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本編
51:時が来た
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ぬいは部屋の中でそわそわと、落ち着かない気持ちで座っていた。着替えはすでに終わっていて、あとは待つだけだからである。ぬいは青緑を基調とした長袖のワンピースを着ていた。なぜこれを選んだかというと、ノルのメモが残されていたからだ。
好きな色を理解しているうえに、どうみても水晶宮の時のドレスを意識している。あれよりは動きやすいものではあるが、形が似通っていた。
そして、横にはまだ羽織っていないが、白いコートが置いてある。これはぬいが売り払ってしまったものと、似ている。それも覚えていたのだろう。
はじめて出会った時から、ノルはぬいのことをきちんと見ていたのだ。
腕には以前プレゼントされた腕輪がはめられている。時々日の光に反射する緑色がノルのことを意識させられた。
まるで遊園地に行く前のような心地だとぬいは思う。そうではないことは理解している。
自分のことをこれほどまでに考えてくれたと意識すればするほど、生まれるはずだった感情が消えていくのが分かる。なぜこの違和感にすぐ気づかなかったのだと、ぬいは己の鈍さが嫌になった。
部屋の戸を叩く音が聞こえる。もう何度も聞きなれたものだ。ぬいはコートを持って立ち上がると、そっと開いた。
「ヌイ、待たせたな」
ようやく顔を見れ、うれしくてたまらない具合といったノルが居た。以前は顔を合わせ辛く、ドアの後ろに隠れたこともあった。今となっては、その記憶は遠く懐かしいものである。
ノルは意外にも軽装だった。そして杖を持っている。ぬいを緊張させないように気遣っているのだろうか。
よく見てみると、この服は最初に会った時の服と似ている。渡された白いコートといい、初対面の時を意識しているのかもしれない。
「……ううん」
ぬいが間を開けた返事をすると、ノルは不安そうにする。
「その、前とは違うなって思って」
「当たり前だ。あんな失礼な態度だった僕のことは風化させて、早く塗り替えてほしい」
ノルはばつが悪そうに言う。そのための服装だったのだろう。
いつも通り、ぬいの手を取ると宿舎を出る。そのままどこへ行くのかと思いきや、たどり着いたのは水晶宮の近くだった。その外れの一角に、地下へと続く道があった。
前にノルと行った場所とへ違い、きちんと整備されている。どうやら前にした約束を果たすようだ。叶うのであれば、きっと街の外へも連れて行ってくれるだろう。
洞窟内はさすがに寒いのか、ノルはいつの間にか持ってくれていた白いコートを着させてくれる。
「ヌイ、足元に気を付けて」
ノルはぬいの手をしっかり握りながら、地下への階段を先に歩いていく。中に入ってからも、道は多少デコボコしているがこけそうな突起物は見当たらない。
後から配置しただろう、光り輝く水晶が一定間隔に設置されており、少し薄暗いが足元は見えた。
道が少し広くなると、ノルは腕に捕まるように促した。手は散々繋いできたが、まるで夜会のようにエスコートされることはあまりない。
そっと腕をつかむと、ノルは少しだけ不満そうだった。周りを見ると、他の人たちはもっとくっついている。あのくらいしてほしいと、顔に出てしまったのだろう。その素直さにぬいは顔をほころばせる。
そのまま奥へ行くと、青く光る水晶だけではなく、奇妙な色をしたきのこが見えた。そろそろ開けた場所は近いのだろう。水の流れる音が聞こえてくる。これは前とは違う点だ。
その音に目を閉じながら耳を澄ませていると、ノルに到着だと告げられる。
「うわあ、すごくきれいだね!」
ぬいは興奮する。あの時と違って落ち着いて周りの景色を見ることができた。青く光る水晶と、きのこは同じであるが周りには川が流れていた。
奥の方には滝が流れていて、そこが観光名所となっているようだ。周りに人々が集まっているのが見える。時々魚が跳ねているのか、水音が聞こえた。
「ノルくん、もしかして前に食べた魚ってここで摂れるの?」
「ああ、一般の人が入れない場所に養殖所があって、そこで育てられている」
ぬいは観光気分であれこれとノルに質問する。周りが見えなさ過ぎて、何もないのに何度かこけそうになった。その時はすかさずノルが抱き留めてくれた。
以前とは確かに態度は違うが、根本的なところは変わらないのだとぬいは実感する。
洞窟内にある、ひと際大きな水晶前に二人は立っていた。青い色は変わらないが、磨かれたような透明さがある。
背後にも人の背丈くらいある水晶がそびえたち、少し横にずれない限り二人きりの空間のようになっている。
「もしかして、これが聖別された水晶ってこと?」
ぬいが問うとノルは頷いた。いまだに細かい違いは難しいが、極端にいいものと悪いものの見分けがつくようになってきたようである。
「これだけ多くの人が訪れる場所だ。うっかり過去を映してしまえば、不和の原因になりかねない」
「確かにそうだね。そのさ、過去を映す水晶ってこれのくすんだものから採れたりするの?」
「そうだ。悪いもの扱いをされがちだが、人によっては己の修業のために、自ら使用する者もいる」
「なるほど。あれって意外と簡単に手に入るんだね」
「入手はできるが、きちんとした身分と手続きがなければ基本的には無理だ。だからこそ、裏で取引がされる現状がある」
神官たちあたりが己の研鑽の為に使っているのだろう。直接かかわることはないが、神殿騎士たちも。そもそもノルも神官貴族と言われている。きっと、そういうことだろうとぬいは納得した。
「純度を問わなければ。僕も使ったことがある。他者に見られなければ、なんとか堪えれた。自身のトラウマを乗り越えるため、あえて治療に使われることもある」
それを聞いて、ぬいも今であれば立ち向かえるのではないかと考えた。そうすれば、己の過去を理解して感情が取り戻せるのではないかと。だが、やはり自分自身と対話をするのは怖い。
「ヌイ」
ノルは名を呼ぶと、そっと首元に手を伸ばした。喉元に手をあてると、そっと撫でる。
「あの時の僕は本当に愚かだった。混濁していたとはいえ、君の首に手をかけるなんて」
「かけただけだよね?一押しだってしてない。ノルくんはちゃんと踏みとどまった。だから、謝る必要なんてないよ」
もしあのまま絞められたとしても、毒さえ効かない身である。死ぬことはなかっただろう。
「わたしだったら、絞めるどころか殴る蹴るの暴行をしていたかもしれないよ?」
その場を明るくするように言うと、ノルは笑う。
「もしヌイにそうされるなら受け入れよう」
「ダメだよ!死んだらわたしすごく恨むからね。せめて受け流すとかしようよ!」
ぬいが全力で止めると、ノルはすぐに肯定してくれた。
そのあととりとめのない会話を交わし、やがて沈黙が訪れた。ノルはぬいの手を取ると、その場に跪いた。
いくら整備されているとはいえ、地面は少し歪で痛そうだ。ぬいは立ち上がるように言おうとしたが、真剣そのものの目を見てやめた。
ついにこの時が来てしまった。ぬいはまっすぐに見つめるノルと視線を交わす。
「僕がどういう風に君のことを想っているか、もう気づいているかもしれない。この国だとはっきり言うというよりは確認して終わることが多い。でも、それだと伝わらないし、君の国の風習には合わないと言われた」
ノルはぬいの為に嫌々トゥーに聞いたのだろう。
「何より僕はここまで真剣に想う相手に会ったことがない。多分君がはじめてで最後なんだろうと思う。自覚する前から、毎日ヌイのことを考えていた。今考えればあいつの言っていた通り、最初から意識していたんだろう」
これほどまでに真摯な思いを告げられても、ぬいの心は動かなかった。どう願おうが、それは変わることがない。まるでロボットのようである。
確かに動いているこの心臓も、別のもので作られているかもしれない。そんな風に思わざるを得なかった。
「ただ、僕には問題が多い。君を手に入れられたら、大きなものは解決できるだろうが、そうしたくない。それが無くとも、僕は君を選ぶとそう言いたいんだ。そしてその時ヌイが僕を選んでくれればそれはただの同情ではない。そう思えるんだ」
それは核心をついていた。このまま流されてしまえば、ぬいは同情心からノルを受け入れていただろう。感情が掻き消えようとも、それを見ないふりをしていたに違いない。
ノルがここまで覚悟を決めたのだ。自分も怖がらずに行動しようと、ぬいは一つ決心した。
「今言っても、ただの自己満足かもしれないが。それでも言っておきたい、君を繋ぎとめておきたいんだ。待っている間に、もし離れてしまったらと、気が気でないんだ」
辛そうに胸を押さえるノルを見て、ぬいの心に生まれそうになった何かは掻き消える。残ったのはただの同情心である。それはあまりにも歪すぎた。
「僕はヌイのことが」
ノルがその言葉を言おうとした瞬間、周りの歓喜に満ちた悲鳴でかき消される。聞こえなかったが、ノルは表情からして舌打ちしていただろう。
その声はほとんど女性のもので、トゥーさまや勇者さま。かっこいいなどと反響する。それにノルも気づいたのか、顔を歪めた。
彼の周りが賑やかなのはいつものことであるが、それにしても音量が大きい。ぬいは顔を傾けて、水晶の影から顔を出すと、案の定取り囲まれているトゥーが居た。
よく見ると、傍にはべっていたアイシェが居ない。彼女はファンの中で取りまとめのような役柄を負っていたのだろう。だから、不在の今日はこんなにも騒がしいのだ。
集団の中の女の子がトゥーに声を掛けられ、感極まったのか自身の体を抱きしめて震えている。それだけだったら、よかったのだが彼女は興奮のあまり勢いよく、トゥーに抱き着いた。
――その衝撃で、トゥーの面を支えていた止め紐が片方外れた。
抱き着いてきた彼女は、他の女の子にすぐ取り押さえられた。彼女たちからは一瞬たりとも、素顔は見えていないだろう。
トゥーはすぐ面に手を当て押さえてしまった。だが、ぬいには見えてしまった。
ぬいは手を離すと、フラフラと不安定な足取りでトゥーに引き寄せられる。ノルが何かを言おうとも、今の彼女には何も聞こえていない。
誰かが近づいてくる。彼女たちの一人がそう言うと、トゥーは後ろを振り向いた。すぐ目の前にぬいはたどり着いていた。
『もしかして、鍋島くんだよね?』
ぬいはそう言うと、トゥーの押さえていた手を外す。あらわになった素顔は驚きで目が見開かれている。
『えっ、綠さん?』
「なにいきなり訳の分からない言語で話してるの?」
「急に割り込んで来ないでよ!」
そんな彼女たちの叫び声は二人には聞こえていなかった。ぬいとトゥー、鍋島と綠には互いの姿しか映っていない。
『全然気づかなかったよ』
『俺も。ずっと一緒だったのに。なんで忘れていたんだろう』
鍋島は頭を押さえる。
『何気ない日常のように思えた』
『でも、確実に俺たちのことを蝕んでいた』
『……ああ、そうだった。いつどうなっても、おかしくなくて。ある日鍋島くんは』
ぬいはこらえきれずに胸を押さえる。その衝撃で涙が零れ落ちた。綠の涙を見た鍋島は、ハッと目を見開き。顔を手で押さえる。その表情は絶望に満ちていて、目には何の光もない。
『そう……だ、俺はもう……すでに』
鍋島が苦しそうに途切れながらも、その言葉を言おうとする。
「時が来た」
突如綠と鍋島の前にヴァーツラフが現れた。風に髪とローブをなびかせ、地面に降り立つ。その荘厳さに、周りの者はもちろん騒いでいた彼女たちも静まり、無条件で跪いた。
「神々の安寧を」
錫杖を地面に叩きつけると、二人は眠るように意識を失う。倒れこみそうになった体をヴァーツラフは右手に彼女を、左手に彼をと支えた。
「異邦者は目覚め、偽りの日々を過ごすだろう」
ヴァーツラフがそう言い切ると、左右に目配せする。
「己が役目を果たすがいい」
すると全く動けずにいたノルと、かげに隠れていたミレナがヴァーツラフの前へと進み出る。
「教皇さまのお導きの通り。我々は神々のご意思に従います」
二人同時にそう宣言する。蒼白であるが、神の僕としての表情に切り替わっている。ヴァーツラフは錫杖を揺らし、聖句を唱える。そうして渦中の五人の姿は掻き消えた。
好きな色を理解しているうえに、どうみても水晶宮の時のドレスを意識している。あれよりは動きやすいものではあるが、形が似通っていた。
そして、横にはまだ羽織っていないが、白いコートが置いてある。これはぬいが売り払ってしまったものと、似ている。それも覚えていたのだろう。
はじめて出会った時から、ノルはぬいのことをきちんと見ていたのだ。
腕には以前プレゼントされた腕輪がはめられている。時々日の光に反射する緑色がノルのことを意識させられた。
まるで遊園地に行く前のような心地だとぬいは思う。そうではないことは理解している。
自分のことをこれほどまでに考えてくれたと意識すればするほど、生まれるはずだった感情が消えていくのが分かる。なぜこの違和感にすぐ気づかなかったのだと、ぬいは己の鈍さが嫌になった。
部屋の戸を叩く音が聞こえる。もう何度も聞きなれたものだ。ぬいはコートを持って立ち上がると、そっと開いた。
「ヌイ、待たせたな」
ようやく顔を見れ、うれしくてたまらない具合といったノルが居た。以前は顔を合わせ辛く、ドアの後ろに隠れたこともあった。今となっては、その記憶は遠く懐かしいものである。
ノルは意外にも軽装だった。そして杖を持っている。ぬいを緊張させないように気遣っているのだろうか。
よく見てみると、この服は最初に会った時の服と似ている。渡された白いコートといい、初対面の時を意識しているのかもしれない。
「……ううん」
ぬいが間を開けた返事をすると、ノルは不安そうにする。
「その、前とは違うなって思って」
「当たり前だ。あんな失礼な態度だった僕のことは風化させて、早く塗り替えてほしい」
ノルはばつが悪そうに言う。そのための服装だったのだろう。
いつも通り、ぬいの手を取ると宿舎を出る。そのままどこへ行くのかと思いきや、たどり着いたのは水晶宮の近くだった。その外れの一角に、地下へと続く道があった。
前にノルと行った場所とへ違い、きちんと整備されている。どうやら前にした約束を果たすようだ。叶うのであれば、きっと街の外へも連れて行ってくれるだろう。
洞窟内はさすがに寒いのか、ノルはいつの間にか持ってくれていた白いコートを着させてくれる。
「ヌイ、足元に気を付けて」
ノルはぬいの手をしっかり握りながら、地下への階段を先に歩いていく。中に入ってからも、道は多少デコボコしているがこけそうな突起物は見当たらない。
後から配置しただろう、光り輝く水晶が一定間隔に設置されており、少し薄暗いが足元は見えた。
道が少し広くなると、ノルは腕に捕まるように促した。手は散々繋いできたが、まるで夜会のようにエスコートされることはあまりない。
そっと腕をつかむと、ノルは少しだけ不満そうだった。周りを見ると、他の人たちはもっとくっついている。あのくらいしてほしいと、顔に出てしまったのだろう。その素直さにぬいは顔をほころばせる。
そのまま奥へ行くと、青く光る水晶だけではなく、奇妙な色をしたきのこが見えた。そろそろ開けた場所は近いのだろう。水の流れる音が聞こえてくる。これは前とは違う点だ。
その音に目を閉じながら耳を澄ませていると、ノルに到着だと告げられる。
「うわあ、すごくきれいだね!」
ぬいは興奮する。あの時と違って落ち着いて周りの景色を見ることができた。青く光る水晶と、きのこは同じであるが周りには川が流れていた。
奥の方には滝が流れていて、そこが観光名所となっているようだ。周りに人々が集まっているのが見える。時々魚が跳ねているのか、水音が聞こえた。
「ノルくん、もしかして前に食べた魚ってここで摂れるの?」
「ああ、一般の人が入れない場所に養殖所があって、そこで育てられている」
ぬいは観光気分であれこれとノルに質問する。周りが見えなさ過ぎて、何もないのに何度かこけそうになった。その時はすかさずノルが抱き留めてくれた。
以前とは確かに態度は違うが、根本的なところは変わらないのだとぬいは実感する。
洞窟内にある、ひと際大きな水晶前に二人は立っていた。青い色は変わらないが、磨かれたような透明さがある。
背後にも人の背丈くらいある水晶がそびえたち、少し横にずれない限り二人きりの空間のようになっている。
「もしかして、これが聖別された水晶ってこと?」
ぬいが問うとノルは頷いた。いまだに細かい違いは難しいが、極端にいいものと悪いものの見分けがつくようになってきたようである。
「これだけ多くの人が訪れる場所だ。うっかり過去を映してしまえば、不和の原因になりかねない」
「確かにそうだね。そのさ、過去を映す水晶ってこれのくすんだものから採れたりするの?」
「そうだ。悪いもの扱いをされがちだが、人によっては己の修業のために、自ら使用する者もいる」
「なるほど。あれって意外と簡単に手に入るんだね」
「入手はできるが、きちんとした身分と手続きがなければ基本的には無理だ。だからこそ、裏で取引がされる現状がある」
神官たちあたりが己の研鑽の為に使っているのだろう。直接かかわることはないが、神殿騎士たちも。そもそもノルも神官貴族と言われている。きっと、そういうことだろうとぬいは納得した。
「純度を問わなければ。僕も使ったことがある。他者に見られなければ、なんとか堪えれた。自身のトラウマを乗り越えるため、あえて治療に使われることもある」
それを聞いて、ぬいも今であれば立ち向かえるのではないかと考えた。そうすれば、己の過去を理解して感情が取り戻せるのではないかと。だが、やはり自分自身と対話をするのは怖い。
「ヌイ」
ノルは名を呼ぶと、そっと首元に手を伸ばした。喉元に手をあてると、そっと撫でる。
「あの時の僕は本当に愚かだった。混濁していたとはいえ、君の首に手をかけるなんて」
「かけただけだよね?一押しだってしてない。ノルくんはちゃんと踏みとどまった。だから、謝る必要なんてないよ」
もしあのまま絞められたとしても、毒さえ効かない身である。死ぬことはなかっただろう。
「わたしだったら、絞めるどころか殴る蹴るの暴行をしていたかもしれないよ?」
その場を明るくするように言うと、ノルは笑う。
「もしヌイにそうされるなら受け入れよう」
「ダメだよ!死んだらわたしすごく恨むからね。せめて受け流すとかしようよ!」
ぬいが全力で止めると、ノルはすぐに肯定してくれた。
そのあととりとめのない会話を交わし、やがて沈黙が訪れた。ノルはぬいの手を取ると、その場に跪いた。
いくら整備されているとはいえ、地面は少し歪で痛そうだ。ぬいは立ち上がるように言おうとしたが、真剣そのものの目を見てやめた。
ついにこの時が来てしまった。ぬいはまっすぐに見つめるノルと視線を交わす。
「僕がどういう風に君のことを想っているか、もう気づいているかもしれない。この国だとはっきり言うというよりは確認して終わることが多い。でも、それだと伝わらないし、君の国の風習には合わないと言われた」
ノルはぬいの為に嫌々トゥーに聞いたのだろう。
「何より僕はここまで真剣に想う相手に会ったことがない。多分君がはじめてで最後なんだろうと思う。自覚する前から、毎日ヌイのことを考えていた。今考えればあいつの言っていた通り、最初から意識していたんだろう」
これほどまでに真摯な思いを告げられても、ぬいの心は動かなかった。どう願おうが、それは変わることがない。まるでロボットのようである。
確かに動いているこの心臓も、別のもので作られているかもしれない。そんな風に思わざるを得なかった。
「ただ、僕には問題が多い。君を手に入れられたら、大きなものは解決できるだろうが、そうしたくない。それが無くとも、僕は君を選ぶとそう言いたいんだ。そしてその時ヌイが僕を選んでくれればそれはただの同情ではない。そう思えるんだ」
それは核心をついていた。このまま流されてしまえば、ぬいは同情心からノルを受け入れていただろう。感情が掻き消えようとも、それを見ないふりをしていたに違いない。
ノルがここまで覚悟を決めたのだ。自分も怖がらずに行動しようと、ぬいは一つ決心した。
「今言っても、ただの自己満足かもしれないが。それでも言っておきたい、君を繋ぎとめておきたいんだ。待っている間に、もし離れてしまったらと、気が気でないんだ」
辛そうに胸を押さえるノルを見て、ぬいの心に生まれそうになった何かは掻き消える。残ったのはただの同情心である。それはあまりにも歪すぎた。
「僕はヌイのことが」
ノルがその言葉を言おうとした瞬間、周りの歓喜に満ちた悲鳴でかき消される。聞こえなかったが、ノルは表情からして舌打ちしていただろう。
その声はほとんど女性のもので、トゥーさまや勇者さま。かっこいいなどと反響する。それにノルも気づいたのか、顔を歪めた。
彼の周りが賑やかなのはいつものことであるが、それにしても音量が大きい。ぬいは顔を傾けて、水晶の影から顔を出すと、案の定取り囲まれているトゥーが居た。
よく見ると、傍にはべっていたアイシェが居ない。彼女はファンの中で取りまとめのような役柄を負っていたのだろう。だから、不在の今日はこんなにも騒がしいのだ。
集団の中の女の子がトゥーに声を掛けられ、感極まったのか自身の体を抱きしめて震えている。それだけだったら、よかったのだが彼女は興奮のあまり勢いよく、トゥーに抱き着いた。
――その衝撃で、トゥーの面を支えていた止め紐が片方外れた。
抱き着いてきた彼女は、他の女の子にすぐ取り押さえられた。彼女たちからは一瞬たりとも、素顔は見えていないだろう。
トゥーはすぐ面に手を当て押さえてしまった。だが、ぬいには見えてしまった。
ぬいは手を離すと、フラフラと不安定な足取りでトゥーに引き寄せられる。ノルが何かを言おうとも、今の彼女には何も聞こえていない。
誰かが近づいてくる。彼女たちの一人がそう言うと、トゥーは後ろを振り向いた。すぐ目の前にぬいはたどり着いていた。
『もしかして、鍋島くんだよね?』
ぬいはそう言うと、トゥーの押さえていた手を外す。あらわになった素顔は驚きで目が見開かれている。
『えっ、綠さん?』
「なにいきなり訳の分からない言語で話してるの?」
「急に割り込んで来ないでよ!」
そんな彼女たちの叫び声は二人には聞こえていなかった。ぬいとトゥー、鍋島と綠には互いの姿しか映っていない。
『全然気づかなかったよ』
『俺も。ずっと一緒だったのに。なんで忘れていたんだろう』
鍋島は頭を押さえる。
『何気ない日常のように思えた』
『でも、確実に俺たちのことを蝕んでいた』
『……ああ、そうだった。いつどうなっても、おかしくなくて。ある日鍋島くんは』
ぬいはこらえきれずに胸を押さえる。その衝撃で涙が零れ落ちた。綠の涙を見た鍋島は、ハッと目を見開き。顔を手で押さえる。その表情は絶望に満ちていて、目には何の光もない。
『そう……だ、俺はもう……すでに』
鍋島が苦しそうに途切れながらも、その言葉を言おうとする。
「時が来た」
突如綠と鍋島の前にヴァーツラフが現れた。風に髪とローブをなびかせ、地面に降り立つ。その荘厳さに、周りの者はもちろん騒いでいた彼女たちも静まり、無条件で跪いた。
「神々の安寧を」
錫杖を地面に叩きつけると、二人は眠るように意識を失う。倒れこみそうになった体をヴァーツラフは右手に彼女を、左手に彼をと支えた。
「異邦者は目覚め、偽りの日々を過ごすだろう」
ヴァーツラフがそう言い切ると、左右に目配せする。
「己が役目を果たすがいい」
すると全く動けずにいたノルと、かげに隠れていたミレナがヴァーツラフの前へと進み出る。
「教皇さまのお導きの通り。我々は神々のご意思に従います」
二人同時にそう宣言する。蒼白であるが、神の僕としての表情に切り替わっている。ヴァーツラフは錫杖を揺らし、聖句を唱える。そうして渦中の五人の姿は掻き消えた。
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