殿を出ると、石畳に大きな鉄の塊のような車が止まっていた。まるで小さな家のようで、車を引くのは馬ではなく、目を赤く血走らせた黒い牛が六頭。
プロクスは動物が好きだった。牛に近づき、筋肉隆々の背中や脚を眺める。その顔はとても大きく、首など腕が回らないほど太い。荒い鼻息がふんと当たって、プロクスの頭巾が飛びそうになる。
それを、横から来たイオダスが大きな手でぺたりと押さえつけた。
「遊んでないで、早くこちらへ」
イオダスに手を引かれ、プロクスは急ぎ足で車に向かう。
階段を上ろうとしたところ、イオダスが後ろからひょいと彼女の脇を抱え上げて、そっと車に乗せる。
「どうしたの、急に」
いつもは師匠を丁重に扱う弟子のその行動に吃驚して、プロクスはぽかんとした。
「楽しかったですか?」
黒真珠の顔が、プロクスに問う。その背後では、無表情の神殿兵たちと、目を丸くした神官がいる。
意味がわからず、彼女は弟子の顔を凝視した。
「楽しかったですか」
再度問われて、プロクスは先程の会話を思い出した。
「……イオ、何も皆の前で……」
「いくら息子のような存在だからと言って、容易に体に触れさせぬことです。騎士王たる者、けじめをつけていただかねば困りますね」
イオダスはそう言うと、扉を閉めた。
してやられた、とプロクスはため息ついて空席に向かう。
車の中は赤い革張りの座席が向かい合うように並べられ、中央に丸いテーブルが三つおかれていた。宝石や黄金でできたゲーム盤、艶々の果物が燭台の明かりにきらきら光る。
『やぁ、プロクス=ハイキング』
赤い座席に、ぼやけた影が現れる。それは足先からしっかりとした輪郭を著し、数秒後には黒い頭巾、長衣をまとった者たちが次々と出現する。
――彼らこそ、【商人連】だった。
ルーナも一級品で、艶があり、傷など一つもない。装飾も大胆で、広範囲に施される。廊下の天井はルーナの一枚板で、複雑な紋様が掘られている。部分的に石造りのところもあるが、そこには彩り豊かなタイルが填められ、繊細で美しい。
途中、神官たち、或いは巫女たちがプロクスを見て壁、あるいは庭の地面まで下がり、片膝をついて深々と礼を取る。イオダスが神鹿軍団長に就任してから、本殿は徹底して規律が守られていた。地方の神殿では、やかましくしゃべりながら寄ってくる神官もいるのを思うと、その違いに苦笑する。
プロクスは、さらに神殿の礼拝所に続く長い廊下を進む。窓がなく、灯火があるものの、夜中のように薄暗い。
廊下を抜けると、天井が半球の形をした部屋に出る。ガラス貼りのため、頭上からは日の光が明るく降り注ぐ。そこにはたくさんの職人がいて、飾られた絵画の修復作業を行なっていた。
そこでプロクスは、日の光の目映さに目を細めながら、歴史を描く壁画を久しぶりに眺めた。
✧ ✧ ✧
――始まりの壁画。美しい、鹿や雄牛のような角を持つ者たちの姿。
かつて、この大陸に精霊族と呼ばれる頭部に角を持つ者たちが、すべての生き物の頂点に立っていた。この地は魔力に満ちあふれ、豊かな国が形成されていた。
精霊族は精霊紋を肌に備え、一人一人強大な魔力を有し、繁栄していった。現在希少な精霊人、竜人などが精霊紋を持つのは、その名残とされる。
――二枚目の壁画。精霊の足下に跪く人間たちと、逃げる者たち。
どうしたことか、ある日魔力を持たない赤子が生まれた。その子たちは皆、角がなかった。
彼らは日増しに増え続け、精霊族は彼らを角無と呼び、奴隷として自分たちに仕えさせた。
数があまりに増えて居場所のなくなった角無たちは、精霊族から山の向こう――大陸の東、この聖地とは名ばかりの魔物溢れるサンクトランティッドに追い出されたのだった。
――三枚目の壁画。角無たちを率いる、濃紺の瞳を持つ騎士、魔術師、賢者。
奴隷を率いたのは、彼ら【夜】の目を持つ者たちだった。【夜】は角がなくとも魔力を体内から生み出した。そして、サンクトランティッドの支配者であった妖魔に戦いを挑んだ。
――四枚目の壁画。漆黒の甲冑、剣を持ち、大蛇の尾を踏み、その首を手にする男。
戦士、ガリウス=ハイキング。
数多の妖魔を殺し、最も魔族に呪われた存在。八人の魔族大公の首を狩った。
壁画に描かれた大蛇は八つ頭があり、ガリウスが断ち切ったその首を天高く掲げている。
他の戦士たちが盾を手に妖魔と戦ったのに対し、彼はそれを持たず、必要最小限の武装をして魔族を滅ぼしていった。頭から血を浴び、足下に広がる血溜まりから、まるで彼は悪魔のように描かれる。
――五枚目の壁画。誘惑する女と、ひれ伏すガリウス。
多くの妖魔を生み出した最悪の女王は、【奈落の魔女】と呼ばれる。壁画では、黒い山羊に裸でまたがった姿で描かれる。壁画の顔の周辺は激しく損傷しており、なびく黒とも赤茶ともつかぬ色彩の断片だけが残る。
雄々しく妖魔を屠っていた英雄は、女の美しさに負け、彼女の手先となった。後に、彼は騎士王の称号を抹消される。
――六枚目の壁画。黄金の甲冑、盾、剣を持ち、戦火の中に立つ男。サンクトランティッド帝国初代王、アトラス=ハイキング。
足下には折れた黒い剣、逃げる妖魔の姿が描かれる。奈落の魔女は吊され、魔を滅する青白い炎に炙られている。この青白い炎は、争いの最中に生まれ、【戦火】と呼ばれるようになる。
――七枚目の壁画。膝をつき、微笑み祈る乙女。赤い髪を飾る【戦火】の冠。
彼女が古代の聖女、女神ハルディアである。アトラス=ハイキングとその王子たちに仕えたという娘。
赤髪の乙女のおかげで、およそ三千年もの間、結界がこの国を守り続けていると云われている。
「七枚目の壁画だけ、随分丁寧に修復したものだ」
プロクスは静かに歩み寄る相手に言う。
「その時の最高の絵師に修復させておりますから」
答えたのは、彼女の弟子のイオダスである。背後には赤い衣を着た神官たちが控えている。
「他の絵画に比べて、随分写実的だ」
プロクスは、ハルディアの顔を指し示す。
すっきり整った鼻梁、今にも震えて開きそうな、伏せられた目。繊細な飾りのような睫。祈る手など、血管が透けて見えそうな白い肌をしている。
「特に民からの信仰の厚い御方ですので、絵師も念入りに修復されたようです」
「しかし、イオ。修復どころか、まるきり違う絵だぞ。これだけ浮いて見えるから、どっちかに合わせた方が良い気がするな。ほら、今修復中だし」
検討いたします、というその素っ気ない返事に、多分検討すらされないだろうなとプロクスは思った。
イオダスはプロクスの隣に立つと、同じように壁画を見上げた。
「……ガリウスと奈落の魔女の絵も修復するのか?」
「ある程度は。しかし、職人たちは呪われると嫌がっておりますね。奈落の魔女が描かれている絵は修復せずとも良いと言ってあります。何でも、昔顔の部分を再生しようとした魔術師が死んだらしいですからね。呪い自体は見当たりませんが、不吉な話です」
「確かに、そんなこともあったな。これも新王即位に当たっての事業か?」
「はい。王女が即位される年に合わせて修復を完成させる予定です」
なるほど、とプロクスは呟いた。
「ゴルダはどうした?」
「ただ今、部屋にて休まれています。また祝賀会が終われば、静養先に戻られるそうです」
「そうか。戻られる前に少し話がしたいから、また伝えておいてくれ」
プロクスは、会議で見たゴルダの様子が気になった。随分弱々しくなっていた。
ゴルダはその気品、慈悲深さ、穏やかな人柄で民からの人気が高い。だが、政権との一線は守り、神官の強硬派を押さえつけてきた。王家からの信頼も厚い、重要な人物だ。
「何を考えておられるか当てましょうか」
壁画を眺めながら神官のことを考えていると、イオダスが声を掛けてくる。
「神官で、残念ながらゴルダ大神官以上にマシな人間はおりません。彼亡き後は大神官の座を巡って争いが起きるでしょうね。あなたが懇意している地方神官のタイタニスとやらにも務まりませんよ」
「ダメかな。彼の父は北の大神官だったが」
タイタニスの父は、高名な神官であり、プロクスの従者でもあった。旅先で亡くならなければ、今頃本殿の神官となっていただろうとプロクスは思う。
「馬鹿真面目で筋肉が自慢なだけの男です。騎士ならまだしも、本殿の神官が務まるとは思えませんね」
「力持ちなことは良いことだ。私が高いところのものを取れなかったら、後ろから抱っこ……」
そこまで言って、プロクスは「抱き上げてくれる」と訂正したが、もう遅い。弟子の顔の黒みが増した気がした。
「そういう時は従者に取らせるものだ。注意しておかねば」
「楽しいから良いのだよ」
楽しい、とイオダスは呟きながら首を傾げる。
「……ところで、車の準備が整いました。【商人】たちもご一緒いたしますよ」
「そうか。あ、それを言いに来たのかな?君の新規事業と聞いて結構ワクワクしていたんだ」
「ワクワク、ですか?」
「弟子の活躍を見るのは嬉しいことだ」
いくら異形になろうと、プロクスの目には在りし日の弟子のまま。初めて会った時、睨むようにこちらを見つめていた、気の強そうな少年を思い出す。
「明日からお休みなんだ。宴に出たら、そのあたりぶらぶらしてこようと思う」
「また適当なことを。騎士王の肩書きが消えるわけではありませんよ」
イオダスはプロクスの手を取ると、するりと自分の左肘にのせる。
「……その服、お似合いです」
そして、プロクスの手に自分の手をそっと重ねて彼女を誘導する。
神殿を出ると、石畳に大きな鉄の塊のような車が止まっていた。まるで小さな家のようで、車を引くのは馬ではなく、目を赤く血走らせた黒い牛が六頭。
プロクスは動物が好きだった。牛に近づき、筋肉隆々の背中や脚を眺める。その顔はとても大きく、首など腕が回らないほど太い。荒い鼻息がふんと当たって、プロクスの頭巾が飛びそうになる。
それを、横から来たイオダスが大きな手でぺたりと押さえつけた。
「遊んでないで、早くこちらへ」
イオダスに手を引かれ、プロクスは急ぎ足で車に向かう。
階段を上ろうとしたところ、イオダスが後ろからひょいと彼女の脇を抱え上げて、そっと車に乗せる。
「どうしたの、急に」
いつもは師匠を丁重に扱う弟子のその行動に吃驚して、プロクスはぽかんとした。
「楽しかったですか?」
黒真珠の顔が、プロクスに問う。その背後では、無表情の神殿兵たちと、目を丸くした神官がいる。
意味がわからず、彼女は弟子の顔を凝視した。
「楽しかったですか」
再度問われて、プロクスは先程の会話を思い出した。
「……イオ、何も皆の前で……」
「いくら息子のような存在だからと言って、容易に体に触れさせぬことです。騎士王たる者、けじめをつけていただかねば困りますね」
イオダスはそう言うと、扉を閉めた。
してやられた、とプロクスはため息ついて空席に向かう。
車の中は赤い革張りの座席が向かい合うように並べられ、中央に丸いテーブルが三つおかれていた。宝石や黄金でできたゲーム盤、艶々の果物が燭台の明かりにきらきら光る。
『やぁ、プロクス=ハイキング』
赤い座席に、ぼやけた影が現れる。それは足先からしっかりとした輪郭を著し、数秒後には黒い頭巾、長衣をまとった者たちが次々と出現する。
――彼らこそ、【商人連】だった。
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