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第五章 泡沫夢幻
六
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「お父上が嘆かれますよ」
低い声が、白石の饒舌多弁をさりげなく拒否するように発された。
眉根を寄せて対抗心を露わにする彼女に臆することなく、藤田は淡々と言葉を続けた。
「東京で初めての個展は、ここ白波画廊で行いました。展覧会で偶然僕の書を目にした波雄さんが、わざわざ連絡をくださったのです」
「……もちろん知っているわ。もう十五年近くになるかしらね。父はあなたの作品に陶酔していた。藤田くんの書は攻撃的だが愛が深い、彼はなぜこんなふうに書けるのだろう、ってひとりごとみたいに言っているのを聞いていたから、自然と私もあなたの書に興味を持った。あなたの書は、当時から他の追随を許さない魅力があった。別格だったのよ」
一度崩した態度は変えないと言わんばかりに親しげな口調を貫く白石に対し、藤田はあくまでビジネス上の会話だと主張するように丁寧な言葉遣いを維持する。
「波雄さんが見出してくださり、今の僕があるといえます。彼は誰よりも僕の書を深く理解してくれました。ある意味、実の父以上だったかもしれません」
「父は今でも、あなたの書を愛しているわ。この企画展も父の提案だしね」
「波雄さんから今回の依頼を受けて、若い頃を思い出しました。四十を前にして、新鮮な気持ちで創作活動に没頭できることに感謝しています」
「白石波雄のおかげね」
「ええ、あなたのお父上はすばらしい方です。経営者としても、人としても」
「…………」
「元夫ごときに心乱す娘に、波雄さんは安心して白波画廊を任せられるでしょうか」
皮肉めいた指摘に言葉を呑み込んだ白石は、やがて観念したように眉を下げた。しかし次の瞬間には、その目は鋭い光を取り戻し、峻厳な空気を放ちはじめた彼女はブラウンレッドの唇をひらいた。
「個展の概要や宣伝方法については、前社長により打ち合わせ済みと伺っております。本日は、できあがったフライヤーのご確認をお願いします」
「ありがとうございます」
満足げな藤田に、白石も清々しい笑みで応える。
「体調を崩した前社長に代わり急遽この企画を引き継ぎましたが、藤田さんの作品への愛情は前社長に劣らない自信があります。藤田千秋の魅力を最大限に引き出した個展になるよう、尽力いたします」
その力強い声色は、白波画廊社長としての意地を感じさせた。
白石が見せた態度の変化よりも、打ち合わせを仕切り直しする役割を果たしたのが、個展の宣伝チラシだった。テーブルの上に差し出された一枚を目にしたとたん、潤は思わず前のめりになって食い入るように見つめ、自身の立場も忘れて感嘆を漏らした。
「はあ……素敵」
バケツいっぱいの墨を一面に撒き散らした黒が、じわじわと滲んで灰に薄まる途中のような背景。立ち昇る煙にすら見える濃淡の美の中に、色濃く浮かび上がる墨文字『藤田千秋』。
「昭俊さんの字……?」
周りに聞こえないような小さな呟きに、藤田が応えた。
「僕が書きました。大筆で。『潤』を書いたときのように」
自分の名と同じ音に反応して隣を見上げれば、満面の笑みで迎えてくれる彼がいる。たまらない気持ちを抱えてもう一度チラシを見下ろした。
凶暴でありながら、一貫した流麗さを根底に宿す。彼の手によって生み出された美醜を超越した墨痕が、腹の底をぞわりと撫でた。
「お気に召していただけたようですね」
白石の声で現実に引き戻され、顔を上げ背筋を伸ばす。目が合うと、彼女は本来の魅力であろう優雅な笑みを浮かべてから視線を藤田に移した。
「では、予定どおりこちらのデザインで進めてよろしいでしょうか」
「お願いします」
「承知しました。ありがとうございます」
その言葉で打ち合わせが問題なく終了するかのように思えたが、白石がふたたび謎めいた微笑をよこした。
「昭俊。……って呼ぶのね。あなたも」
一度目にその名を口にしたときよりも意気阻喪した様子で、彼女は静かに言った。
低い声が、白石の饒舌多弁をさりげなく拒否するように発された。
眉根を寄せて対抗心を露わにする彼女に臆することなく、藤田は淡々と言葉を続けた。
「東京で初めての個展は、ここ白波画廊で行いました。展覧会で偶然僕の書を目にした波雄さんが、わざわざ連絡をくださったのです」
「……もちろん知っているわ。もう十五年近くになるかしらね。父はあなたの作品に陶酔していた。藤田くんの書は攻撃的だが愛が深い、彼はなぜこんなふうに書けるのだろう、ってひとりごとみたいに言っているのを聞いていたから、自然と私もあなたの書に興味を持った。あなたの書は、当時から他の追随を許さない魅力があった。別格だったのよ」
一度崩した態度は変えないと言わんばかりに親しげな口調を貫く白石に対し、藤田はあくまでビジネス上の会話だと主張するように丁寧な言葉遣いを維持する。
「波雄さんが見出してくださり、今の僕があるといえます。彼は誰よりも僕の書を深く理解してくれました。ある意味、実の父以上だったかもしれません」
「父は今でも、あなたの書を愛しているわ。この企画展も父の提案だしね」
「波雄さんから今回の依頼を受けて、若い頃を思い出しました。四十を前にして、新鮮な気持ちで創作活動に没頭できることに感謝しています」
「白石波雄のおかげね」
「ええ、あなたのお父上はすばらしい方です。経営者としても、人としても」
「…………」
「元夫ごときに心乱す娘に、波雄さんは安心して白波画廊を任せられるでしょうか」
皮肉めいた指摘に言葉を呑み込んだ白石は、やがて観念したように眉を下げた。しかし次の瞬間には、その目は鋭い光を取り戻し、峻厳な空気を放ちはじめた彼女はブラウンレッドの唇をひらいた。
「個展の概要や宣伝方法については、前社長により打ち合わせ済みと伺っております。本日は、できあがったフライヤーのご確認をお願いします」
「ありがとうございます」
満足げな藤田に、白石も清々しい笑みで応える。
「体調を崩した前社長に代わり急遽この企画を引き継ぎましたが、藤田さんの作品への愛情は前社長に劣らない自信があります。藤田千秋の魅力を最大限に引き出した個展になるよう、尽力いたします」
その力強い声色は、白波画廊社長としての意地を感じさせた。
白石が見せた態度の変化よりも、打ち合わせを仕切り直しする役割を果たしたのが、個展の宣伝チラシだった。テーブルの上に差し出された一枚を目にしたとたん、潤は思わず前のめりになって食い入るように見つめ、自身の立場も忘れて感嘆を漏らした。
「はあ……素敵」
バケツいっぱいの墨を一面に撒き散らした黒が、じわじわと滲んで灰に薄まる途中のような背景。立ち昇る煙にすら見える濃淡の美の中に、色濃く浮かび上がる墨文字『藤田千秋』。
「昭俊さんの字……?」
周りに聞こえないような小さな呟きに、藤田が応えた。
「僕が書きました。大筆で。『潤』を書いたときのように」
自分の名と同じ音に反応して隣を見上げれば、満面の笑みで迎えてくれる彼がいる。たまらない気持ちを抱えてもう一度チラシを見下ろした。
凶暴でありながら、一貫した流麗さを根底に宿す。彼の手によって生み出された美醜を超越した墨痕が、腹の底をぞわりと撫でた。
「お気に召していただけたようですね」
白石の声で現実に引き戻され、顔を上げ背筋を伸ばす。目が合うと、彼女は本来の魅力であろう優雅な笑みを浮かべてから視線を藤田に移した。
「では、予定どおりこちらのデザインで進めてよろしいでしょうか」
「お願いします」
「承知しました。ありがとうございます」
その言葉で打ち合わせが問題なく終了するかのように思えたが、白石がふたたび謎めいた微笑をよこした。
「昭俊。……って呼ぶのね。あなたも」
一度目にその名を口にしたときよりも意気阻喪した様子で、彼女は静かに言った。
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