6 / 122
第一部
6.結婚初夜(後編)
しおりを挟む◇
その日の夜。
侍女たちの手によって初夜の準備を整えられたエリスは、エメラルド宮の自室のソファに一人腰かけ、左肩に白粉を塗っていた。
火傷の痕を隠すためである。
湯浴みの際に傷跡に気付いた侍女が白粉を塗ってくれはしたが、念には念を入れなければ――と。
白粉を重ね塗しりながら、エリスはスフィア王国出立前夜のことを思い出す。
少ない持ち物を衣装ケースにまとめているところに父親がやってきて、言い放った言葉を。
「いいか! その醜い火傷の痕は絶対に隠しとおせ! 傷を理由にお前を送り返されるようなことになれば我が家は終わりだ!」――と。
(この傷を作ったのはお父さまなのに、随分勝手よね。でもわたしだって、あの国に戻るつもりはないわ)
たとえ自分がアレクシスに歓迎されていないとしても、祖国に戻るわけにはいかない。
肩に白粉を塗り終えたエリスはベッドの端に腰かけて、今日会ったばかりのアレクシスの姿を思い出す。
アッシュグレーの髪に、赤みがかった黄金色の切れ長の瞳。
顔立ちは凛々しく、身体は雄々しい。流石軍人というべきか、軍服の上からでもはっきりとわかるほど逞しい身体をしていた。
元婚約者であるユリウスは武闘派ではなかったし、それほど身体も大きいわけではなかったから、正直、身体の大きさに圧倒された。
そのことを思い出したエリスは、急に不安に襲われる。
あの大きな身体のアレクシス相手に、無事に初夜を終えられるだろうかと。
王太子妃教育の一環として多少はそういう知識も学んではいるが、あくまで知識は知識。
それにエリスは少し前まで、その相手がユリウスであると信じて疑わなかった。
愛するユリウスとその日を迎えることを夢見て生きてきた。
ヴィスタリアへの輿入れが決まってからも、ユリウスのことを思い出さない日はなかった。
自分はユリウスに捨てられたのだと頭では理解していても、嫌いになることができなかったのだ。
それくらい、エリスにとってユリウスの存在は大きかった。
婚約者として共に過ごした十年の歳月は、彼女にとってあまりにも長すぎた。
「ユリウス殿下……」
エリスは胸の前で両手を握りしめ、瞼をぎゅっと閉じる。
怖い……怖い。
これからユリウス以外の男に抱かれるかと思うと、怖くて怖くてたまらない。
いっそのこと、アレクシスが来なければいいのに。自分との初夜を拒否してくれたらいいのに――そう願ってしまうほど、恐ろしくてたまらない。
けれどそんなエリスの願いは叶わず、まもなくして、アレクシスが部屋を訪れた。
バスローブを一枚羽織っただけのアレクシスからは、強いアルコールの匂いが漂ってくる。
かなりの酒を摂取したのだろう。
酷く虚ろなアレクシスの眼差しに、エリスは強い恐怖を覚えた。
エリスは酒が嫌いだった。
父が酒に酔う度に、エリスの身体を殴ったからだ。
身を固くするエリスに、アレクシスは吐き捨てるように命じる。
「脱げ」――と。
「……え」
「脱げと言っている。俺の妻ならば、夫の手を煩わせるな」
「――っ」
(……怖い)
自分はこれから、本当にこの男と夜を共にしなければならないのか。
そう考えると、恐ろしさのあまり逃げ出してしまいたくなった。
けれど、そんなことが許されるはずもない。
(だってわたしはもう、この方と結婚してしまったのだから……)
エリスは唇を嚙みしめる。
どれだけアレクシスが怖くとも、恐ろしくとも、アレクシスと結婚した事実は変わらない。
側室とはいえアレクシスの妻になったのだから、務めは果たさなければならない。
怯えている場合ではないのだ。
エリスは覚悟を決め、しゅるりと肌着の肩紐を落とす。
練習したとおり、アレクシスに微笑みかける。
「アレクシス殿下。ふつつかなわたくしではございますが、殿下の妻として、誠心誠意努めたいと思いますわ」――と。
それは今のエリスにとって、精一杯の言葉だった。
最大の勇気を振り絞った結果だった。
けれどそんなエリスを、アレクシスは蔑むように睨みつけた。
まるで仇か何かを前にしたような顔で、冷たく言い放ったのだ。
「ハッ。勘違いするな。俺がお前を抱くのは皇子としての義務を果たすためであって、それ以上でも以下でもない。俺はお前に興味などないし、この先もずっと、お前を愛するつもりはない」
「……っ」
刹那、エリスは言葉を失った。
自分が歓迎されていないことは知っていた。
けれどまさかここまで酷い言葉を投げつけられるとは、誰が想像しただろう。
氷のような冷めた瞳でエリスを見下ろし、アレクシスは続ける。
「お前をここには置いてやる。それが陛下の命だからな。だがもし少しでも俺の気分を害すれば、女であろうと容赦はしない。たとえ妻相手でもだ。よく心に刻んでおけ」
「――っ」
(ああ……どうして。どうしてここまで言われなければならないの?)
そう思っても、口に出すことは許されない。
もしそれを言ってしまえば、きっと自分は殺されてしまうだろう。
賢いエリスは瞬時にそう悟った。
エリスは泣き出したくなる気持ちを必死に心の奥底に押し込め、淑女の笑みを取り繕う。
「わかりましたわ。今後は不用意な発言は控えさせていただきます。全ては殿下の御心のままに」
するとその返事に、意外にも驚いたように眉を震わせるアレクシス。
彼は何かを考える素振りを見せたが、結局態度を改めることはなく、無言でエリスをベッドに押し倒した。
「その言葉、よく覚えておけ」
冷たく吐き捨てて――前戯も殆どせぬままに、アレクシスはエリスの中に、無理やり自身を押し込んだ。
429
お気に入りに追加
1,573
あなたにおすすめの小説
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
バイバイ、旦那様。【本編完結済】
ちくわぶ(まるどらむぎ)
恋愛
妻シャノンが屋敷を出て行ったお話。
この作品はフィクションです。
作者独自の世界観です。ご了承ください。
7/31 お話の至らぬところを少し訂正させていただきました。
申し訳ありません。大筋に変更はありません。
8/1 追加話を公開させていただきます。
リクエストしてくださった皆様、ありがとうございます。
調子に乗って書いてしまいました。
この後もちょこちょこ追加話を公開予定です。
甘いです(個人比)。嫌いな方はお避け下さい。
※この作品は小説家になろうさんでも公開しています。
旦那様、前世の記憶を取り戻したので離縁させて頂きます
結城芙由奈
恋愛
【前世の記憶が戻ったので、貴方はもう用済みです】
ある日突然私は前世の記憶を取り戻し、今自分が置かれている結婚生活がとても理不尽な事に気が付いた。こんな夫ならもういらない。前世の知識を活用すれば、この世界でもきっと女1人で生きていけるはず。そして私はクズ夫に離婚届を突きつけた―。
忘却令嬢〜そう言われましても記憶にございません〜【完】
雪乃
恋愛
ほんの一瞬、躊躇ってしまった手。
誰よりも愛していた彼女なのに傷付けてしまった。
ずっと傷付けていると理解っていたのに、振り払ってしまった。
彼女は深い碧色に絶望を映しながら微笑んだ。
※読んでくださりありがとうございます。
ゆるふわ設定です。タグをころころ変えてます。何でも許せる方向け。
旦那様は大変忙しいお方なのです
あねもね
恋愛
レオナルド・サルヴェール侯爵と政略結婚することになった私、リゼット・クレージュ。
しかし、その当人が結婚式に現れません。
侍従長が言うことには「旦那様は大変忙しいお方なのです」
呆気にとられたものの、こらえつつ、いざ侯爵家で生活することになっても、お目にかかれない。
相変わらず侍従長のお言葉は「旦那様は大変忙しいお方なのです」のみ。
我慢の限界が――来ました。
そちらがその気ならこちらにも考えがあります。
さあ。腕が鳴りますよ!
※視点がころころ変わります。
※※2021年10月1日、HOTランキング1位となりました。お読みいただいている皆様方、誠にありがとうございます。
旦那の真実の愛の相手がやってきた。今まで邪魔をしてしまっていた妻はお祝いにリボンもおつけします
暖夢 由
恋愛
「キュリール様、私カダール様と心から愛し合っておりますの。
いつ子を身ごもってもおかしくはありません。いえ、お腹には既に育っているかもしれません。
子を身ごもってからでは遅いのです。
あんな素晴らしい男性、キュリール様が手放せないのも頷けますが、カダール様のことを想うならどうか潔く身を引いてカダール様の幸せを願ってあげてください」
伯爵家にいきなりやってきた女(ナリッタ)はそういった。
女は小説を読むかのように旦那とのなれそめから今までの話を話した。
妻であるキュリールは彼女の存在を今日まで知らなかった。
だから恥じた。
「こんなにもあの人のことを愛してくださる方がいるのにそれを阻んでいたなんて私はなんて野暮なのかしら。
本当に恥ずかしい…
私は潔く身を引くことにしますわ………」
そう言って女がサインした書類を神殿にもっていくことにする。
「私もあなたたちの真実の愛の前には敵いそうもないもの。
私は急ぎ神殿にこの書類を持っていくわ。
手続きが終わり次第、あの人にあなたの元へ向かうように伝えるわ。
そうだわ、私からお祝いとしていくつか宝石をプレゼントさせて頂きたいの。リボンもお付けしていいかしら。可愛らしいあなたととてもよく合うと思うの」
こうして一つの夫婦の姿が形を変えていく。
---------------------------------------------
※架空のお話です。
※設定が甘い部分があるかと思います。「仕方ないなぁ」とお赦しくださいませ。
※現実世界とは異なりますのでご理解ください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる