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第二部

57.眠れぬ夜に(後編)

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(オリビア様を……殿下の……二人目のお妃に……)


 暗闇に包まれた宮内を彷徨うエリスの脳裏に、何度もリフレインする、『第二側妃』という言葉。
 それが、エリスの心を苦しめる。

 正直、エリスは今まで一度だって、アレクシスに二人目の妃ができる可能性を考えたことがなかった。

 アレクシスは大の女嫌いで、その上、結婚一ヵ月のときはっきりと『妃は一人でいい』と言ったのだから。

 それを考慮すれば、例えエリスがアレクシスに『オリビアを第二側妃に』と進言しようと、アレクシスはきっと受け入れない。
 いくら皇族が一夫多妻制だとしても、アレクシスがオリビアを娶ることはないだろう。

 エリスは、リアムの言葉を聞いたとき、真っ先にそう考えた。

(なのに、どうしてこんなにモヤモヤするのかしら……)


 ――いつの間にかエリスは一階に降り、中庭に辿り着いていた。
 わずかな月の灯りに誘われて、そっと足を踏み入れる。

 すると、ひんやりとした石畳の感触が足裏に伝わり――そこでようやく、エリスは自身が裸足であることに気が付いた。

(……冷たい。……わたし、靴を履くのを忘れていたのね)

 いつもなら、裸足で歩き回ることなど絶対に有り得ない。
 昔から諸々のマナーを厳しく躾けられてきたエリスの身体には、生活一般と社交についての作法がしみついているからだ。

 そんなエリスが裸足で屋敷を歩き回る――それはつまり、今のエリスが如何いか冷静でないか・・・・・・を意味していた。


(……寒い。何か羽織ってこればよかったわ)

 エリスは身体を震わせながら、中庭のベンチに腰を下ろす。
 冷えた空気から少しでも体温を守ろうと、ベンチの座面に両足を上げ、膝をかかえてうずくまった。

 そうして、再び考える。

 どうして自分は、こんなにも不安で不安で仕方がないのだろう、と。

 ――アレクシスがいないせいか。それとも、リアムに頼まれた内容のせいだろうか。あるいは――。
 
(ああ、そうだわ。……わたし、殿下のこと、何も知らないんだわ)

 アレクシスとオリビアの関係も。二年前にトラブルがあったということも。
 建国祭で、アレクシスがリアムと何を話そうとしていたのかも――自分は、何一つ知らない。

(殿下は、ご自分のことをお話にならないから……)

 建国祭の夜、『初恋だった』と知らされてから三ヵ月。
 だがその間に一度だって、アレクシスが過去を語ることはなかった。


(そう言えば、以前殿下に誕生日を尋ねたときも、はぐらかされてしまったわね)

 それはまだ二人が思いを通じ合わせるよりずっと前のこと。

 エリスが誕生日について尋ねたとき、アレクシスはあまりにも素っ気なく答えたのだ。

「二月だが――俺は誕生日を祝わない。よって、君にしてもらうことは何もない」――と。

 その声の冷たさは、『誕生日に嫌な思い出でもあるのだろうか』と、エリスが勘繰るほどだった。

 とにかく、それ以降エリスは、アレクシスに昔のことを尋ねないように気を付けてきた。
 エリスの方も、祖国について話せないことが多く、アレクシスが昔話をしてこないのは都合がよかった。

 だが、気持ちが通じ合った後もその習慣のままきてしまったせいで、エリスはアレクシスのことを殆ど知らないのである。


(思い出せば出すほど、わたしは殿下のことを何も知らないわ。それなのに、どうして大丈夫だなんて思ったのかしら。殿下がオリビア様を受け入れない保証なんて、どこにもないのに)

 リアムは言っていた。オリビアは『火傷を負った』のだと。そしてそのことを、アレクシスは知らないのだと。
 だとするなら、もしその火傷の痕のことを知ったら、アレクシスはどう思うだろうか。

(殿下はお優しいから……もしかしたら……)

 その可能性を考えた瞬間、エリスの心臓がキュッと締め付けられる。
 きっと大丈夫だと思いたいのに、信じたいのに、それが出来ない自身の心の弱さが、心底嫌になった。


『返事は急ぎません。それに、難しければ断っていただいて構いませんよ。もともと、無理は承知の上ですから』


 リアムにそう言われ、すぐに「無理だ」と答えられなかった自分にも腹が立つ。

(シオンにまで嘘をついて。わたし、本当に最低だわ)


『リアム様と何を話していたの?』

 帰りの馬車の中でそう尋ねたシオンに、エリスはつい、『大したことは話していないわ』と答えてしまったのだ。

 当然シオンは納得のいかない顔をしたが、『そう』と短く答えるだけで、それ以上は何も言ってこなかった――それが余計に、エリスの罪悪感を増すことになった。


(もう……どうしたらいいのか、わからない)

 こんなことなら、宮で大人しくしておけばよかった。

 シオンの言うとおり、外出などしなければよかった。

 アレクシスが戻ってくるのを、ただ大人しく待っていればよかったのだ。


(……殿下に、会いたい)


 エリスは膝を抱えたまま、ひとり静かに目を閉じる。

 その瞼の裏にアレクシスの姿を思い浮かべ、すっかり身体が冷え切ってしまうまで、エリスはいつまでも、そうしていた。
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