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雑務に追われている時に、ふっと目の前に誰かの気配があった気がして顔を上げた。しかし、案の定そこには誰もいない。こんなことは以前もあったものだが、このところはその気配が彼女に思えてならなかった。
視線を巡らせ、彼女の姿を無意識に探す。仕事に追われている人の中で、自分のペースをいつでも崩さない彼女は、人によって苛立つ者も中にはいる。真也のように落ち着く人もいるが、極めて少数派で、大半は気にも止めていない。
視界の端に目的の人物、木野楓子の姿を認めた時だった。デスクの左側に設置された白い固定電話が甲高い声を上げる。
真也はそれを咄嗟に左手で取ろうとして舌打ちし、電話機を移動して右手で取る。左利きは両利きになれると信じていた頃の名残で、つい右手でペンを取ろうとしてしまうが、そろそろこの癖も直さないといけない。
木野楓子をつい目で追いかけることも。
「はい、矢木不動産の高藤です」
相手の怒りを上手に鎮めてしまいながら、目の前を横切る楓子と束の間視線が合い、絡まる。見えない糸が結ばれて解けなくなる寸前、手元のメモ用紙に目線を下ろし、電話の内容を走り書きした。
淡々とその作業を続けるうち、目の前にいた楓子の気配が遠ざかる。知らずに詰めていた息を吐き出した。
「高藤が溜息を吐くとは珍しい。よほど厄介な相手だったんだな。もしかして相手はこの間契約した水城様か?」
隣の席の川凪が笑い含みに声を掛けてくる。同期とあって気安い間柄だが、川凪は何事も楽観的に考え過ぎるきらいがあり、川凪に救われるかどうかは時と場合による。
「ああ、そんなところだ」
メモ用紙を見下ろしながらそれだけ呟くと、川凪が横から覗き込んできて言った。
「これ、何て書いてあるんだ?」
川凪がそう言ったのも無理はない。メモ用紙には、意味のない言葉の羅列を書き殴っていた。
溜息を吐いて立ち上がり、メモ用紙を丸めてゴミ箱に放り込む。その時ちょうど、壁の年季が入った柱時計が十二時を知らせた。
「どこ行くんだ」
「休憩」
だったら俺もとついて来そうな川凪を振り切って、会社の外に出た。別段、川凪が嫌いなわけではないが、一人になりたい時もある。それだけだ。
中都市の中でも、比較的車の通りが多い国道沿いに真也の勤める不動産会社はある。近頃都市開発が進み、便利な店も増え始めたが、張りぼてのように見掛け倒しの都会化に思えてならない。
自分の勤める不動産会社を振り返った後、ゆっくりと通り沿いにあるレストランへ向かいかけた時、内ポケットに入れたスマートフォンが震えた。すぐに途絶えた振動で、電話ではなく、メッセージアプリの受信だと分かる。
気が重くなりながら取り出して中を見ると、思った通りの相手からだった。
「駅前のカフェで待ってる。いつものお店」
アイコンが赤い鳥のままだ。だとしたら、まだ大丈夫だ。
時間を確認し、雲一つない空を見上げた後、真夜は妻の元へ歩き出す。
ところが、数歩進んだところで、重石をつけているように自分の足が思い通りに動かないことに気が付いた。さらに、炎天下でもないのに汗が噴き出す。それも尋常ではない量だ。
構わずに無理やり前進を続けると、耳鳴りに加え、雲の上を歩いているような心許なさに襲われた。
「真也、好きよ。好き」
二ヵ月程前、妻の朱海を最後に抱いた時に囁かれた台詞。ただの睦言のはずのそれが、首元に巻き付き、気道を締めてくる。
「真也、ねぇ、真也、お願い」
一歩ずつ歩みを進めるごとに、朱海の声が大きく、はっきりと聞こえてくる。次第に今と過去の境目が曖昧になり、自分が何者かさえ分からなくなりかけたところで、目的の店へ辿り着いた。
駅通りにあるこの喫茶moonという店は、朱海と初めてのデートの時に来たのだが、店員が無口で変わり者として有名だ。初めて来た時は、そんな事前情報もなしに入ったせいか驚かされたものだが、二人して笑い合った記憶がある。以来、なんとなく通うようになった喫茶店。しかしそれも、朱海とこうなる前のことで、最近は全く来ていなかった。恐らく朱海もそうだろうが、何故この店を選んだのか分からない。
満月と黒猫が描かれた看板を見上げ、心を鎮めるために一つ深呼吸をする。その時ふと視線を感じた気がしたが、嫌な類のものではなかったので、そのまま店内へ入ることにした。
足を一歩踏み入れると同時に、静かなクラシックの音色が鼓膜をくすぐる。仄かに灯った照明の中で、客がまばらにいるのが見て取れた。見渡すまでもなく、窓もない奥の席に目的の人物を見つける。ショートボブの暗く虚ろな目をした女。美しい容姿をしているだけに、一層怪しげな魅力が際立っていた。
本当にあれは自分の妻かと疑うほどに。
店員はちらりと真也へ視線を寄越しただけで、座席を勧めることもない。今はそれがかえってありがたかったが、すぐには動き出せなかった。
「降ってきた」
客の一人がそんなことを呟いたのを耳にして、ようやく金縛りが解けて動き出す。
一歩ずつ朱海の元へ近付いて行くと同時に雨脚が強くなり、次第に蝉の泣き声がクラシックの音色を掻き消していった。
視線を巡らせ、彼女の姿を無意識に探す。仕事に追われている人の中で、自分のペースをいつでも崩さない彼女は、人によって苛立つ者も中にはいる。真也のように落ち着く人もいるが、極めて少数派で、大半は気にも止めていない。
視界の端に目的の人物、木野楓子の姿を認めた時だった。デスクの左側に設置された白い固定電話が甲高い声を上げる。
真也はそれを咄嗟に左手で取ろうとして舌打ちし、電話機を移動して右手で取る。左利きは両利きになれると信じていた頃の名残で、つい右手でペンを取ろうとしてしまうが、そろそろこの癖も直さないといけない。
木野楓子をつい目で追いかけることも。
「はい、矢木不動産の高藤です」
相手の怒りを上手に鎮めてしまいながら、目の前を横切る楓子と束の間視線が合い、絡まる。見えない糸が結ばれて解けなくなる寸前、手元のメモ用紙に目線を下ろし、電話の内容を走り書きした。
淡々とその作業を続けるうち、目の前にいた楓子の気配が遠ざかる。知らずに詰めていた息を吐き出した。
「高藤が溜息を吐くとは珍しい。よほど厄介な相手だったんだな。もしかして相手はこの間契約した水城様か?」
隣の席の川凪が笑い含みに声を掛けてくる。同期とあって気安い間柄だが、川凪は何事も楽観的に考え過ぎるきらいがあり、川凪に救われるかどうかは時と場合による。
「ああ、そんなところだ」
メモ用紙を見下ろしながらそれだけ呟くと、川凪が横から覗き込んできて言った。
「これ、何て書いてあるんだ?」
川凪がそう言ったのも無理はない。メモ用紙には、意味のない言葉の羅列を書き殴っていた。
溜息を吐いて立ち上がり、メモ用紙を丸めてゴミ箱に放り込む。その時ちょうど、壁の年季が入った柱時計が十二時を知らせた。
「どこ行くんだ」
「休憩」
だったら俺もとついて来そうな川凪を振り切って、会社の外に出た。別段、川凪が嫌いなわけではないが、一人になりたい時もある。それだけだ。
中都市の中でも、比較的車の通りが多い国道沿いに真也の勤める不動産会社はある。近頃都市開発が進み、便利な店も増え始めたが、張りぼてのように見掛け倒しの都会化に思えてならない。
自分の勤める不動産会社を振り返った後、ゆっくりと通り沿いにあるレストランへ向かいかけた時、内ポケットに入れたスマートフォンが震えた。すぐに途絶えた振動で、電話ではなく、メッセージアプリの受信だと分かる。
気が重くなりながら取り出して中を見ると、思った通りの相手からだった。
「駅前のカフェで待ってる。いつものお店」
アイコンが赤い鳥のままだ。だとしたら、まだ大丈夫だ。
時間を確認し、雲一つない空を見上げた後、真夜は妻の元へ歩き出す。
ところが、数歩進んだところで、重石をつけているように自分の足が思い通りに動かないことに気が付いた。さらに、炎天下でもないのに汗が噴き出す。それも尋常ではない量だ。
構わずに無理やり前進を続けると、耳鳴りに加え、雲の上を歩いているような心許なさに襲われた。
「真也、好きよ。好き」
二ヵ月程前、妻の朱海を最後に抱いた時に囁かれた台詞。ただの睦言のはずのそれが、首元に巻き付き、気道を締めてくる。
「真也、ねぇ、真也、お願い」
一歩ずつ歩みを進めるごとに、朱海の声が大きく、はっきりと聞こえてくる。次第に今と過去の境目が曖昧になり、自分が何者かさえ分からなくなりかけたところで、目的の店へ辿り着いた。
駅通りにあるこの喫茶moonという店は、朱海と初めてのデートの時に来たのだが、店員が無口で変わり者として有名だ。初めて来た時は、そんな事前情報もなしに入ったせいか驚かされたものだが、二人して笑い合った記憶がある。以来、なんとなく通うようになった喫茶店。しかしそれも、朱海とこうなる前のことで、最近は全く来ていなかった。恐らく朱海もそうだろうが、何故この店を選んだのか分からない。
満月と黒猫が描かれた看板を見上げ、心を鎮めるために一つ深呼吸をする。その時ふと視線を感じた気がしたが、嫌な類のものではなかったので、そのまま店内へ入ることにした。
足を一歩踏み入れると同時に、静かなクラシックの音色が鼓膜をくすぐる。仄かに灯った照明の中で、客がまばらにいるのが見て取れた。見渡すまでもなく、窓もない奥の席に目的の人物を見つける。ショートボブの暗く虚ろな目をした女。美しい容姿をしているだけに、一層怪しげな魅力が際立っていた。
本当にあれは自分の妻かと疑うほどに。
店員はちらりと真也へ視線を寄越しただけで、座席を勧めることもない。今はそれがかえってありがたかったが、すぐには動き出せなかった。
「降ってきた」
客の一人がそんなことを呟いたのを耳にして、ようやく金縛りが解けて動き出す。
一歩ずつ朱海の元へ近付いて行くと同時に雨脚が強くなり、次第に蝉の泣き声がクラシックの音色を掻き消していった。
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