6 / 135
第一部
6.結婚初夜(後編)
しおりを挟む◇
その日の夜。
侍女たちの手によって初夜の準備を整えられたエリスは、エメラルド宮の自室のソファに一人腰かけ、左肩に白粉を塗っていた。
火傷の痕を隠すためである。
湯浴みの際に傷跡に気付いた侍女が白粉を塗ってくれはしたが、念には念を入れなければ――と。
白粉を重ね塗しりながら、エリスはスフィア王国出立前夜のことを思い出す。
少ない持ち物を衣装ケースにまとめているところに父親がやってきて、言い放った言葉を。
「いいか! その醜い火傷の痕は絶対に隠しとおせ! 傷を理由にお前を送り返されるようなことになれば我が家は終わりだ!」――と。
(この傷を作ったのはお父さまなのに、随分勝手よね。でもわたしだって、あの国に戻るつもりはないわ)
たとえ自分がアレクシスに歓迎されていないとしても、祖国に戻るわけにはいかない。
肩に白粉を塗り終えたエリスはベッドの端に腰かけて、今日会ったばかりのアレクシスの姿を思い出す。
アッシュグレーの髪に、赤みがかった黄金色の切れ長の瞳。
顔立ちは凛々しく、身体は雄々しい。流石軍人というべきか、軍服の上からでもはっきりとわかるほど逞しい身体をしていた。
元婚約者であるユリウスは武闘派ではなかったし、それほど身体も大きいわけではなかったから、正直、身体の大きさに圧倒された。
そのことを思い出したエリスは、急に不安に襲われる。
あの大きな身体のアレクシス相手に、無事に初夜を終えられるだろうかと。
王太子妃教育の一環として多少はそういう知識も学んではいるが、あくまで知識は知識。
それにエリスは少し前まで、その相手がユリウスであると信じて疑わなかった。
愛するユリウスとその日を迎えることを夢見て生きてきた。
ヴィスタリアへの輿入れが決まってからも、ユリウスのことを思い出さない日はなかった。
自分はユリウスに捨てられたのだと頭では理解していても、嫌いになることができなかったのだ。
それくらい、エリスにとってユリウスの存在は大きかった。
婚約者として共に過ごした十年の歳月は、彼女にとってあまりにも長すぎた。
「ユリウス殿下……」
エリスは胸の前で両手を握りしめ、瞼をぎゅっと閉じる。
怖い……怖い。
これからユリウス以外の男に抱かれるかと思うと、怖くて怖くてたまらない。
いっそのこと、アレクシスが来なければいいのに。自分との初夜を拒否してくれたらいいのに――そう願ってしまうほど、恐ろしくてたまらない。
けれどそんなエリスの願いは叶わず、まもなくして、アレクシスが部屋を訪れた。
バスローブを一枚羽織っただけのアレクシスからは、強いアルコールの匂いが漂ってくる。
かなりの酒を摂取したのだろう。
酷く虚ろなアレクシスの眼差しに、エリスは強い恐怖を覚えた。
エリスは酒が嫌いだった。
父が酒に酔う度に、エリスの身体を殴ったからだ。
身を固くするエリスに、アレクシスは吐き捨てるように命じる。
「脱げ」――と。
「……え」
「脱げと言っている。俺の妻ならば、夫の手を煩わせるな」
「――っ」
(……怖い)
自分はこれから、本当にこの男と夜を共にしなければならないのか。
そう考えると、恐ろしさのあまり逃げ出してしまいたくなった。
けれど、そんなことが許されるはずもない。
(だってわたしはもう、この方と結婚してしまったのだから……)
エリスは唇を嚙みしめる。
どれだけアレクシスが怖くとも、恐ろしくとも、アレクシスと結婚した事実は変わらない。
側室とはいえアレクシスの妻になったのだから、務めは果たさなければならない。
怯えている場合ではないのだ。
エリスは覚悟を決め、しゅるりと肌着の肩紐を落とす。
練習したとおり、アレクシスに微笑みかける。
「アレクシス殿下。ふつつかなわたくしではございますが、殿下の妻として、誠心誠意努めたいと思いますわ」――と。
それは今のエリスにとって、精一杯の言葉だった。
最大の勇気を振り絞った結果だった。
けれどそんなエリスを、アレクシスは蔑むように睨みつけた。
まるで仇か何かを前にしたような顔で、冷たく言い放ったのだ。
「ハッ。勘違いするな。俺がお前を抱くのは皇子としての義務を果たすためであって、それ以上でも以下でもない。俺はお前に興味などないし、この先もずっと、お前を愛するつもりはない」
「……っ」
刹那、エリスは言葉を失った。
自分が歓迎されていないことは知っていた。
けれどまさかここまで酷い言葉を投げつけられるとは、誰が想像しただろう。
氷のような冷めた瞳でエリスを見下ろし、アレクシスは続ける。
「お前をここには置いてやる。それが陛下の命だからな。だがもし少しでも俺の気分を害すれば、女であろうと容赦はしない。たとえ妻相手でもだ。よく心に刻んでおけ」
「――っ」
(ああ……どうして。どうしてここまで言われなければならないの?)
そう思っても、口に出すことは許されない。
もしそれを言ってしまえば、きっと自分は殺されてしまうだろう。
賢いエリスは瞬時にそう悟った。
エリスは泣き出したくなる気持ちを必死に心の奥底に押し込め、淑女の笑みを取り繕う。
「わかりましたわ。今後は不用意な発言は控えさせていただきます。全ては殿下の御心のままに」
するとその返事に、意外にも驚いたように眉を震わせるアレクシス。
彼は何かを考える素振りを見せたが、結局態度を改めることはなく、無言でエリスをベッドに押し倒した。
「その言葉、よく覚えておけ」
冷たく吐き捨てて――前戯も殆どせぬままに、アレクシスはエリスの中に、無理やり自身を押し込んだ。
439
お気に入りに追加
1,541
あなたにおすすめの小説
戦いに行ったはずの騎士様は、女騎士を連れて帰ってきました。
新野乃花(大舟)
恋愛
健気にカサルの帰りを待ち続けていた、彼の婚約者のルミア。しかし帰還の日にカサルの隣にいたのは、同じ騎士であるミーナだった。親し気な様子をアピールしてくるミーナに加え、カサルもまた満更でもないような様子を見せ、ついにカサルはルミアに婚約破棄を告げてしまう。これで騎士としての真実の愛を手にすることができたと豪語するカサルであったものの、彼はその後すぐにあるきっかけから今夜破棄を大きく後悔することとなり…。
私を追い出した結果、飼っていた聖獣は誰にも懐かないようです
天宮有
恋愛
子供の頃、男爵令嬢の私アミリア・ファグトは助けた小犬が聖獣と判明して、飼うことが決まる。
数年後――成長した聖獣は家を守ってくれて、私に一番懐いていた。
そんな私を妬んだ姉ラミダは「聖獣は私が拾って一番懐いている」と吹聴していたようで、姉は侯爵令息ケドスの婚約者になる。
どうやらラミダは聖獣が一番懐いていた私が邪魔なようで、追い出そうと目論んでいたようだ。
家族とゲドスはラミダの嘘を信じて、私を蔑み追い出そうとしていた。
願いの代償
らがまふぃん
恋愛
誰も彼もが軽視する。婚約者に家族までも。
公爵家に生まれ、王太子の婚約者となっても、誰からも認められることのないメルナーゼ・カーマイン。
唐突に思う。
どうして頑張っているのか。
どうして生きていたいのか。
もう、いいのではないだろうか。
メルナーゼが生を諦めたとき、世界の運命が決まった。
*ご都合主義です。わかりづらいなどありましたらすみません。笑って読んでくださいませ。本編15話で完結です。番外編を数話、気まぐれに投稿します。よろしくお願いいたします。
将来を誓い合った王子様は聖女と結ばれるそうです
きぬがやあきら
恋愛
「聖女になれなかったなりそこない。こんなところまで追って来るとはな。そんなに俺を忘れられないなら、一度くらい抱いてやろうか?」
5歳のオリヴィエは、神殿で出会ったアルディアの皇太子、ルーカスと恋に落ちた。アルディア王国では、皇太子が代々聖女を妻に迎える慣わしだ。しかし、13歳の選別式を迎えたオリヴィエは、聖女を落選してしまった。
その上盲目の知恵者オルガノに、若くして命を落とすと予言されたオリヴィエは、せめてルーカスの傍にいたいと、ルーカスが団長を務める聖騎士への道へと足を踏み入れる。しかし、やっとの思いで再開したルーカスは、昔の約束を忘れてしまったのではと錯覚するほど冷たい対応で――?
【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり
皇太子夫妻の歪んだ結婚
夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。
その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。
本編完結してます。
番外編を更新中です。
【掌編集】今までお世話になりました旦那様もお元気で〜妻の残していった離婚受理証明書を握りしめイケメン公爵は涙と鼻水を垂らす
まほりろ
恋愛
新婚初夜に「君を愛してないし、これからも愛するつもりはない」と言ってしまった公爵。
彼は今まで、天才、美男子、完璧な貴公子、ポーカーフェイスが似合う氷の公爵などと言われもてはやされてきた。
しかし新婚初夜に暴言を吐いた女性が、初恋の人で、命の恩人で、伝説の聖女で、妖精の愛し子であったことを知り意気消沈している。
彼の手には元妻が置いていった「離婚受理証明書」が握られていた……。
他掌編七作品収録。
※無断転載を禁止します。
※朗読動画の無断配信も禁止します
「Copyright(C)2023-まほりろ/若松咲良」
某小説サイトに投稿した掌編八作品をこちらに転載しました。
【収録作品】
①「今までお世話になりました旦那様もお元気で〜ポーカーフェイスの似合う天才貴公子と称された公爵は、妻の残していった離婚受理証明書を握りしめ涙と鼻水を垂らす」
②「何をされてもやり返せない臆病な公爵令嬢は、王太子に竜の生贄にされ壊れる。能ある鷹と天才美少女は爪を隠す」
③「運命的な出会いからの即日プロポーズ。婚約破棄された天才錬金術師は新しい恋に生きる!」
④「4月1日10時30分喫茶店ルナ、婚約者は遅れてやってきた〜新聞は星座占いを見る為だけにある訳ではない」
⑤「『お姉様はズルい!』が口癖の双子の弟が現世の婚約者! 前世では弟を立てる事を親に強要され馬鹿の振りをしていましたが、現世では奴とは他人なので天才として実力を充分に発揮したいと思います!」
⑥「婚約破棄をしたいと彼は言った。契約書とおふだにご用心」
⑦「伯爵家に半世紀仕えた老メイドは伯爵親子の罠にハマり無一文で追放される。老メイドを助けたのはポーカーフェイスの美女でした」
⑧「お客様の中に褒め褒めの感想を書ける方はいらっしゃいませんか? 天才美文感想書きVS普通の少女がえんぴつで書いた感想!」
【完結】殿下、自由にさせていただきます。
なか
恋愛
「出て行ってくれリルレット。王宮に君が住む必要はなくなった」
その言葉と同時に私の五年間に及ぶ初恋は終わりを告げた。
アルフレッド殿下の妃候補として選ばれ、心の底から喜んでいた私はもういない。
髪を綺麗だと言ってくれた口からは、私を貶める言葉しか出てこない。
見惚れてしまう程の笑みは、もう見せてもくれない。
私………貴方に嫌われた理由が分からないよ。
初夜を私一人だけにしたあの日から、貴方はどうして変わってしまったの?
恋心は砕かれた私は死さえ考えたが、過去に見知らぬ男性から渡された本をきっかけに騎士を目指す。
しかし、正騎士団は女人禁制。
故に私は男性と性別を偽って生きていく事を決めたのに……。
晴れて騎士となった私を待っていたのは、全てを見抜いて笑う副団長であった。
身分を明かせない私は、全てを知っている彼と秘密の恋をする事になる。
そして、騎士として王宮内で起きた変死事件やアルフレッドの奇行に大きく関わり、やがて王宮に蔓延る謎と対峙する。
これは、私の初恋が終わり。
僕として新たな人生を歩みだした話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる