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鈴霞イシ

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A Painful Rain〜痛みの雨

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 頬が濡れる感覚。意識が覚醒する。
 確かに夢を見ていた。悲しいけれど大切な夢だった。そう思うのだけれど、どんな話だったかイマイチ思い出せない。

 雨が降り出した。身体がパタパタと音をたてて湿っていくので、それがわかる。

 眼を開けようとするが、顔面が熱を持って腫れ上がっているのだろう。瞼が重く、持ち上がらない。まるでそんな機能なんて元々なかったかの様だ。心臓と同じくらい不随意だった。

 雨足が強くなる。熱を持った身体が少しずつ冷やされるのが心地良かったが、濡れた身体が、ゆっくりと火焔に焼かれるのを連想させる程じわじわと、痛んだ。多分どこかしこ裂けている。
逃れられない痛み。

「落ち着くな……」

 口が多分裂けている。声と思しき声はではなかったが、そんな言葉を吐いた。僕は痛みから、解放されてはならない。罪は贖罪なんてもので贖うことはできないからだ。必要なのは悔いることではなく、改めること。それで初めて減罪できるのだから、どう改めるかわからない僕は、一生焼かれ続けなくてはならない。

 そして、はっとする。
 思わず鼻を触る。
 正しくは、触ろうとした。

 やはり意識に反して思う様に腕は上がらず、軋む身体をようやく動かして鼻に手をやる。
熱い。呻き声が出る。

 鼻は、鼻は厭なんだ。潰れているかもしれない。それだけは、それだけは駄目なんだ。ちゃんと元通りに治れば良いな。そう思ってしまう僕は、やっぱり罪深い。

「駄目だった」

 また雨足が強くなる。少しだけ眼が開く。やはり痛みが心地良い。気を失っている時間がどの程度だったのかはわからない。長かったような気もするし、そんなに経っていないような気もする。でも、一瞬って感じではない。

 どちらにせよ、もうあいつらは僕に興味を失ってどこかに行ってしまった事だろう。最後に聞いたあいつらの高笑い。それを思い出して表情を失う。血の気が引いていくのがわかった。ぐっと拳を握る。筋肉痛に似てはいるけれど今までに感じた事のない激しい痛み。顔が歪むが、それでも構わず、血が滲むほど強く握る。

「ウウーーーア゛ァァーーーー!」

 慟哭。頭が沸騰するようだ。肺から空気を搾り出したのだろう。鼻を殴られた時のように眼がチカチカした。ガクンと身体から力が抜ける。そのままの勢いで額を地面に打ち付ける。がっ、と鈍い音がした。

 何度も打ち付ける。額が割れる。熱い液体がドロドロと顔を濡らす。

「こんなんじゃ、駄目なんだ」

 虚な眼でそう呟く。と、その時ぼやけた視界の端に奇妙な物があった。靴だ。紅い靴。視線をゆっくりと上にあげる。男が、居た。

 羽根のように繊細に軽く、トンっと踵を浮かせて立っている。昔読んだ漫画、残念ながら後で無かったことにされた中国武術編。その中に出て来た年老いた武術の達人のようだ、と思った。水に浮かせた竹に立つ描写とそっくりな佇まいだ。

 性格は物腰でわかると、母さんもよく言っていた。この男の周りだけ、空気が静かに落ち着いているように感じる。それは、赤い派手な靴とは対照的で、チグハグな印象だった。

「ウーッヒャッハッハッ! 俺様登場!」
 甲高い声でそうやって楽しそうに笑うそいつはこう言った。鋭く白い、鮫のように尖った歯が光る。

「寝ぼけてんのかあ? 仕事は敬虔にやれって言うだろ? 俺様に俺様の仕事をさせるのはお前の仕事だ! さあ、立て! このまんま俺様が何もせずお前が死にましたじゃあ、何処に敬虔さがある?」

「だれ……。だ……」

「ヒーャッハー、自分から名乗らぬ相手に教える名前はねえっ! そんな事もお袋さんに教わらなかったのかあ? まず、名を名乗れ。ジャスティンビーバーだってそう言ってるぜ!」

ギザギザの歯を剥き出しにして、男は笑う。何がそんなに楽しいんだろう?

「さあ、殺すぜ! しぶとく生き抜いてみせろやっ! 敬虔にな!」

意識が漂い、遠くの声が聞こえる。それは優しい声だった。母親の声だ。僕はその声に引き寄せられるようにして、過去の思い出の中へと沈んでいく。


************


「君ってさ、何か夢中になれることってないのかい?」

トポトポと音をさせながらポットからお湯を注ぎ、ゆっくりとスプーンで珈琲をかき混ぜながら、眠そうなゆっくりとした声で母さんはそう言った。

「昨晩、またしても未明のことです―ー」
 テレビから流れるニュースは昨晩あった事件のことを告げている。最近連続している同じ犯人と思しき事件を、深刻そうな声色だがどこかしら興奮気味に伝える。面白がっているのかもしれない。こちらとしては、不謹慎ながら聞き飽きてしまっている。

「大学だってさ、君があんな必死になって受験勉強するもんだから何かやりたいことでも出来たのかと思っていたんだけれど、特に楽しそうに通っているようには見えないしさ」

「別に平穏な日常を享受させて貰ってるだけだよ。淡々と、入れ込みすぎず、偏らず。それが人生の真理だって過去の経験で学んだんだ。その方が母さんも安心してみていられるだろう?」

「それにしたってもう少しくらい若者らしい愚かな時期を過ごしたって、母さんは構わないと思ってるんだよ? まあ、君に辛い事が起きないなら、母親としてはそれが一番なんだけれどもさ」

 言われてみれば確かに、かなりの無理をして行きたかった大学の合格は勝ち取ったものの、特定の何かに熱中することもなく入学から一年が経過していた。特定の専門に力を入れる訳でもなく、かと言って遊びやバイトに熱が入った訳でもなく。平穏を摘んで生きていた。

「だけれども、お父さんと同じで、母さんだっていつまで生きているかわからないんだしさ。今日が最後かもしれない。だったら君には毎日楽しそうに笑っていて欲しいじゃないか」

 そう言って母さんは僕の鼻の方に手を伸ばす。彼女の小さな手で優しく触ろうとする。それを顔の動きで躱してこう言った。

 母さんは心底残念そうにしている。写真の中にしか見たことのない父さんの綺麗な鼻筋。基本的に母似の僕が父さんから受け継いだ唯一と言える顔の特徴で、母さんはそれをすぐ触ろうとしてくる。

 まあ僕も、会ったこともない父さんとの繋がりを感じられる部分なんてそれくらいしか無かったから、まんざら嫌な気分でもない。

 声だって性格だってわからないんだから。

「その分あの時みたいに、心配させる事が増えるかもしれないよ? 多分そうなったら、良い時も増えるけれど、最悪の時だってあるかもしれない。泣いちゃうかも。そして、それがその日かもよ?」

 そんな事を言われると思ってもみなかったのか、母さんの表情が一瞬固まった。

「そんなこと……」

 母さんはちょっと考え込む。整った顔に陰が差した。

 若くして父さんと結婚した母さんは、息子の僕から見ても未だに綺麗だ。後ろに結わえた綺麗な髪と整った顔。切れ目がちのちょっと怖い印象の眼だけれど美しさを損なうわけでもない。年齢以上に、というか昔の写真と代わり映えしなさ過ぎて一緒に歩くと姉弟と間違われる程だ。
 別にそれで嬉しそうにしている母さんを見たことがないのだが。

 そんな母さんの表情が曇ってしまう。意地悪なことを言ってしまったかな? そう思ったが、母さんはすぐにちょっと悔しそうな、でもちょっと嬉しそうな顔でこう言った。

「君は、いつのまにそんな風に言い返せるようになったんだい? まあ、良いよ。君が好きなように過ごしてくれるのが母さんの一番さ。夢中になれるものなんてなくたっていいさーー」

 一瞬言葉を切る。

「ーーああ、でも陽菜ちゃんだけは別かな?」

 仕返しとばかりに母さんはニンマリと笑う。
ニュースキャスターが7時を告げる。さあ、もう家を出る時間だ。




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鈴霞イシ
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