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本編
65:踊る演者たち③
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「来週さ、手術なんだ」
今日の鍋島はやけに静かであった。ずっと言えずに迷っていたのだろう。
「ずいぶんと暗いね。良くなるために受けるんでしょ?」
綠が顔を横に向けて言う。二人の間のカーテンは滅多なことがない限り、いつも解放されている。
「目的はそうだけど、失敗したら死ぬし。成功したって、完治するわけじゃないからね」
長い付き合いになり、綠は分かったことがある。彼は意外に落ち込みが激しい。一度そうなると、なかなか戻ってこない。
「この手術を受けるために、どれだけ苦労したんだか。それを考えると嫌になる」
鍋島の言う通り、彼の家族は近頃どこかやつれていた。それでも明るく声をかけ、すっかり顔なじみになった綠のこともねぎらってくれた。
絵にかいたようないい家族。だが、逆にそれが彼の負担となっているのだろう。
「もう生きていたくない時があるって、みんなに言えるわけがないんだ」
鍋島の声は震えていた。綠は立ち上がると、彼のベッドの横にゆっくりと移動する。
「だったらさ」
手を伸ばすと鍋島の心臓が存在する位置に手を当てた。
「一緒に死んでみる?」
綠はすぐに否定するだろうと思っていた。彼はいつも苦しんでいるとき、生きたい、死にたくないと口にしていたからだ。だというのに、綠がその言葉を投げかけた瞬間、鍋島は歪な笑みを浮かべた。
「な、なんて冗談だよ」
当てていた手をパッと離すと、手のひらを振る。
「明日鍋島くんの友達が久しぶりに来るんだし、ダメだよ……なにより、わたしは自殺だけはしないって、決めてるから」
綠は軽率な言葉をかけたことを後悔した。こういう時に死ぬなと言われても、逆効果であることは嫌というほどわかっている。だからこその選択だったが、失敗だったようだ。
彼女自身死に恐怖はあっても抵抗はない。苦痛から解放されるなら死んでもいいと、何度も思ったことがある。だが、自殺だけは選べない。それを選んでしまえば、今までの人生を否定することになってしまうからだ。
何より、弟にそのことが知られれば一生心に残る傷になってしまう。病死ならば諦めはつくだろうと、そう考えていた。
「そうだね、わかってる」
一瞬見せた暗い表情を引っ込めると、鍋島はどこか寂しそうに笑う。
「手術の前に一つだけお願いしてもいい?」
どこか甘えるような声で言う。手術前で少しだけ不安定になっているらしい。
「わたしにできることなら」
綠が微笑すると、掲げていた手を捕まれ引っ張られる。さほど強い力ではなかったが、やせ細った綠は簡単に鍋島の胸元に倒れ込む。
「……えーっと、どうしたの?」
問いかけると、それに呼応するかのように鍋島は綠をぎゅっと抱きしめる。
「いやっ、ちょっと待ってって。急になに?」
綠は抵抗しようとするが、なにも動けるはずがない。発作の時押さえつけてもらっているのだから、それも当然である。
綠が鍋島の面倒を見るときは、もちろん手に追い切れない。本人に頼まれ、いつも手足を縛っていた。いくら病人といえども男女差はあるし、お互いに薬漬けの体だ。
「はははっ、綠さんめちゃくちゃ慌ててる」
鍋島は楽しそうに言うと、力を緩める。だが、手は離さない。鍋島の体に身を預けたまま、向かい合う。
「からかっってたの?」
綠がむくれながら言うと、鍋島はなおも笑う。
「あー……面白い。こんな照れた顔はじめて見たよ」
指摘されると余計に体温が上がったのか、綠の顔は赤くなっていく。これ以上見られたくないと、体を放そうとするがまたもや引き寄せられた。
「綠さん、好きだ」
その声にからかいはなく、至って真剣に聞こえるものだった。だが彼の演技がうまいことを知っている。胸元に押し当てられた耳から聞こえる鼓動も、急な動きをしたからだろう。そう綠は判断した。
「うん、わたしも。けどさ、わたしたちの間にあるのはあくまで人としてのもの。ただの共依存。恋愛的な意味ではないって、ちゃんと分かってるよ」
「そうだね……」
「なにより、鍋島くんとわたしは四つも違う。そもそも最初から、そういう対象として見てないって、知ってるんだから」
「四つもって、ここに入院してから三年経つし、そのくらい大した差じゃないと思うけど」
「差でしょ。だって、三、四年もあったら中学生が高校生に……」
綠は自分で言っていてむなしくなってきた。それだけの期間をこの病室で過ごしたのだと、現実を突きつけられたからだ。そのことに鍋島も気づいたのか、これ以上追求することはなかった。
「もし俺たちが別の世界に行って。そこで平和な日常を送っていたら、きっと今の関係は違うものになっていた。そう思わない?」
「うーん、それはどうかな?」
綠が難色を示すと、鍋島は「え」と掠れた声を漏らす。
「わたし鍋島くんのこと苦手だったからね。そっちだって、そうだったよね?興味なかったでしょ」
「……それは、まあ」
三年という年月の中、助け合い。それを狭い病室で積み重ねた結果が今の関係である。
「鍋島くんの好みはもっと背が高くてスタイルのいい子だからね。よく考えるとわたしと真逆だ」
図星だったのか、鍋島は何も反論ができなくなったようだ。その代わりと言わんばかりに腕の力を強めてきた。
「あのー、ちょっと強すぎない?わたしはまだどこにも行かないよ?」
綠が咎めても、拘束は緩まない。
「お願い、聞いてくれる?」
「さっきも言ったよね?聞くって」
再度同意すると、鍋島は回した手を離す。そして綠の頭を包むように掴むと胸元に押し付けた。
「俺の心臓がまだ動いてるって、確認しててほしい」
「なんだ。そのくらい、お安いご用だよ」
綠は言われたまま、鍋島の心音を聞いていた。最初は生を主張するように激しい動きだったが、徐々に緩やかなものに変化していく。その繰り返す音に誘われ、いつの間にか共に眠り込んでいた。
今日の鍋島はやけに静かであった。ずっと言えずに迷っていたのだろう。
「ずいぶんと暗いね。良くなるために受けるんでしょ?」
綠が顔を横に向けて言う。二人の間のカーテンは滅多なことがない限り、いつも解放されている。
「目的はそうだけど、失敗したら死ぬし。成功したって、完治するわけじゃないからね」
長い付き合いになり、綠は分かったことがある。彼は意外に落ち込みが激しい。一度そうなると、なかなか戻ってこない。
「この手術を受けるために、どれだけ苦労したんだか。それを考えると嫌になる」
鍋島の言う通り、彼の家族は近頃どこかやつれていた。それでも明るく声をかけ、すっかり顔なじみになった綠のこともねぎらってくれた。
絵にかいたようないい家族。だが、逆にそれが彼の負担となっているのだろう。
「もう生きていたくない時があるって、みんなに言えるわけがないんだ」
鍋島の声は震えていた。綠は立ち上がると、彼のベッドの横にゆっくりと移動する。
「だったらさ」
手を伸ばすと鍋島の心臓が存在する位置に手を当てた。
「一緒に死んでみる?」
綠はすぐに否定するだろうと思っていた。彼はいつも苦しんでいるとき、生きたい、死にたくないと口にしていたからだ。だというのに、綠がその言葉を投げかけた瞬間、鍋島は歪な笑みを浮かべた。
「な、なんて冗談だよ」
当てていた手をパッと離すと、手のひらを振る。
「明日鍋島くんの友達が久しぶりに来るんだし、ダメだよ……なにより、わたしは自殺だけはしないって、決めてるから」
綠は軽率な言葉をかけたことを後悔した。こういう時に死ぬなと言われても、逆効果であることは嫌というほどわかっている。だからこその選択だったが、失敗だったようだ。
彼女自身死に恐怖はあっても抵抗はない。苦痛から解放されるなら死んでもいいと、何度も思ったことがある。だが、自殺だけは選べない。それを選んでしまえば、今までの人生を否定することになってしまうからだ。
何より、弟にそのことが知られれば一生心に残る傷になってしまう。病死ならば諦めはつくだろうと、そう考えていた。
「そうだね、わかってる」
一瞬見せた暗い表情を引っ込めると、鍋島はどこか寂しそうに笑う。
「手術の前に一つだけお願いしてもいい?」
どこか甘えるような声で言う。手術前で少しだけ不安定になっているらしい。
「わたしにできることなら」
綠が微笑すると、掲げていた手を捕まれ引っ張られる。さほど強い力ではなかったが、やせ細った綠は簡単に鍋島の胸元に倒れ込む。
「……えーっと、どうしたの?」
問いかけると、それに呼応するかのように鍋島は綠をぎゅっと抱きしめる。
「いやっ、ちょっと待ってって。急になに?」
綠は抵抗しようとするが、なにも動けるはずがない。発作の時押さえつけてもらっているのだから、それも当然である。
綠が鍋島の面倒を見るときは、もちろん手に追い切れない。本人に頼まれ、いつも手足を縛っていた。いくら病人といえども男女差はあるし、お互いに薬漬けの体だ。
「はははっ、綠さんめちゃくちゃ慌ててる」
鍋島は楽しそうに言うと、力を緩める。だが、手は離さない。鍋島の体に身を預けたまま、向かい合う。
「からかっってたの?」
綠がむくれながら言うと、鍋島はなおも笑う。
「あー……面白い。こんな照れた顔はじめて見たよ」
指摘されると余計に体温が上がったのか、綠の顔は赤くなっていく。これ以上見られたくないと、体を放そうとするがまたもや引き寄せられた。
「綠さん、好きだ」
その声にからかいはなく、至って真剣に聞こえるものだった。だが彼の演技がうまいことを知っている。胸元に押し当てられた耳から聞こえる鼓動も、急な動きをしたからだろう。そう綠は判断した。
「うん、わたしも。けどさ、わたしたちの間にあるのはあくまで人としてのもの。ただの共依存。恋愛的な意味ではないって、ちゃんと分かってるよ」
「そうだね……」
「なにより、鍋島くんとわたしは四つも違う。そもそも最初から、そういう対象として見てないって、知ってるんだから」
「四つもって、ここに入院してから三年経つし、そのくらい大した差じゃないと思うけど」
「差でしょ。だって、三、四年もあったら中学生が高校生に……」
綠は自分で言っていてむなしくなってきた。それだけの期間をこの病室で過ごしたのだと、現実を突きつけられたからだ。そのことに鍋島も気づいたのか、これ以上追求することはなかった。
「もし俺たちが別の世界に行って。そこで平和な日常を送っていたら、きっと今の関係は違うものになっていた。そう思わない?」
「うーん、それはどうかな?」
綠が難色を示すと、鍋島は「え」と掠れた声を漏らす。
「わたし鍋島くんのこと苦手だったからね。そっちだって、そうだったよね?興味なかったでしょ」
「……それは、まあ」
三年という年月の中、助け合い。それを狭い病室で積み重ねた結果が今の関係である。
「鍋島くんの好みはもっと背が高くてスタイルのいい子だからね。よく考えるとわたしと真逆だ」
図星だったのか、鍋島は何も反論ができなくなったようだ。その代わりと言わんばかりに腕の力を強めてきた。
「あのー、ちょっと強すぎない?わたしはまだどこにも行かないよ?」
綠が咎めても、拘束は緩まない。
「お願い、聞いてくれる?」
「さっきも言ったよね?聞くって」
再度同意すると、鍋島は回した手を離す。そして綠の頭を包むように掴むと胸元に押し付けた。
「俺の心臓がまだ動いてるって、確認しててほしい」
「なんだ。そのくらい、お安いご用だよ」
綠は言われたまま、鍋島の心音を聞いていた。最初は生を主張するように激しい動きだったが、徐々に緩やかなものに変化していく。その繰り返す音に誘われ、いつの間にか共に眠り込んでいた。
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