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第二部
31.出立前夜(後編)
しおりを挟むそもそもここ帝国では、宝石やパワーストーンをお守りとして身に着ける風習がある。
パートナーの瞳と同じ色の宝石を耳飾りにしたり、結婚式で石の入った指輪を交換したりといった具合に。
だが規律の厳しい軍隊では、指輪やピアス、首飾りなど、装飾品を身に着けることは許されていない。
だから軍人の妻たちは、そういったものの代わりに、ワイシャツの襟と裾に、一針一針、アラベスク模様の刺繍を入れるのだ。
『夫が無事に戻りますように』という、祈りを込めて。
エリスと結ばれるまで、恋や愛に疎い人生を送ってきたアレクシスでさえ、このシャツに入れられた刺繍の意味を知っていた。
戦場で共に戦ってきた友や部下たちが、各々の刺繍を密かに自慢し合っているところを、幾度となく目にしてきたからだ。
だがアレクシスは、これまで彼らの気持ちを真に理解できたことはなかった。
価値が付くほどの刺繍ならともかくとして、お世辞にも上手いとは言えない刺繍を周囲に自慢する者の気持ちなど、尚更理解できなかった。
けれど、そんな気持ちとは裏腹に、理解したいという気持ちも常に心の内にある。
普段は荒々しい男どもが、妻から贈られた刺繍の入ったシャツを大切に扱う様を見る度、羨ましさが込み上げてくるのも、また事実であった。
自分には到底理解できないであろう、『異性への愛』。
周りを見れば、皆それを易々と手にしているというのに、自分はどうだ。
女性から贈り物を押し付けられるたび、触れることさえできず、セドリックに処分させる日々。
エリスと結ばれる前のアレクシスは、そんな自分自身にほとほと嫌気が差していた。
それは、エリスを愛するようになった今も変わらない。
よく知りもしない女性からプレゼントを貰う場面を想像すると、吐き気を覚えるほどに気持ち悪くなってしまうのは昔と同じだ。
けれど、相手がエリスとなれば別である。
(愛する女性からの贈り物というのは、こうも嬉しいものなのか)
アレクシスは、少なくとも記憶のある限り初めて、女性からのプレゼントを『嬉しい』と感じていた。
と同時に、嬉しいと思える自身の心に感動を覚えていた。
アレクシスはしばらく喜びを噛みしめた後、ようやく顔を上げ、エリスの不安げな瞳を優しく覗き込む。
「ありがとう、エリス。見事な刺繍だ。気に入った」
「本当、ですか?」
「ああ。自分でも引くくらいの喜びで、正直、何と言葉にしたらいいのかわからない」
「……っ」
するとエリスは緊張が溶けたのか、安堵した様に頬を緩める。
「喜んでいただけたようで、わたくしも嬉しいです。殿下にはいつも贈り物をいただいているので、ずっとお返しをしたいと思っておりましたの」
「そうか。いや、本当に見事な刺繍だ。それに君が俺のことを考えて刺繍してくれたかと思うと……こう、感無量だ。大切に着る」
『大切に着る』――その言葉に、華のような笑みを浮かべるエリス。
その笑顔に、アレクシスはどうしようもなく胸が熱くなるのを感じた。
と同時に、理性で押し留めていたはずの衝動が、堰を切ったように溢れ出してくる。
「……っ」
全身が熱を持ち、本能的にエリスを求め始める。
もはや、制御不可能なほどに。
――これはもう、散歩などしている場合ではない。
アレクシスはエリスの背後にあるテーブルにシャツを置くと、そのままエリスを抱き上げた。
「きゃっ」と小さく悲鳴を上げるエリスをあっという間にベッドまで運び、その上に覆いかぶさる。
「……殿下? 今から、なさるのですか? お散歩は……」
「悪いがこちらが優先だ。これ以上は堪えられない。夕食までは一時間ある。一度くらいできるだろう」
「で、ですが……まだ、日が……」
「日など今に沈む。それに、明日から一ヵ月も会えないんだ。今夜はとことん付き合ってもらうから、そのつもりでいろ」
「……っ」
「何だ、嫌なのか?」
「……嫌、だなんて……そんなこと、あるはずありませんわ。ですが、殿下の体力は……その……」
アレクシスの意地悪な問いかけに、顔を真っ赤にして答えるエリス。
アレクシスは、そんなエリスに愛しさが込み上げて、「これ以上は待てん」と、問答無用で口づける。
何度も、何度でも、貪るようになキスを繰り返し、当然、その後は――。
こうして二人は夕食の時間ぎりぎりまで――では終わらず、夕食がすっかり冷めきってしまうまで、深く愛を交わし合うのだった。
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