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第一部
33.自覚(前編)
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時刻は真夜中を迎える頃。
エメラルド宮のエリスの寝室では、アレクシスが医師を退室させるところだった。
「下がれ。あとは俺が見る」
「はい。では、わたくしはこれにて」
「ああ、ご苦労だった」
医師は恭しく礼をして部屋から出て行く。
それを最後まで見送って、アレクシスは迷わずベッドの方を振り返った。
天蓋付きのベッドの上では、侍女たちによって寝着に着替えさせられたエリスが、静かな寝息を立てて眠っている。
念の為と思い医師に診察させたところ、『眠っているだけ。薬が切れれば時期に目を覚ます』との診断で、アレクシスはひとまず安堵していた。
アレクシスはベッド脇の椅子に腰を下ろすと、エリスの寝顔をじっと見つめる。
アレクシスがエメラルド宮に戻ったのは、今より一時間ほど前のこと。
舞踏会中にエリスが連れ去られた事件は、クロヴィスの登場で一応の終結を見せた。
正しくは中断と言うべきかもしれないが、あのクロヴィスが『引き受ける』と言ったのだから、それすなわち終結だ。
形はどうあれ、明日の朝には全て綺麗に片付いているのだろう。――アレクシスには、そんな確信があった。
だが、だとしてもだ。
アレクシスの心情的には、何一つ解決していなかった。
たとえ今夜のうちにジークフリートとシオンがランデル王国に送り返されたとしても、この心を蝕む焦燥感は、決して消えないとわかっていた。
アレクシスは数時間前、舞踏会でエリスと踊ったときのことを思い出す。
緊張からか何なのか、突然『踊れない』と言い出したエリス。
そんな彼女をフォローすべく、身体を持ち上げるようにして最初のステップを踏んだときに感じた、大きな違和感を。
そう。そのときアレクシスは確かに思ったのだ。「軽すぎる」――と。
初夜のときから、細い体をしているなとは思っていた。
いやまあ、出るところはきちんと出ているのだが、腰も手足もほっそりしていて、豊満な体つきの帝国民女性と比べると随分違う。
とは言え、スフィア王国は帝国から遠く離れている上、交流もないこともあり、そういう民族なのかと特に気には留めなかった。
けれど弟のシオンは年相応の健全な学生らしい体格をしていたし、特に身長が低いということもなく。
そこから導き出された答えは、ジークフリートの『エリスは祖国で酷い扱いを受けていた』という言葉が、決して嘘ではないということだった。
きっとエリスは、食事も満足に与えられない生活を送っていたのだろう。
なるほどそれなら、彼女が料理ができるというのも納得がいく。幼かった彼女が食事にありつくためには、自分で料理をするしかなかったのだ。
「本当に、俺は君のことを何も知らないな」
アレクシスは長い指で、エリスの瞼にかかった亜麻色の前髪をそっとはらう。
早く目覚めてくれと思う反面、まだ眠っていてほしいと願ってしまう自分がいる。
エリスとシオンが何を話したのか知らないアレクシスは、エリスの口から『シオンと共に暮らしたい』と告げられることを、心のどこかで恐れていた。
聡明なエリスのことだから、国家間のことを考えて、たとえそう思っていても自分からは言い出さないだろう。
けれど万が一にもそう言われたら、エリスの意思を無視してまで引き留めることはできない。――アレクシスはそう考えていた。
幼い頃から虐待を受けていたらしき彼女を、これ以上苦しめてはいけない。
正直言うと、シオンのエリスに向ける感情は姉に対するものとして不適切だと思っていたが、エリスが弟と生きることを望むのならば致し方ない、と。
そんな、臆病な正義感と同情心、あるいはもっと別の何かが、アレクシスの心を苛んでいた。
エメラルド宮のエリスの寝室では、アレクシスが医師を退室させるところだった。
「下がれ。あとは俺が見る」
「はい。では、わたくしはこれにて」
「ああ、ご苦労だった」
医師は恭しく礼をして部屋から出て行く。
それを最後まで見送って、アレクシスは迷わずベッドの方を振り返った。
天蓋付きのベッドの上では、侍女たちによって寝着に着替えさせられたエリスが、静かな寝息を立てて眠っている。
念の為と思い医師に診察させたところ、『眠っているだけ。薬が切れれば時期に目を覚ます』との診断で、アレクシスはひとまず安堵していた。
アレクシスはベッド脇の椅子に腰を下ろすと、エリスの寝顔をじっと見つめる。
アレクシスがエメラルド宮に戻ったのは、今より一時間ほど前のこと。
舞踏会中にエリスが連れ去られた事件は、クロヴィスの登場で一応の終結を見せた。
正しくは中断と言うべきかもしれないが、あのクロヴィスが『引き受ける』と言ったのだから、それすなわち終結だ。
形はどうあれ、明日の朝には全て綺麗に片付いているのだろう。――アレクシスには、そんな確信があった。
だが、だとしてもだ。
アレクシスの心情的には、何一つ解決していなかった。
たとえ今夜のうちにジークフリートとシオンがランデル王国に送り返されたとしても、この心を蝕む焦燥感は、決して消えないとわかっていた。
アレクシスは数時間前、舞踏会でエリスと踊ったときのことを思い出す。
緊張からか何なのか、突然『踊れない』と言い出したエリス。
そんな彼女をフォローすべく、身体を持ち上げるようにして最初のステップを踏んだときに感じた、大きな違和感を。
そう。そのときアレクシスは確かに思ったのだ。「軽すぎる」――と。
初夜のときから、細い体をしているなとは思っていた。
いやまあ、出るところはきちんと出ているのだが、腰も手足もほっそりしていて、豊満な体つきの帝国民女性と比べると随分違う。
とは言え、スフィア王国は帝国から遠く離れている上、交流もないこともあり、そういう民族なのかと特に気には留めなかった。
けれど弟のシオンは年相応の健全な学生らしい体格をしていたし、特に身長が低いということもなく。
そこから導き出された答えは、ジークフリートの『エリスは祖国で酷い扱いを受けていた』という言葉が、決して嘘ではないということだった。
きっとエリスは、食事も満足に与えられない生活を送っていたのだろう。
なるほどそれなら、彼女が料理ができるというのも納得がいく。幼かった彼女が食事にありつくためには、自分で料理をするしかなかったのだ。
「本当に、俺は君のことを何も知らないな」
アレクシスは長い指で、エリスの瞼にかかった亜麻色の前髪をそっとはらう。
早く目覚めてくれと思う反面、まだ眠っていてほしいと願ってしまう自分がいる。
エリスとシオンが何を話したのか知らないアレクシスは、エリスの口から『シオンと共に暮らしたい』と告げられることを、心のどこかで恐れていた。
聡明なエリスのことだから、国家間のことを考えて、たとえそう思っていても自分からは言い出さないだろう。
けれど万が一にもそう言われたら、エリスの意思を無視してまで引き留めることはできない。――アレクシスはそう考えていた。
幼い頃から虐待を受けていたらしき彼女を、これ以上苦しめてはいけない。
正直言うと、シオンのエリスに向ける感情は姉に対するものとして不適切だと思っていたが、エリスが弟と生きることを望むのならば致し方ない、と。
そんな、臆病な正義感と同情心、あるいはもっと別の何かが、アレクシスの心を苛んでいた。
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