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第一部
49.傷痕(前編)
しおりを挟むそれからほんのすぐのこと、エリスは大いに混乱していた。
なぜなら今彼女の前には、床に跪き、自分の右足の傷を丁寧に消毒している、アレクシスの姿があるからである。
(いったい、これはどういう状況なの……?)
――今から少し前、アレクシスの誤解を解かねばと意気込むエリスを待っていたのは、アレクシスのこんな一言だった。
「傷の手当ては俺がする。お前たちは全員下がれ」と。
侍女から受け取った『エリスの怪我一覧』の紙に目を通すなり、アレクシスはそう言ったのだ。
当然その場はざわついた。
皇子であるアレクシスが他人の傷の治療をするなど、戦場でもなければ決して有り得ないことだからだ。
とはいえ、侍女たちはアレクシスのエリスに対する恋心にとっくの前から気付いていたので、
「殿下がそのようなことをせずとも」
「手当てならばわたくしたちでもできますのに」
「ですが殿下のご命令ならば従うほかありませんわ」
と、見事な掛け合いを見せ一斉に退室していった。
そうして今現在、エリスはアレクシスに命じられるがままベッドに腰かけ、右足を差し出し、傷の手当てを受けている次第である。
(まさか、本当に殿下自ら傷の手当てをされるなんて……。てっきりわたしは、殿下に糾弾されるものだとばかり……)
最初エリスは、『悪い予感が当たってしまった』と、今にも逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
傷の手当というのは口実で、きっとアレクシスは自分を責めるために侍女たちを退室させたのだろうと。傷の数が一つでも違えば、自分を責めたのち、侍女たちに責任を取らせるのだと、そう思ったからだ。
だが、いざ二人きりになってみたらどうだろう。
アレクシスは――相変わらず顔つきは険しいものの――適切な治療を手際よく施していく。
しかもその手つきはどこまでも優しく丁寧で、まるでこれから自分に罰を与えようとする者の行動とはとても思えない。
(もしかして、もう怒っていらっしゃらないのかしら……)
エリスは一度はそう思ったものの、内心すぐに首を振った。
――いいえ、そんなはずはない、と。
(だって殿下は今も全然お話にならないし、お顔も険しいままだもの。わたしに対して怒っていらっしゃるのは、間違いないわ)
実際のところ、確かにアレクシスは怒っていた。
だがその理由はエリスの不貞を疑っているのではなく、危険を承知で川に飛び込んだことに対してであったし、そもそも、今のアレクシスの心の大半を埋めているのはリアムへの嫉妬――ですらなく、自身の自制心のなさに対する後悔だった。
というのも、アレクシスはエリスが入浴している間に川での自分の行動を思い起こし、猛反せずにはいられなかったからだ。
(あんな公衆の面前で、俺は何と大人げないことを……)
リアムの腕を捻り上げたときの、皆の怯えた顔。
兵たちは恐れおののいていたし、子供は恐怖のあまり硬直していた。
その上自分はリアムに、『俺の妃に触るな』と牽制までしてしまったのだ。
(あの発言自体に悔いはない……が、あんな形で自分の気持ちをエリスに伝えることになるとは)
アレクシスは、川でエリスを腕に抱きかかえたときの、酷く青ざめた顔を思い出す。
(彼女は俺の気持ちを知って、俺を嫌悪したのだろう。馬車の中でも何度も何かを言いかけて……だが俺は、彼女の言葉を聞くのが恐ろしくて遮ってしまった。拒絶された後のことを考えて、せめて一度は彼女に触れておきたいと、傷の手当てを申し出るなど卑怯な真似までして)
アレクシスはエリスの右足を下ろし、左足の手当てに移る。
(考えれば考えるほど情けなくて笑えてくるが、せめてもの救いは、彼女の怪我が大したものではなかったことか)
侍女からの報告書の内容は、両の手足に合わせて擦り傷六ヵ所、切り傷三ヵ所、あとは打撲傷が四ヵ所だったが、いずれも軽症。胴体に怪我はなく、アレクシスの見立てでは一週間もあれば治癒すると思われた。
川に落ちた子供を、何の装備もなく救出してこの程度で済んだのは幸運と言える。
もしもエリスの怪我が酷いものだったら、アレクシスは生涯自分を責め続けることになっただろう。
アレクシスはリアムと会うために、エリスとの待ち合わせ時間を遅めに設定したのだから。
だがエリスはこうして無事でいてくれた。
それだけが、唯一の救いだった。
自分の気持ちを受け入れてもらえずとも、命さえあれば未来も、可能性も残るのだから。
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