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第一部
52.エリスの正体
しおりを挟む「なぜ、君の肩に火傷の痕がある……?」
その傷痕を見た瞬間、アレクシスの心を埋め尽くしたのは困惑だった。
初夜のときにはなかったはずの火傷の痕。
だが、どう見ても今日できたものではない傷痕。
それが長年探し求めていた少女の傷痕と同じ位置にあることに、酷く混乱した。
(いったいどういうことだ? 侍女からは、今日以前にエリスが怪我をしたという報告は受けていないが……)
よもやエリスが『思い出の少女』であるという可能性など露ほども考えず、アレクシスは指先でそっと傷痕に触れる。
「エリス、この傷はいつできたんだ? 料理中か? 侍女からは、君が怪我をしたという報告は受けていないが」
それは当然、エリスを心配する気持ちから出た言葉だった。
けれどエリスから返ってきた答えは、全く予想外のものだった。
エリスは、アレクシスの言葉を聞いて数秒固まった後、思い詰めたような顔でこう言ったのだ。
「お許しください、殿下。わたくしのこの肩の傷は、幼いときにわたくしの不注意で負ったもの。これを殿下に見られればきっと祖国に追い返されてしまうと思い、自らの一存で白粉を塗り、傷を隠し続けておりました。侍女たちも預かり知らぬことです。殿下を謀ったこと、お詫びのしようもございません。罰はいかようにも」――と。
そして、その瞬間だった。
アレクシスの中に、『その可能性』が急浮上してきたのは。
「~~ッ!」
(いや、待て、待て待て待て。そんな……まさか、本当に……?)
確かにエリスは、『あの少女』と名前も外見も同じだ。
肩の傷も、幼い頃に負った傷だとたった今本人の口から聞いた。
それだけではない。
アレクシスは、舞踏会でのジークフリートの言葉を思い出す。
二ヶ月前、王宮の中庭でジークフリートは言っていた。『シオンは六つのときにランデル王国に捨てられた』と。
(シオンはエリスの二つ年下。つまり、俺の六つ下だ。俺がランデル王国に滞在していたのは十二のときだから、エリスがシオンに同行していたと考えれば、辻褄は合う)
それに、今日、川岸で兵たちが沸き立っていたことについてもだ。
(ああ、よく思い出せ。あのとき兵たちは何と言っていた? 確か、『見事な泳ぎでした』『どこで泳ぎを習われたのですか』『救助の経験がおありなのですか』と。俺はあれをリアムに掛けた言葉だと思っていたが、そもそもリアムは元海軍所属。リアムの隊員である彼らがそれを知らないはずがない。つまり、あれはエリスに向けた言葉だった、となると……)
そもそも、アレクシスは今の今まで、エリスはただ、溺れた子供を放っておけずに無謀にも川に飛び込んだのだと思っていた。
子供の救出活動は主にリアムが行ったのであろうと、そう信じて疑わなかった。
けれど本当はそうでなかったとしたら。
子供を救出できるという確かな根拠が、エリスにあったとするならば……。
「…………エリス」
「――っ、は……はい」
アレクシスはその疑念を解消すべく、エリスに問いかける。
「君は以前にも、溺れた人間を助けた経験があるのか?」
「――え?」
すると当然、エリスは驚いた顔をした。アレクシスが突然、脈絡のない質問をしたからだ。
けれどエリスはすぐに、「はい」と控えめに頷く。
「子供のころに一度。川ではなく、湖でしたけれど」と。
その答えに、アレクシスは今度こそ確信せざるを得なかった。
目の前のエリスこそが、あのときの少女なのだと。
探し求めていた彼女は、ずっと、こんなにも近くにいたのだと。
「――っ」
自分を真正面から見つめる、不安と緊張の入り混じった瑠璃色の瞳。
その眼差しに、アレクシスの心臓が大きく跳ねる。
(ああ、そうだ。十年前も君は今の様な目をしていた。自分が迷子だというのに、一人きりでいた俺を心配してどこまでも付いてきて。湖に落ちた俺を助けるために水に飛び込んで……俺よりもずっと小さい身体で、俺を岸に引き上げたんだ)
――ああ、それなのに。
刹那、次にアレクシスの中に沸き上がったのは、とてつもない後悔と罪悪感だった。
あの日の少女を見つけた嬉しさ以上に、エリスに対する申し訳なさと自身への怒りで、彼は自分の頬をぶん殴りたい気持ちでいっぱいになった。
(最悪だ。まさかエリスがあのときの少女だと気付かずに、俺はこれまで過ごしてきたというのか?)
エリスが思い出の少女だと勝手に期待し、落胆し、別人だと思ったまま思いを募らせ、結局は同一人物でしたなどと、間抜けにもほどがある。
(もし今俺が彼女に思いを伝えたとして、過去のことについてはどう説明をする。今さら、湖で君が助けた相手は俺だったんだ、と感謝でも伝えるつもりか?)
そんなことを言えば、今の自分の気持ちを、過去の思い出に重ねていると思われるのではないか。
エリスへの恋慕ではなく、命の恩人に対する気持ちを拗らせているだけだと思うのではないか。
そういった不安が心の中に膨れ上がり、アレクシスはどうしたらいいのかわからなくなった。
けれどそれでも、アレクシスは心を決める。
エリスにこの気持ちを伝えなければ、と。
そうでなければ、本当の意味でエリスの誤解は解けやしない。
『罰はいかようにも』などと覚悟を見せるエリスの心を開くには、自分の心をさらけ出すしかない。
――だから。
アレクシスはごくりと喉を鳴らし、慎重に唇を開く。
「エリス、聞いてくれ。俺は君に罰を与えようなどと思っていない。侍女を咎めるつもりもない。なぜかわかるか?」
川でリアムに見せた牽制の意味を、彼女は少しでも理解してくれているだろうか。
――いや、この様子ではきっと理解していないだろうなと思いながら、アレクシスはエリスの返事を待たずに、続ける。
「それは、俺が君を愛しているからだ、エリス。君は今さら何をと思うだろうが……俺は君が受け入れてくれるなら、これから本当の夫婦になっていきたいと思っている。――これが今日、俺が君に話そうと決めていた内容だ」と。
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