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本編
71:告白
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「ノルくん!!うわっ、すごく痛そう。早く治さないと」
ぬいはノルの手を掴むと、難しそうな顔をしている。
「どうしよう……聖句を忘れた。最悪だ。年かな。最近思い出したことが多すぎて、何が何だか……うーん、痛いの痛いの飛んでいけ!」
一言もあっていない言葉を口にすると、手元のかすり傷の血が止まった。聖句を無視した行動は驚くべきものであるが、やはり効果は弱い。
「僕のことはいい、それよりもあいつと話をしてきたほうがいい」
「でも、こんなボロボロで」
心配そうに見つめる姿を愛おしく感じ、ノルは鍋島の元へ送り出したくなくなる。だが、この過程を踏まなければ誰も幸せにはならない。
「このくらい、すぐに治る。いいから、行ってこい」
ぬいの背中を押すと、何度も振り返りながら鍋島の元へと歩いて行った。
◇
彼はまるで魂が抜けたような状態で、虚空を眺めていた。口元だけは動き、ぶつぶつと何かをつぶやいている。だが、その姿は恐怖を覚えるものではない。この世界へ戻ろうとしている者の姿であるからだ。
「ねえ、鍋島くんは全部思い出した?」
ぬいが近づくと、ハッとした顔で視線を向けた。
「……朧気でぼんやりとしているけど、綠さんとの記憶はいくつか取り戻した」
そう言うと、鍋島はばつが悪そうに下を向く。やがて何かを決意したのか、確固たる意志を持って立ち上がった。
「綠さん」
「どうしたの?」
あの病室にいたときのように、冷静にぬいは答えた。
「ずっと俺は別のなにかのせいにして、誤魔化してた。だから、いけなかったんだ」
鍋島はぬいの手を取った。その行動に他意はない。手首に手を取ると、目を閉じている。脈拍を感じ取っているのだろう。
「ちゃんと、生きてるんだね」
「うん、鍋島くんも、この世界を生きている」
ぬいがそう返事をすると、彼は頷いた。
「俺さ、綠さんのことが好きだった。友人としてではなく、恋のほう。そんなたった一言が、ずっと言えなかったんだ。色々なことを言い訳にして、隠していた」
掴んだ手は震えていた。今のぬいにには、それをその場しのぎの言葉で慰めることなどできない。
「ありがと……でも、ごめんね。わたしは鍋島くんと同じ気持ちを返せない。友達……親友?ううん、ずっと共に戦ってきて。ただかけがえのない存在だと思っていた」
実際に綠は鍋島が倒れたあと、追うようにして亡くなった。彼に恋情を抱いていたかというと、答えは出ない。
衝撃で死を選択するだけの情は確かにあった。もしかしたら、鍋島と同じく何も気づいていなかった可能性もある。
――だが、そのことは決して言ってはいけない。
言ってしまえば、彼に死の痛みと記憶を明確に呼び起こさせてしまうだろう。あんな苦しみを二度も味わう必要はないし、彼がその事実を知れば、耐えきれずに再び死んでしまうだろう。
ぬいとなった今、鍋島のことに対して追慕の感情は残っている。遠く懐かしい思い出のように、仕舞えるものだ。だが、トゥーに対して同じような想いがあるかと問われれば、それは違う。
「もっと早く、言葉に出していたら違かったと思う?」
ちらりとノルのことを見ると、すぐに視線を戻した。
「それは誰にも分らない。とうに過ぎ去りし過去のこと。でもね、綠がぬいになってもそれはちゃんと覚えてる。もう、あの時のことをなかったことにはさせない」
「俺もだ、もう二度と忘れない。綠さんとの記憶を。辛いものも、楽しかったことも」
二人はそう宣言すると、しばらく無言になる。やがて、ぬいがそっと鍋島の腕を解くと彼を見据えた。
「全部無理に思い出さなくていい。もう鍋島くんは、そんな重荷を背負わなくていいんだよ。これで綠と鍋島の物語は終わり。わたしの名前はぬい。目の前にいる人はトゥーと呼ばれている」
「俺は……そうだ。ここへ来て、ノルに会って……ミレナ……ああ、なんてバカなことをしたんだ」
トゥーとしての記憶がよみがえっているのだろう。頭を抱え苦しそうにすると、顔を上げて涙を流した。その感情は彼がすべてを取り戻した証である。
「……俺、ここに来てからは結構調子に乗ってた。生意気に剣を振り回して、女の子と遊んでさ」
「そうだね。わたしはなんだか苦手だったし、あんまり関わろうとは思えなかった」
「うっ、指摘されると本当に恥ずかしくなってくる……」
なにをしてきたのか、明確に理解したのだろう。トゥーは恥ずかしそうに頭を抱えた。
「とりあえず、無責任に女の子を連れまわすのはやめた方がいいよ」
ぬいがたしなめるように言うと、トゥーの目が泳ぐ。
「ほんっとうに、最低だった。すみませんでした!」
トゥーは深々と頭を下げた。
「わたしのことも、いきなり呼び捨てにしてきたしね」
からかいながら言うと、頭の位置はさらに低くなる。
「大変申し訳ございませんでした、ぬいさん!」
「よろしい。親しい呼び方はちゃんと、特別な子だけにしなね」
ぬいはミレナの方へと視線を移す。
「でも、すべてを清算してからの方がいい。少なくとも、この謝罪は最初にわたしに言うべきじゃない」
「うん、その通りだ。ありがとう……ぬいさ……あのさ、最後に一つだけお願いしてもいい?」
トゥーは鍋島だったときと同じようなことを言う。甘えるような声に対し、ぬいは突っぱねた。
「えー……内容によるね」
早々に謝罪をなかったことにする気なのかと、ぬいは視線で非難する。
今はまだ過去の残滓から綠への思いが強く残っているのだろう。だからと言って、トゥーがミレナに対し興味がないなど、あり得ない。
彼女はどうみても彼の好みのタイプであるし、あれだけ共にいた存在に対し、情を抱いていないはずがないのだ。綠の時と同じく、その想いはいまだ小さく眠っているのかもしれない。
「ごめん、すぐに俺の中の鍋島と切り離せなくて。最後にさ、下の名前で呼んで欲しいんだ。同じ国の人で、ちゃんとした発音で呼べるのは、たった一人しかいないから」
その懇願に対し、ぬいは無言の圧を送る。だが、彼は両手を合わせながら何としても譲らない。やがてぬいの方が折れ、口を開いた。
「わかったよ、敦。これからの人生が幸いでありますように」
ぬいが祈るように言うと、彼は破顔した。その言葉をかみしめるようにしばらく浸ると、また泣いてしまいそうな目でぬいのことを見た。
「ありがとう、綠。今まで支えてくれて……本当にありがとう。大好きだった。どうか、幸せに」
ぬいはノルの手を掴むと、難しそうな顔をしている。
「どうしよう……聖句を忘れた。最悪だ。年かな。最近思い出したことが多すぎて、何が何だか……うーん、痛いの痛いの飛んでいけ!」
一言もあっていない言葉を口にすると、手元のかすり傷の血が止まった。聖句を無視した行動は驚くべきものであるが、やはり効果は弱い。
「僕のことはいい、それよりもあいつと話をしてきたほうがいい」
「でも、こんなボロボロで」
心配そうに見つめる姿を愛おしく感じ、ノルは鍋島の元へ送り出したくなくなる。だが、この過程を踏まなければ誰も幸せにはならない。
「このくらい、すぐに治る。いいから、行ってこい」
ぬいの背中を押すと、何度も振り返りながら鍋島の元へと歩いて行った。
◇
彼はまるで魂が抜けたような状態で、虚空を眺めていた。口元だけは動き、ぶつぶつと何かをつぶやいている。だが、その姿は恐怖を覚えるものではない。この世界へ戻ろうとしている者の姿であるからだ。
「ねえ、鍋島くんは全部思い出した?」
ぬいが近づくと、ハッとした顔で視線を向けた。
「……朧気でぼんやりとしているけど、綠さんとの記憶はいくつか取り戻した」
そう言うと、鍋島はばつが悪そうに下を向く。やがて何かを決意したのか、確固たる意志を持って立ち上がった。
「綠さん」
「どうしたの?」
あの病室にいたときのように、冷静にぬいは答えた。
「ずっと俺は別のなにかのせいにして、誤魔化してた。だから、いけなかったんだ」
鍋島はぬいの手を取った。その行動に他意はない。手首に手を取ると、目を閉じている。脈拍を感じ取っているのだろう。
「ちゃんと、生きてるんだね」
「うん、鍋島くんも、この世界を生きている」
ぬいがそう返事をすると、彼は頷いた。
「俺さ、綠さんのことが好きだった。友人としてではなく、恋のほう。そんなたった一言が、ずっと言えなかったんだ。色々なことを言い訳にして、隠していた」
掴んだ手は震えていた。今のぬいにには、それをその場しのぎの言葉で慰めることなどできない。
「ありがと……でも、ごめんね。わたしは鍋島くんと同じ気持ちを返せない。友達……親友?ううん、ずっと共に戦ってきて。ただかけがえのない存在だと思っていた」
実際に綠は鍋島が倒れたあと、追うようにして亡くなった。彼に恋情を抱いていたかというと、答えは出ない。
衝撃で死を選択するだけの情は確かにあった。もしかしたら、鍋島と同じく何も気づいていなかった可能性もある。
――だが、そのことは決して言ってはいけない。
言ってしまえば、彼に死の痛みと記憶を明確に呼び起こさせてしまうだろう。あんな苦しみを二度も味わう必要はないし、彼がその事実を知れば、耐えきれずに再び死んでしまうだろう。
ぬいとなった今、鍋島のことに対して追慕の感情は残っている。遠く懐かしい思い出のように、仕舞えるものだ。だが、トゥーに対して同じような想いがあるかと問われれば、それは違う。
「もっと早く、言葉に出していたら違かったと思う?」
ちらりとノルのことを見ると、すぐに視線を戻した。
「それは誰にも分らない。とうに過ぎ去りし過去のこと。でもね、綠がぬいになってもそれはちゃんと覚えてる。もう、あの時のことをなかったことにはさせない」
「俺もだ、もう二度と忘れない。綠さんとの記憶を。辛いものも、楽しかったことも」
二人はそう宣言すると、しばらく無言になる。やがて、ぬいがそっと鍋島の腕を解くと彼を見据えた。
「全部無理に思い出さなくていい。もう鍋島くんは、そんな重荷を背負わなくていいんだよ。これで綠と鍋島の物語は終わり。わたしの名前はぬい。目の前にいる人はトゥーと呼ばれている」
「俺は……そうだ。ここへ来て、ノルに会って……ミレナ……ああ、なんてバカなことをしたんだ」
トゥーとしての記憶がよみがえっているのだろう。頭を抱え苦しそうにすると、顔を上げて涙を流した。その感情は彼がすべてを取り戻した証である。
「……俺、ここに来てからは結構調子に乗ってた。生意気に剣を振り回して、女の子と遊んでさ」
「そうだね。わたしはなんだか苦手だったし、あんまり関わろうとは思えなかった」
「うっ、指摘されると本当に恥ずかしくなってくる……」
なにをしてきたのか、明確に理解したのだろう。トゥーは恥ずかしそうに頭を抱えた。
「とりあえず、無責任に女の子を連れまわすのはやめた方がいいよ」
ぬいがたしなめるように言うと、トゥーの目が泳ぐ。
「ほんっとうに、最低だった。すみませんでした!」
トゥーは深々と頭を下げた。
「わたしのことも、いきなり呼び捨てにしてきたしね」
からかいながら言うと、頭の位置はさらに低くなる。
「大変申し訳ございませんでした、ぬいさん!」
「よろしい。親しい呼び方はちゃんと、特別な子だけにしなね」
ぬいはミレナの方へと視線を移す。
「でも、すべてを清算してからの方がいい。少なくとも、この謝罪は最初にわたしに言うべきじゃない」
「うん、その通りだ。ありがとう……ぬいさ……あのさ、最後に一つだけお願いしてもいい?」
トゥーは鍋島だったときと同じようなことを言う。甘えるような声に対し、ぬいは突っぱねた。
「えー……内容によるね」
早々に謝罪をなかったことにする気なのかと、ぬいは視線で非難する。
今はまだ過去の残滓から綠への思いが強く残っているのだろう。だからと言って、トゥーがミレナに対し興味がないなど、あり得ない。
彼女はどうみても彼の好みのタイプであるし、あれだけ共にいた存在に対し、情を抱いていないはずがないのだ。綠の時と同じく、その想いはいまだ小さく眠っているのかもしれない。
「ごめん、すぐに俺の中の鍋島と切り離せなくて。最後にさ、下の名前で呼んで欲しいんだ。同じ国の人で、ちゃんとした発音で呼べるのは、たった一人しかいないから」
その懇願に対し、ぬいは無言の圧を送る。だが、彼は両手を合わせながら何としても譲らない。やがてぬいの方が折れ、口を開いた。
「わかったよ、敦。これからの人生が幸いでありますように」
ぬいが祈るように言うと、彼は破顔した。その言葉をかみしめるようにしばらく浸ると、また泣いてしまいそうな目でぬいのことを見た。
「ありがとう、綠。今まで支えてくれて……本当にありがとう。大好きだった。どうか、幸せに」
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