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第一部
34.自覚(後編)
しおりを挟むすると、そんなときだ。
不意にエリスの瞼がぴくりと動き、「ん」と小さく呻き声を上げる。
ハッと息を呑むアレクシスの前で、三秒ほど遅れてようやく瞼が開き、瑠璃色の美しい瞳が、ぱちぱちと数回瞬いた。
「エリス」と、なるべく優しい声になるよう努めて声をかけると、彼女はゆっくりと視線をこちらに向ける。
刹那、その瞳が驚いたように見開かれた。
「……殿下? どうして、こちらに……」
「どうって……覚えていないのか? 君は舞踏会場から、ジークフリートに連れ出されただろう?」
まだ薬が抜けきっていないのだろうか。などと心配に思いながら問うと、エリスは思い出した様にハッとする。
「――! あ……そう、でしたわ。わたくし、中庭でシオンとお話していて……。――あ、シオンというのは、わたくしの弟なのですが……そしたら、急に眠くなって……」
「急に眠く?」
「はい……本当に申し訳ございません。舞踏会の最中でしたのに……。殿下は、シオンにお会いになりませんでしたか?」
まるで疑うことを知らないエリスの瞳に、アレクシスは悟った。
なるほど。どうやらエリスは、シオンの起こした事件について全く気付いていないらしい。
ならば、と、アレクシスは話を合わせることに決める。
知らないなら知らないままでいてくれた方がいい。それに、自分とシオンが話した内容――つまり、『姉さんを僕に返せ』と言われたこと――について、自分から言い出す勇気が持てなかった。
「いや、知らんな。俺はジークフリートから、君が中庭にいると聞きつけて迎えに行ったまで。――そしたら君が倒れていて、流石に肝を冷やした」
「……! そう、なのですね。それは本当に……本当にご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」
エリスの顔が暗く陰る。
その表情に、アレクシスはやはり罪悪感を覚えながらも、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「気にするな。俺は部屋に戻るから、ゆっくり休め」
本当はエリスとシオンが何を話したのか気になるところだったが、けれどもしもそれを聞いて、『シオンと一緒に暮らしたい』などと言われたら堪らない。
だからアレクシスは、早々に部屋から退散することに決めた。
だが、アレクシスがドアを開けようとしたとき、不意に「殿下」と呼び止められる。
その声があまりに真剣すぎて、アレクシスはどきりとした。
(今日の俺は……なんだか、変だ)
と、自分で自分を気味悪く思いながら振り向くと、やはりエリスが思いつめたような顔でこちらを見ている。
もしや――と思った。
シオンの話をされるのか、と。
だが、エリスの口から出たのは、全く予想外の言葉だった。
「あの……、ありがとうございました」
「“ありがとうございました”?」
驚きのあまり、うっかり復唱してしまう。
まさか礼を言われるとは思わなかったからだ。
だが、よくよく考えてみれば確かに、眠ってしまった自分を運んでくれた相手に礼を言うのは、何らおかしなことではない。
「いや。そもそも、俺が君から目を放したのがいけなかった。こちらこそ、すまなかった」
そう答えると、エリスははにかむような笑みを浮かべる。
「いえ、あの、運んでくださったこともそうなのですが……」
「……?」
「ダンスのとき、動けなくなったわたくしに、殿下は『問題ない』とお言葉をかけてくださいました。あの一言に、わたくしは救われたのです。……そのお礼を、どうしても言いたくて」
「――っ」
「本当に、ありがとうございました」
嘘偽りない真っすぐな眼差しで見つめられ、アレクシスは内心とても動揺した。
自分では何気なく言ったその一言に、『救われた』などと言われても、どういう反応を取ればいいのかわからなかった。
ただ、どうしようもなく、胸が熱くなったことだけは確かだった。
結局アレクシスは「ああ」と短く答え、今度こそ部屋を出る。
そして後ろ手に扉を閉めると、そのままトンと背中を預け――口元を覆った。
(――ああ、そうか。俺は……)
気付いてしまった。エリスの笑顔を見て、気が付いてしまった。
自分は、彼女が好きなのだ――と。
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