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第五章 泡沫夢幻
三
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大きな身体に閉じ込められたまま、規則的に繰り返される呼吸を全身に受けながらひたすら息をひそめていた。
どのくらい経っただろうか。ようやくその体勢に慣れて浅い眠気が訪れた頃、背後にわずかな身じろぎを感知し、潤は目を見ひらいた。
「ん……あれ」
こもった低い声が降り、身体を抱きしめる腕の力が緩んだ。
背をひねって後ろを見上げれば、淡い灯の中、浮かび上がる顔は目をしばたたいている。状況を把握するのに精一杯といった様子だ。
数秒ほど見つめ合っていたが、藤田がなにかに気づいたようにすばやく腰を引いた。
「ごめん」
「いえ……」
「ああ、っと……そうか、僕が入れと言ったのか」
「覚えていませんか」
「いや、思い出しました」
苦笑しながら答える彼に、潤は笑い返すことができずに黙り込む。
やはりあの夢は幻でしかなかった。隠せない嘆息を漏らし、ふたたび藤田に背を向けた。
「なんだか怒っている?」
とぼけたような問いに、ますます不満が募る。
「別に怒っていませんけど」
「なにか言いたそうですね」
耳元でそっと指摘され、潤はため息をついた。正直に言うのは気が引けるが、今さら藤田に嘘やごまかしは通用しない。
背後でじっと言葉を待つ男におそるおそる投げかける。
「……私に、失望していますか」
「え?」
「飽きてしまった、とか」
「なんの話です」
怪訝そうな声は、もう寝起きのそれではない。
「どういうことですか、潤さん」
「だ、だから……」
「顔を見て言ってください」
その言葉とともに改めて強く抱きしめられた。首をひねれば、完全に覚醒した男のまなざしに捕まる。
「あ……」
「ん?」
「あ、昭俊さんが、あまり触れてこないから」
「僕が触れないから?」
「なんだか、不安で」
「不安?」
「わかっています、私の気持ちがしっかりしていないのが原因だって。だけど……だって、ふたりきりなのに……」
「うん」
「そうじゃなかったときより、距離を感じて」
「寂しい?」
「……はい」
最後には素直に返事するほかなく、潤は少しの敗北感を覚えつつ目をそらした。
ふっ、と漏らされた笑いが前髪を撫でる。ふたたび視線を移してみると、いたずらめいた笑みに見下ろされていた。
「なにもわかっていませんね」
愉快げな声のあと、耳に唇が寄せられた。
「ふたりきりになった。誰にも邪魔されない」
じんわりと響く低い声に首をすくめれば、次いで甘い囁きが脳を縛りつけた。
「暴走するのは簡単です」
熱い吐息とともに耳に歯を立てられ、息が止まりそうになった。腰の奥の疼きが激しくなる。
「だから、僕はまだしません」
今はその理性が恨めしい。この身に藤田を迎え入れる直前まで昂り合った夜を思い返しながら、潤は呟く。
「暴走したじゃないですか」
「うむ……」
返す言葉もない様子で唇を結んだ藤田は、ふとすまなそうに微笑んだ。
「焦っていたんです。早く欲しくて」
「…………」
「反省しています」
「じゃあ、今は」
「ん?」
「今は、欲しくないんですか」
目の前にある深い色の瞳が揺れた。
悩ましげに呻いた藤田は、ひと呼吸置いて言った。
「今はまずい」
その神妙な声に心を折られる。潤が悄然として見つめると、彼は困ったような笑みを返した。
「このまま始めたら、今日は一日中ベッドで過ごすことになりますよ」
「えっ」
「いいですか」
雄の香りを漂わせてにじり寄る凛々しい顔。そのまま甘美な空気に惑わされそうになったが、鼻先がかすかに触れ合ったとき、潤はようやく我に返り顔を背けた。
「だ、だめです。だって、今日は……」
「そうですね。今日は大事な個展の打ち合わせです。あなたにも一緒に来てもらいたいので、ベッドから出られないと困るでしょう」
うまく丸め込まれた気分になり押し黙ると、あやすように髪を撫でられた。
「今夜まではお預けです」
「……今夜」
「うん。あなたを抱くのを楽しみにしています」
秘めた欲望を静かに打ち明けた藤田は、髪に唇を滑らせたり口づけたりしてくる。
触れている肌がじんわりと熱くなっていくのを感じる。今夜――淫夢が現実になるのだと思い知らされる。
「今度はゆっくりと、大事に抱きたい。壊してしまわないように」
優しい、だが情欲をかき立てる低音がついに思考を溶かした。
「だから、今は我慢して」
発された言葉とは裏腹に、ほんの少し藤田の腰が動いた。ある一点に向かって突き出すように。
一瞬だけ露わにされた男の劣情は、このまま流れに任せてするよりずっと扇情的で、これから狂おしいほどじれったい時間を過ごすことになると潤に確信させるのだった。
どのくらい経っただろうか。ようやくその体勢に慣れて浅い眠気が訪れた頃、背後にわずかな身じろぎを感知し、潤は目を見ひらいた。
「ん……あれ」
こもった低い声が降り、身体を抱きしめる腕の力が緩んだ。
背をひねって後ろを見上げれば、淡い灯の中、浮かび上がる顔は目をしばたたいている。状況を把握するのに精一杯といった様子だ。
数秒ほど見つめ合っていたが、藤田がなにかに気づいたようにすばやく腰を引いた。
「ごめん」
「いえ……」
「ああ、っと……そうか、僕が入れと言ったのか」
「覚えていませんか」
「いや、思い出しました」
苦笑しながら答える彼に、潤は笑い返すことができずに黙り込む。
やはりあの夢は幻でしかなかった。隠せない嘆息を漏らし、ふたたび藤田に背を向けた。
「なんだか怒っている?」
とぼけたような問いに、ますます不満が募る。
「別に怒っていませんけど」
「なにか言いたそうですね」
耳元でそっと指摘され、潤はため息をついた。正直に言うのは気が引けるが、今さら藤田に嘘やごまかしは通用しない。
背後でじっと言葉を待つ男におそるおそる投げかける。
「……私に、失望していますか」
「え?」
「飽きてしまった、とか」
「なんの話です」
怪訝そうな声は、もう寝起きのそれではない。
「どういうことですか、潤さん」
「だ、だから……」
「顔を見て言ってください」
その言葉とともに改めて強く抱きしめられた。首をひねれば、完全に覚醒した男のまなざしに捕まる。
「あ……」
「ん?」
「あ、昭俊さんが、あまり触れてこないから」
「僕が触れないから?」
「なんだか、不安で」
「不安?」
「わかっています、私の気持ちがしっかりしていないのが原因だって。だけど……だって、ふたりきりなのに……」
「うん」
「そうじゃなかったときより、距離を感じて」
「寂しい?」
「……はい」
最後には素直に返事するほかなく、潤は少しの敗北感を覚えつつ目をそらした。
ふっ、と漏らされた笑いが前髪を撫でる。ふたたび視線を移してみると、いたずらめいた笑みに見下ろされていた。
「なにもわかっていませんね」
愉快げな声のあと、耳に唇が寄せられた。
「ふたりきりになった。誰にも邪魔されない」
じんわりと響く低い声に首をすくめれば、次いで甘い囁きが脳を縛りつけた。
「暴走するのは簡単です」
熱い吐息とともに耳に歯を立てられ、息が止まりそうになった。腰の奥の疼きが激しくなる。
「だから、僕はまだしません」
今はその理性が恨めしい。この身に藤田を迎え入れる直前まで昂り合った夜を思い返しながら、潤は呟く。
「暴走したじゃないですか」
「うむ……」
返す言葉もない様子で唇を結んだ藤田は、ふとすまなそうに微笑んだ。
「焦っていたんです。早く欲しくて」
「…………」
「反省しています」
「じゃあ、今は」
「ん?」
「今は、欲しくないんですか」
目の前にある深い色の瞳が揺れた。
悩ましげに呻いた藤田は、ひと呼吸置いて言った。
「今はまずい」
その神妙な声に心を折られる。潤が悄然として見つめると、彼は困ったような笑みを返した。
「このまま始めたら、今日は一日中ベッドで過ごすことになりますよ」
「えっ」
「いいですか」
雄の香りを漂わせてにじり寄る凛々しい顔。そのまま甘美な空気に惑わされそうになったが、鼻先がかすかに触れ合ったとき、潤はようやく我に返り顔を背けた。
「だ、だめです。だって、今日は……」
「そうですね。今日は大事な個展の打ち合わせです。あなたにも一緒に来てもらいたいので、ベッドから出られないと困るでしょう」
うまく丸め込まれた気分になり押し黙ると、あやすように髪を撫でられた。
「今夜まではお預けです」
「……今夜」
「うん。あなたを抱くのを楽しみにしています」
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触れている肌がじんわりと熱くなっていくのを感じる。今夜――淫夢が現実になるのだと思い知らされる。
「今度はゆっくりと、大事に抱きたい。壊してしまわないように」
優しい、だが情欲をかき立てる低音がついに思考を溶かした。
「だから、今は我慢して」
発された言葉とは裏腹に、ほんの少し藤田の腰が動いた。ある一点に向かって突き出すように。
一瞬だけ露わにされた男の劣情は、このまま流れに任せてするよりずっと扇情的で、これから狂おしいほどじれったい時間を過ごすことになると潤に確信させるのだった。
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