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本編
73:どうか幸せに
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「こっちだよ。はやく、はやく!」
まだぬいよりも背丈が小さかった弟が急かしながら手を引っ張る。握り返す手はとても小さく、彼女自身も子供になっていた。このころはまだ両親も表面上は優しく、何の心配も不安もなかったと思い出す。
「ちょっと、そんなに慌てたら危ないよ」
「姉さんがよくつまづくのはしってる」
そう言うと、弟は後ろを向いて笑った。ぬいはそれを認めたくないのか、むくれ顔になった。
弟は再び前を向いて、進んでいく。やけに長く感じた道には何もない。それでもこの先に待っているものへの期待で、胸がいっぱいになる。
「ついた!ほら、急いだかいがあったと思わない?」
開けた道の先にはあたり一面紫色に包まれていた。その光景にぬいは目を奪われ、感嘆をもらす。
「すごい……こんなにたくさんのラベンダー畑。はじめて見たよ」
ぬいはここで確信した。ここは夢の中であると。過去を取り戻したとはいえ、細かい記憶はうすぼんやりしている。
だが、自然豊かな光景が見られるような世界ではなかったことは、確信できる。もっと荒廃していて、一部でしか見られなかったはずだ。だからこそ、強く心が揺さぶられる。
このまま浸っていたいが、また現実から遠ざかっているのではないかと、ぬいは不安になった。
「どうしたの?いいから、向こうまで行ってみようよ」
弟はそう言うと、走り出した。ぬいも後を追うが、足がもつれてうまく走れない。そうでなくとも、元々彼女の運動能力はあまり高くない。あっという間に弟の姿は掻き消えた。
「……はあ……ふぅ」
息が持たずぬいはその場に立ち止まり、膝を曲げると呼吸をする。しばらくそうしていると、後ろから肩を叩かれた。その手は大きく、小さな弟のものではない。
「大丈夫?」
そう心配そうにかける声は低い。だが、聞き覚えがあった。ぬいは立ち上がると、振り返る。
「うん、もう大丈夫だよ」
後ろに立っていたのは、自分と少し似ている成人男性であった。ぬいが亡くなる直前に見た、弟の姿である。
「本当に?一人で歩いて行ける?」
「立ち止まることはあっても、ちゃんと歩いて行ける。それに、わたしはもう一人じゃないから」
ぬいがそう言い切ると、弟はどこか寂しそうに笑った。
「姉さんにはちゃんと頼れて、助けてくれる相手ができたんだ」
頷くと、弟はぬいの背中に手を伸ばして抱きしめる。顔は見えないが、すすり泣くような音が聞こえた。
「ごめんね、たくさん心配かけて」
色んなしがらみから、世話をかけるまいと手を尽くした。だが、その結末がこれである。ぬいも弟の気持ちを考えると、あまりにも悲しくなり涙が零れ落ちる。
「たくさん酷いことをした」
肩越しに頭が揺れるのが分かった。否定をしているのだろう。
「ダメな姉だったけど、本当にいい弟を持ったよ。助けてくれて、ありがとう。わたしはあの世界へ来れて、とても幸せだよ」
「違う……ず、ずっと昔。助けてくれたのは……いつだって、姉さんだった」
落ち着かせるように、ぬいは背中を軽く叩く。
「もう何者にも振り回されなくていい、我慢なんてしなくていい。この先は思う存分、自分の人生を自由に生きて」
ぬいはそっと体を離すと、正面から向き合った。
「ただ、さよならって。ちょっと寂しいかな。いつかもう一度会いに来てくれたら、嬉しいね」
意識を失った直後、何が起こったかは曖昧である。だが、弟が別離の言葉を投げかけたことだけは覚えている。
「わかった」
目元を強くこすると、弟は笑顔を向ける。年を重ねるごとに身に着けた、どこか作り物めいたものではない。身内にだけ向ける、特別な笑顔だった。
「またね、姉さん」
「またね」
目の前の光景は薄くなっていき、優しい闇に包まれる。やがて光を感じると、ぬいはゆっくりを瞼を開く。その瞳からは涙が零れ落ち、枕を濡らした。
◇
目を覚ましたぬいは、いつも通り自分のベッドに寝ていた。そこには誰も居ない。そのことに寂しさを覚え部屋を見渡すと、机の上にある花瓶に花がいけられていた。その色は夢の中で見た色彩と同じもので、彼女を安堵させる。
その近くには封をされた一通の手紙が置いてある。それを手に取り開くと、こう書かれていた。
目覚めた後に花があったらと思いまして、勝手ながら飾らせてもらいました。またお話できることを楽しみにしております。ミレナ。
偶然ラベンダーっぽいやつ見つけたから、ミレナに頼んで飾ってもらった。花言葉が「あなたを待っています」って知ってる?皆ぬいさんのこと、待ってるよ!トゥーより
もちろん、トゥーの文字は母国のものであった。懐かしさを覚えるが、胸が締め付けられるようなものは感じない。
そして、最後は見覚えのある筆跡に目を吸い寄せられる。相変わらずきれいで、整っている。
「……ん?」
ぬいは何度も読み返す。意味が分からないのが悔しく、辞書を持って読み解こうとするがそれでもだめだった。
「地に埋まる水晶ってなに?」
ぬいが明確に覚えているのは、つまづいて倒れそうになる前までのことである。それ以降のことはうすぼんやりとして、定かではない。
ミレナやノルを見つけられば話は早かっただろうが、あいにく辺りを周っても誰もいない。あきらめて、ヴァーツラフの元へ向うことにした。
まだぬいよりも背丈が小さかった弟が急かしながら手を引っ張る。握り返す手はとても小さく、彼女自身も子供になっていた。このころはまだ両親も表面上は優しく、何の心配も不安もなかったと思い出す。
「ちょっと、そんなに慌てたら危ないよ」
「姉さんがよくつまづくのはしってる」
そう言うと、弟は後ろを向いて笑った。ぬいはそれを認めたくないのか、むくれ顔になった。
弟は再び前を向いて、進んでいく。やけに長く感じた道には何もない。それでもこの先に待っているものへの期待で、胸がいっぱいになる。
「ついた!ほら、急いだかいがあったと思わない?」
開けた道の先にはあたり一面紫色に包まれていた。その光景にぬいは目を奪われ、感嘆をもらす。
「すごい……こんなにたくさんのラベンダー畑。はじめて見たよ」
ぬいはここで確信した。ここは夢の中であると。過去を取り戻したとはいえ、細かい記憶はうすぼんやりしている。
だが、自然豊かな光景が見られるような世界ではなかったことは、確信できる。もっと荒廃していて、一部でしか見られなかったはずだ。だからこそ、強く心が揺さぶられる。
このまま浸っていたいが、また現実から遠ざかっているのではないかと、ぬいは不安になった。
「どうしたの?いいから、向こうまで行ってみようよ」
弟はそう言うと、走り出した。ぬいも後を追うが、足がもつれてうまく走れない。そうでなくとも、元々彼女の運動能力はあまり高くない。あっという間に弟の姿は掻き消えた。
「……はあ……ふぅ」
息が持たずぬいはその場に立ち止まり、膝を曲げると呼吸をする。しばらくそうしていると、後ろから肩を叩かれた。その手は大きく、小さな弟のものではない。
「大丈夫?」
そう心配そうにかける声は低い。だが、聞き覚えがあった。ぬいは立ち上がると、振り返る。
「うん、もう大丈夫だよ」
後ろに立っていたのは、自分と少し似ている成人男性であった。ぬいが亡くなる直前に見た、弟の姿である。
「本当に?一人で歩いて行ける?」
「立ち止まることはあっても、ちゃんと歩いて行ける。それに、わたしはもう一人じゃないから」
ぬいがそう言い切ると、弟はどこか寂しそうに笑った。
「姉さんにはちゃんと頼れて、助けてくれる相手ができたんだ」
頷くと、弟はぬいの背中に手を伸ばして抱きしめる。顔は見えないが、すすり泣くような音が聞こえた。
「ごめんね、たくさん心配かけて」
色んなしがらみから、世話をかけるまいと手を尽くした。だが、その結末がこれである。ぬいも弟の気持ちを考えると、あまりにも悲しくなり涙が零れ落ちる。
「たくさん酷いことをした」
肩越しに頭が揺れるのが分かった。否定をしているのだろう。
「ダメな姉だったけど、本当にいい弟を持ったよ。助けてくれて、ありがとう。わたしはあの世界へ来れて、とても幸せだよ」
「違う……ず、ずっと昔。助けてくれたのは……いつだって、姉さんだった」
落ち着かせるように、ぬいは背中を軽く叩く。
「もう何者にも振り回されなくていい、我慢なんてしなくていい。この先は思う存分、自分の人生を自由に生きて」
ぬいはそっと体を離すと、正面から向き合った。
「ただ、さよならって。ちょっと寂しいかな。いつかもう一度会いに来てくれたら、嬉しいね」
意識を失った直後、何が起こったかは曖昧である。だが、弟が別離の言葉を投げかけたことだけは覚えている。
「わかった」
目元を強くこすると、弟は笑顔を向ける。年を重ねるごとに身に着けた、どこか作り物めいたものではない。身内にだけ向ける、特別な笑顔だった。
「またね、姉さん」
「またね」
目の前の光景は薄くなっていき、優しい闇に包まれる。やがて光を感じると、ぬいはゆっくりを瞼を開く。その瞳からは涙が零れ落ち、枕を濡らした。
◇
目を覚ましたぬいは、いつも通り自分のベッドに寝ていた。そこには誰も居ない。そのことに寂しさを覚え部屋を見渡すと、机の上にある花瓶に花がいけられていた。その色は夢の中で見た色彩と同じもので、彼女を安堵させる。
その近くには封をされた一通の手紙が置いてある。それを手に取り開くと、こう書かれていた。
目覚めた後に花があったらと思いまして、勝手ながら飾らせてもらいました。またお話できることを楽しみにしております。ミレナ。
偶然ラベンダーっぽいやつ見つけたから、ミレナに頼んで飾ってもらった。花言葉が「あなたを待っています」って知ってる?皆ぬいさんのこと、待ってるよ!トゥーより
もちろん、トゥーの文字は母国のものであった。懐かしさを覚えるが、胸が締め付けられるようなものは感じない。
そして、最後は見覚えのある筆跡に目を吸い寄せられる。相変わらずきれいで、整っている。
「……ん?」
ぬいは何度も読み返す。意味が分からないのが悔しく、辞書を持って読み解こうとするがそれでもだめだった。
「地に埋まる水晶ってなに?」
ぬいが明確に覚えているのは、つまづいて倒れそうになる前までのことである。それ以降のことはうすぼんやりとして、定かではない。
ミレナやノルを見つけられば話は早かっただろうが、あいにく辺りを周っても誰もいない。あきらめて、ヴァーツラフの元へ向うことにした。
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