滲む墨痕

莇 鈴子

文字の大きさ
上 下
52 / 66
第四章 尤雲殢雨

しおりを挟む
 ヒーターの前に出された座布団に正座し、待つこと十数分。廊下側の襖がひらき、精悍な顔が覗いた。微笑をたたえて頷いた彼に従い、潤はぎこちない動作で立ち上がった。
 冷気が漂う薄暗い廊下。右方に玄関が見えるところまで戻ると、藤田は左方に足を向けた。
 その背中を追って狭く長い廊下を奥に進む。突き当たりには簡易な洗面台、その右側に見える型板ガラスの引き戸から灯りが漏れている。
 戸を開けた藤田に招かれて入ると、そこは脱衣所だった。浴室に繋がるであろうすりガラス戸が目の前にあり、左に位置する目隠し加工のない幅狭なガラス戸の向こうは土間になっているようで、洗濯機が見える。
 藤田が作務衣の上衣を脱いだ。怯懦な目を向ける潤に、彼は苦笑を返す。
「脱ぐのはこれと靴下だけです」
 その言葉どおり足袋の形をした靴下を脱ぎ捨てた彼は、黒い長袖のインナーの袖と紺鼠色の下衣の裾をまくり上げた。
 有無を言わさぬような行動に圧倒され、潤は胸を両腕で隠したまま立ち尽くす。寒さか、それともほかのなにかのせいか、透けた薄布にかろうじて隠されている素肌が粟立つのを覚える。
 言葉なく、無骨な手が襦袢の腰の結び目に触れた。紐をほどく藤田は無表情で、なにを思っているのかわからない。
 目が合った。一度だけゆっくりとまばたきをした彼は、目元に薄い笑みを滲ませ、腕を優しく掴んでくる。
「嫌ですか」
 静かに問われた。その低い声は深い色を纏い、じっとりとした甘い空気を含んで、腰の奥を揺さぶる。
 潤はひかえめに首を横にひねり、掴まれている腕を自らの意思で下げて胸元を晒した。
 降ってくる視線の質が変わった気がしたとき、肌と布のあいだに差し込まれた手が襦袢を肩からするりと下ろした。潤は腕を上げることなく、薄生地が素肌を滑り落ちる感触を受け入れた。
 腰から膝までは白の湯文字で隠されている。巻きスカートのように腰に巻きつける下着であり、その中にショーツは履いていない。
 うむ、と短い唸り声を発した藤田が背後に回り込んだ。
 腰のくぼみに指を添えられて潤がぴくりと反応すると、彼は吐息のような笑い声をこぼし、内側に入れ込んである力布の端を引き出した。
 下腹部への締めつけがなくなると同時に布が落ちて下半身が晒され、潤はひそかに身震いした。腰のくびれから尻のふくらみまで、熱い視線になぞられる気配を過敏な神経が伝えてくる。耐えられず、藤田に背を向けたままその場にしゃがんで足袋を脱いだ。
 からからと浴室の戸がひらかれた。吐き出された熱気が裸体に貼りつき、冷えた湿り気に変わる。
 こちらを見ない横顔を窺いながらそろりと立ち上がり、濃灰色のバスマットを踏んで中に入る。昔ながらの冷たいタイル張りの床に足裏がひやりとし、肩をすくませた。
 石鹸、シャンプーのボトル……一目で男性に使われている洗い場だとわかる。綺麗に磨かれたステンレス製の浴槽にはたっぷりと湯が張られ、立ちのぼる湯気が視界を鈍らせる。
 ふと一抹の不安を覚え、潤はわずかに振り返った。後ろ手でガラス戸を閉めた藤田が一歩近づくのが見え、とっさに腰を落とし湯桶を手に取った。髪を片側に寄せて撫でつけると、浴槽からすくった湯を他方の肩からそっとかけた。
 熱い液体が冷え切った肌を痛いくらいに火照らせ、股のあいだを流れていく。もし、太ももの内側についた墨の痕がまだ残っていたら、彼は泡を纏ったその手をそこに忍ばせるのだろうか。
「あの……私、自分で洗えます、だから」
 大丈夫です、と言おうとしたが最後まで声は続かなかった。藤田の顔を見たとき、彼はとても寂しげな笑みを浮かべていたから。
「ひとりにしたくない」
 ぽつりと彼は言った。
 独りになりたくない――そう聞こえた気がした。そうに違いないと錯覚させるほどの孤独な笑顔だった。
 まっすぐに放たれる視線に促され、黙って風呂椅子に湯をかけ、藤田に背を向けて腰かける。
 彼に触れられることを待つ背中は、彼の目にはどのように映っているだろう。惨めで憐れだろうか。それとも嬉々として見えるだろうか。
 自分はどのような顔をしているだろう。鏡のない浴室でよかった、と潤は俯きながら思った。そうでなければ、恍惚と頬を染めるみっともない女と目を合わせなければならなかったかもしれない。
 かすかに水音がして、背後に彼の気配が降りた。その息遣いをすぐそばに感じ、きつく閉じた膝をこすり合わせる。
 ふいに後ろから差し出された、麻のボディタオル。これで洗ってくれるということだろうか。「洗濯済みです」と言った彼の気遣いに無言で頷いた。
 大きな手が湯桶に浸したタオルを石鹸で泡立てる。しゃくしゃくという摩擦音、さわやかな香りに包まれる靄の中、潤は自身の視線が熱を帯びていくのを自覚しながら視界の端に映る光景をひそかに見つめた。
 ごつごつした指に白い泡がまとわりつきはじめたころ、彼はタオルをこすり合せる手を止めた。
「では腕から」
 そのひとことに返事をすることも頷くこともできずにいると、右肩にそっとタオルが押し当てられた。そこをくるりとひと回りした麻のしゃりとした肌触りは、二の腕を滑り、肘の曲がりまで下りて、腕の裏側に移る。
 脇腹に硬い指の関節が当たり、潤は小さく肩を震わせた。撫でられたわけでもないのに敏感に反応してしまう自分を恥じて、きつくまぶたを閉じる。
 そんな女の後ろ姿を目にしてどのように感じているのか、無言の藤田は左腕を同じように洗うと、「次は背中を」とだけ言った。
 左腕を掴まれ、背を優しくこすられる。ここちよい摩擦感と、腕を支える手のひらの熱さ、ときおり聞こえてくる吐息。じわじわとした痺れが頭の中に広がる。
 瞬間、腰のくびれに彼の指が直接触れ、潤はふたたび震えた。親指だろうか。タオルが動くたびに、それも皮膚を圧しながら這う。
 柔い快感が背筋を駆け上がる。身震いを抑えようとこぶしを握りしめれば、腰を洗う彼の手も止まった。
「そんなに怯えないで」
 優しく諭すような声だった。
 突然の言葉にとっさに答えられず、しかしなにか返さねばと口をひらいて考えているうちに、左腕を掴む手が離れてしまった。
「あ……」
 違う。怯えてなどいない。怯えるわけがない。そう否定しようと潤は身体を後ろにひねった。
 そこには、慈悲深さと秘めた欲望を共存させる男の瞳があった。だが彼はそれをまばたきの中に隠し、目を細め、困ったような笑みを浮かべる。
 その表情にどうしようもなく心をくすぐられ、思わず身体の向きを戻す。背後には容赦なく情欲を煽り立てる雄の気配が迫る。抱かれそうになったあの夜のように。
「……違う。怖いんじゃないの」
 自身の声が甘く湿っているのを認識しながら、潤はひとりごとを吐くようにタイル張りの壁に向かって呟いた。
「感じて……しまうから」
 浴室に流れる静寂。自分の呼吸の音が妙にはっきりと聞こえる。
 背後で、はあ、と深いため息が響いた。
 それを悲観的に捉えて心が沈みそうになったとき、左腰をぐっと掴まれて潤は縮み上がった。
「ひゃっ」
「あ、ごめん」
「…………」
「こちらを向いて」
 かすれた声。
 右肩に置かれた手が後ろに引く力を強める。抗いきれない。潤は椅子からわずかに腰を上げると、完全には隠せないとは知りつつも胸元と下腹部に手を添えて少しずつ反転し、座り直した。
 ボディタオルを手にしゃがんでいる男と向き合った。目が合うと、彼は切なげに微笑む。感情を抑えながらもなにかを訴えかけるようなその瞳から逃れようと、潤は目を伏せる。
 左肩から胸に垂れる髪の束が、太い指に払われて背に流れた。泡に濡れたそれが肌に張りついたのがわかる。
「少し、強くします。痛ければ言ってください」
 静かな声のあと、露わになった首にタオルが押し当てられた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

甘すぎるドクターへ。どうか手加減して下さい。

海咲雪
恋愛
その日、新幹線の隣の席に疲れて寝ている男性がいた。 ただそれだけのはずだったのに……その日、私の世界に甘さが加わった。 「案外、本当に君以外いないかも」 「いいの? こんな可愛いことされたら、本当にもう逃してあげられないけど」 「もう奏葉の許可なしに近づいたりしない。だから……近づく前に奏葉に聞くから、ちゃんと許可を出してね」 そのドクターの甘さは手加減を知らない。 【登場人物】 末永 奏葉[すえなが かなは]・・・25歳。普通の会社員。気を遣い過ぎてしまう性格。   恩田 時哉[おんだ ときや]・・・27歳。医者。奏葉をからかう時もあるのに、甘すぎる? 田代 有我[たしろ ゆうが]・・・25歳。奏葉の同期。テキトーな性格だが、奏葉の変化には鋭い? 【作者に医療知識はありません。恋愛小説として楽しんで頂ければ幸いです!】

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

淫らに、咲き乱れる

あるまん
恋愛
軽蔑してた、筈なのに。

職場のパートのおばさん

Rollman
恋愛
職場のパートのおばさんと…

幼馴染以上恋人未満 〜お試し交際始めてみました〜

鳴宮鶉子
恋愛
婚約破棄され傷心してる理愛の前に現れたハイスペックな幼馴染。『俺とお試し交際してみないか?』

処理中です...