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第三章 一日千秋
十
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妻と母がいなくなった静かな居間で、誠二郎はあぐらをかいてぼんやりしていた。
仕事に戻る前に汚れてしまったワイシャツとスラックスを着替えなければ。頭で考えながらも、唐突に芽生えた不信感が思考を支配し、立ち上がることを阻止する。
ふと目に入った自らが破り捨てた紙片を意味もなく一枚拾い上げる。かすかなざらつきを指先に感じ、なんとなくまた手放した。
こたつテーブルの上には出しっぱなしの書道用具と、手本らしき冊子、それと新聞紙の上に書が数枚並んでいる。
「……くだらない」
紙に向き合う妻の姿を想像し、吐き捨てた。
いったいなにが愉しくて彼女はこのようなことをするのだろう。書き慣れない漢字を反復練習する子供のように意味もよくわからない言葉を何度も書いて、なにが得られるというのか。まったく非合理的で理解に苦しむ。
藤田千秋――頭から離れないその名。
あの宴会の日、会場で見かけた藤田はいかにも誠実そうな雰囲気を演出し、ごく自然に書道連盟の面々に受け入れられていた。人好きのする顔立ちをした背の高い男だった。その肩幅や上半身の厚みから、がっしりとした体格の持ち主であることは想像に難くない。
胡散臭い、と誠二郎は心の中で毒づいた。
もともと芸術家というものに対して懐疑的である誠二郎は、見る者によって評価の分かれる芸術作品の不安定な魅力を受け入れることができずにいた。潤を連れて藤田の個展を訪れたときも、ただそこにある書をなんとなく見てまわるだけでたいした感銘は受けなかった。
あのとき発した感嘆は、すべて潤を元気づけるためだ。跡目を継ぐことになる自分の隣で不安げに父の話を聞いていた妻の心を少しでも軽くしてやりたいと陽気に振る舞った。
だが、そのような努力は必要なかったのだ。妻はそのときすでに、自分以外の男が精魂を込めて生み出した分身に心を奪われていたのだから。
そういえば、すっかり萎縮してしまっていた潤を気遣って藤田の個展に行くことを勧めたのも、書道教室について教えたのも美代子だった。それを思い出すと、どうしても母の言葉を深読みしたくなる。
――菊池さんよ。私に知らせたのは。
まさか美代子が裏で妻と藤田を引き合わせ、それにより生じた夫婦の亀裂を母に告げ口して混乱させ、野島を内から破滅させようとしているのではないか。
「はっ、馬鹿な……飛躍しすぎだ」
自嘲し、根拠のない妄想を無理やりかき消す。この地に戻ってきてから、精神が乱されているのか疑心暗鬼になることが増えた。思っていたより次期社長の重圧に鬱屈させられているらしい。
目に見えない他人の心など見ようとしなければいい。少し前の自分ならそうやってたやすく他人を遠ざけることができていた。
ここではなにもかも距離が近すぎる。窮屈なほどに。
玄関のほうで物音がした。はっと顔を向けると同時に開けられた戸の向こうには、誠二郎に不信感を与えた元凶が申し訳なさげに佇んでいた。
水縹色の着物を纏ったなで肩が、上品な色気とともに女の愁情を表しているようだ。
「……なぜです」
静かに尋ねれば、女は咎められていると感じたのか眉尻を下げ「ごめんなさい」と力なく言った。
「若奥様のご様子を見にきただけなのですが、家の中から男の人の怒鳴り声が聞こえて……」
「それで女将を呼んだ」
「そうです」
切実な声を吐き、まっすぐに見つめてくる女の瞳は様々な感情を語る。
同じ熱量の視線を返すことができずに誠二郎が目をそらすと、彼女はそろりと居間に上がってきた。
着物の上前をわずかに引き上げ、左手でその太ももあたりを軽く押さえつつ、右手で上前を撫で下ろしながら腰を落とし膝をつく。美しい所作で女は正座した。
ふと伏せられた長い睫毛の先にあるのは脱ぎ散らかされた服と、畳に作られた淫猥な染み。その意味を理解した女はその端麗な顔をかすかにこわばらせ、思い出したように鼻から空気を吸い、なにかの匂いに鼻腔を刺激されたのか口元を手で覆った。
誠二郎は今さらなんだというように尊大に構えた。ここでなにが行われていたか彼女ならすぐにわかったはずである。たった今気づいたふりをしているだけだ。
案の定、女は小さく噴き出した。涼しげに目を細め、ひかえめに「うふふ」と笑いはじめる。
誠二郎が眉をひそめて睨みつけると、彼女はすまなそうに肩をすくめ、薄い唇をひらいた。
「若奥様はお風呂でしょう。市販の墨液は落ちにくいから時間がかかりそうですね。お手伝いに行きましょうか」
やはり、と誠二郎は思った。羽織一枚で母屋へ向かう潤の頬が墨で汚れているのをこの女はこっそり物陰から見ていたに違いない。
「必要ありません。これ以上妻に余計なことはしないでください」
部外者を突き放すようにあえて冷たく言うと、哀しげな表情を返された。
「若旦那様のご負担を減らそうと思ってしてきたことですのに」
「…………」
「たまにはゆっくりと休まれたらいかがです。お疲れでしょう」
「その話し方、そろそろやめてくれませんか。わざとらしい」
うんざりして吐き捨てれば、女は誠二郎の心情に反してさわやかな笑みを浮かべた。
「なんだ、もう慣れたのかと思ったわ」
「はあ……美代子さん」
「ふふ、ごめんなさい。ちょっと意地悪しちゃった」
状況にそぐわない美代子の呑気な様子に苛立ちを覚え、だがこれは八つ当たりだと自覚し、誠二郎はうなだれた。
仕事に戻る前に汚れてしまったワイシャツとスラックスを着替えなければ。頭で考えながらも、唐突に芽生えた不信感が思考を支配し、立ち上がることを阻止する。
ふと目に入った自らが破り捨てた紙片を意味もなく一枚拾い上げる。かすかなざらつきを指先に感じ、なんとなくまた手放した。
こたつテーブルの上には出しっぱなしの書道用具と、手本らしき冊子、それと新聞紙の上に書が数枚並んでいる。
「……くだらない」
紙に向き合う妻の姿を想像し、吐き捨てた。
いったいなにが愉しくて彼女はこのようなことをするのだろう。書き慣れない漢字を反復練習する子供のように意味もよくわからない言葉を何度も書いて、なにが得られるというのか。まったく非合理的で理解に苦しむ。
藤田千秋――頭から離れないその名。
あの宴会の日、会場で見かけた藤田はいかにも誠実そうな雰囲気を演出し、ごく自然に書道連盟の面々に受け入れられていた。人好きのする顔立ちをした背の高い男だった。その肩幅や上半身の厚みから、がっしりとした体格の持ち主であることは想像に難くない。
胡散臭い、と誠二郎は心の中で毒づいた。
もともと芸術家というものに対して懐疑的である誠二郎は、見る者によって評価の分かれる芸術作品の不安定な魅力を受け入れることができずにいた。潤を連れて藤田の個展を訪れたときも、ただそこにある書をなんとなく見てまわるだけでたいした感銘は受けなかった。
あのとき発した感嘆は、すべて潤を元気づけるためだ。跡目を継ぐことになる自分の隣で不安げに父の話を聞いていた妻の心を少しでも軽くしてやりたいと陽気に振る舞った。
だが、そのような努力は必要なかったのだ。妻はそのときすでに、自分以外の男が精魂を込めて生み出した分身に心を奪われていたのだから。
そういえば、すっかり萎縮してしまっていた潤を気遣って藤田の個展に行くことを勧めたのも、書道教室について教えたのも美代子だった。それを思い出すと、どうしても母の言葉を深読みしたくなる。
――菊池さんよ。私に知らせたのは。
まさか美代子が裏で妻と藤田を引き合わせ、それにより生じた夫婦の亀裂を母に告げ口して混乱させ、野島を内から破滅させようとしているのではないか。
「はっ、馬鹿な……飛躍しすぎだ」
自嘲し、根拠のない妄想を無理やりかき消す。この地に戻ってきてから、精神が乱されているのか疑心暗鬼になることが増えた。思っていたより次期社長の重圧に鬱屈させられているらしい。
目に見えない他人の心など見ようとしなければいい。少し前の自分ならそうやってたやすく他人を遠ざけることができていた。
ここではなにもかも距離が近すぎる。窮屈なほどに。
玄関のほうで物音がした。はっと顔を向けると同時に開けられた戸の向こうには、誠二郎に不信感を与えた元凶が申し訳なさげに佇んでいた。
水縹色の着物を纏ったなで肩が、上品な色気とともに女の愁情を表しているようだ。
「……なぜです」
静かに尋ねれば、女は咎められていると感じたのか眉尻を下げ「ごめんなさい」と力なく言った。
「若奥様のご様子を見にきただけなのですが、家の中から男の人の怒鳴り声が聞こえて……」
「それで女将を呼んだ」
「そうです」
切実な声を吐き、まっすぐに見つめてくる女の瞳は様々な感情を語る。
同じ熱量の視線を返すことができずに誠二郎が目をそらすと、彼女はそろりと居間に上がってきた。
着物の上前をわずかに引き上げ、左手でその太ももあたりを軽く押さえつつ、右手で上前を撫で下ろしながら腰を落とし膝をつく。美しい所作で女は正座した。
ふと伏せられた長い睫毛の先にあるのは脱ぎ散らかされた服と、畳に作られた淫猥な染み。その意味を理解した女はその端麗な顔をかすかにこわばらせ、思い出したように鼻から空気を吸い、なにかの匂いに鼻腔を刺激されたのか口元を手で覆った。
誠二郎は今さらなんだというように尊大に構えた。ここでなにが行われていたか彼女ならすぐにわかったはずである。たった今気づいたふりをしているだけだ。
案の定、女は小さく噴き出した。涼しげに目を細め、ひかえめに「うふふ」と笑いはじめる。
誠二郎が眉をひそめて睨みつけると、彼女はすまなそうに肩をすくめ、薄い唇をひらいた。
「若奥様はお風呂でしょう。市販の墨液は落ちにくいから時間がかかりそうですね。お手伝いに行きましょうか」
やはり、と誠二郎は思った。羽織一枚で母屋へ向かう潤の頬が墨で汚れているのをこの女はこっそり物陰から見ていたに違いない。
「必要ありません。これ以上妻に余計なことはしないでください」
部外者を突き放すようにあえて冷たく言うと、哀しげな表情を返された。
「若旦那様のご負担を減らそうと思ってしてきたことですのに」
「…………」
「たまにはゆっくりと休まれたらいかがです。お疲れでしょう」
「その話し方、そろそろやめてくれませんか。わざとらしい」
うんざりして吐き捨てれば、女は誠二郎の心情に反してさわやかな笑みを浮かべた。
「なんだ、もう慣れたのかと思ったわ」
「はあ……美代子さん」
「ふふ、ごめんなさい。ちょっと意地悪しちゃった」
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