滲む墨痕

莇 鈴子

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第二章 雪泥鴻爪

十三

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「私は……」
 なにか言わねばと呟いたとたん、意図せず目頭が熱くなった。腹の底から言いようのない激情が湧きあがる。
 このままでは無防備な泣き面を晒すことになると思い、潤は藤田の熱い手から逃れようと自ら腕を引いた。
 その大きな手は一瞬わずかに抵抗の意思を示したかに思えたが、潤の細い手を引き戻すことなく離れた。
「先生……後ろを向いてくださいますか」
「後ろ?」
「はい。お願いします」
 俯き加減に発した固い声にただならぬものを感じたか、藤田はのそのそと身体を動かし背を向けた。
 少し猫背なその広い背中を見つめながら、潤は目から静かに流れ出るあたたかなものを認めた。ひとすじ頬を伝い落ちるたびに抑圧されていた感情が込み上げ、こらえようとすればするほど唇が激しく震える。
 哀しいのではない。情緒が少し不安定なだけ、と心に言い聞かせる。
――泣くな。恥ずかしい。
 自分の心の声と、子供のころに聞いた母の声が重なる。何事にも完璧さを求める、あの威圧的な声が。
 咽びそうになるのを必死に抑え込んだとき、藤田の背が深呼吸するように上下した。息を吐く音がしたあと、彼は言った。
「貸しますよ。背中」
 穏やかな声。選択を急かさない、ただそこに置いておくだけの声だった。
 潤は涙を流しながら頬を緩めた。
「では少しだけ、貸してください」
 膝を崩して横座りになり、藤田に背を向けると、そっと身体を後ろに倒した。
 服越しに感じる硬い筋肉と熱。呼吸を繰り返すその背中に身を委ねれば、心が静まってくる。
「先生……まるで背勢ですね」
「ああ、本当ですね」
 苦笑まじりの低い声が背中を通して響き、「では」と続けられた。
「向勢にしますか」
「え?」
「僕が貸せるのは背中だけではありません。胸も、腕もあります」
「……私には贅沢なことです。背中だけで充分です」
 真情を隠して拒むと、藤田は「そうですか」と柔らかな声で答えたきりなにも言わなくなった。
 しばらく沈黙に身を任せた。ふと思い立ち藤田に悟られないよう首をひねって見てみたが、その頭は俯いたままぴくりとも動かない。
 また居眠りしているのだろうか。やはり疲れが溜まっているのかもしれない。その優しさがあまりに自然で気づかなかったが、本来ならこんなふうに人妻の世話を焼く暇などないくらい忙しい人なのだろう。
 帰ったほうがいいのかもしれない。そう思いかすかに身じろぎした瞬間、無言を貫いていた彼の背中が一瞬こわばったように感じられた。
「潤さん」
 囁きが聞こえるのとほぼ同時にその背中は離れ、男の気配がこちらを向いた。
 潤は振り向かず、自身の領域に背後からじわりと侵入してくる色めいた空気を吸い込み、弱々しく吐き出した。
 かろうじて保っていたはずの均衡が少しずつ崩れていく。怖気づいて理性をかき集めようと動きまわる心と、それでも恐怖に足を踏み入れてしまいたい静かな興奮がせめぎ合う。
 狂おしいほどのなまめかしさに支配される空気の中、右の腕が熱い手に掴まれた。その力強い感触に息を止め、まぶたをきつく閉じる。
「先生……だめです」
「先生と呼ばないでください」
 まるで警告のような言葉にはっと目を見ひらいたとき、背後から激しく抱きすくめられた。
「潤さん……」
 耳にかかる甘やかな声とともに。
 硬い両腕に閉じ込められ、熱い吐息に鼓膜を撫でられ、じんわりとした疼きが腰の奥を締めつける。
 混乱する頭の中、このまま身を許してよいのかと自問する。心の奥底では淫らな変化を望んでいたにもかかわらず、いざそれを目前にするとそれほどの勇気を持ち合わせていないことを思い知らされる。
 潤は、息を吸った。やめてください――そうひとこと発すればよい。
「や……っ」
 そのたったひとことが喉から出てこない。息が苦しいからではない。それを口にすれば、藤田はその腕をほどいてしまう。それがわかるから。
 矛盾する心情を拾い上げて押しつぶすように、藤田の腕がさらにきつく締まった。
「嫌だと言ってください。でないと僕は、あなたを……」
 荒い呼吸を必死に抑えながら彼は苦しげに囁く。だがそれから言葉は途切れた。
 彼は続きを口にすることを躊躇しているようだった。核心に触れればその熱に溶かされ、そこから雪崩のように崩壊していくのが目に見えているからだ。
 今さら言葉の制御などなんの意味があろうか。そのたくましい腕に捕らえられ、硬い胸板に覆われ、欲情を湧き起こされて、すでに引き返せないところまで連れてこられてしまったというのに。
「……ずるいです」
 潤が涙声で小さく呟けば、藤田は熱い息を吐き出す。
「ああ……ごめん」
 心の声がそのまま放たれたような切なげな囁きは、なにもかも吹き飛ばしてしまうほどの威力があった。
 潤は自身の華奢な身体を隙間なく抱きしめて離さない男の腕に身を委ね、後ろに引き寄せられるまま力を抜いた。
「嫌だなんて、言えません。……言いません」
 視界の端にちらりと映った高い鼻に気づき、ひかえめに首をひねり視線をやる。
 奥二重だが力のあるアーモンド型の目が、欲望と困惑を孕んだ視線を返してきた。鼻先が触れそうな距離で見るその瞳は、宇宙の果てまで繋がっていそうなほどに思慮深い色をしている。
 その瞳に見つめられていることに耐えられずに思わず目を伏せると、身体を抱く彼の腕の力が緩められた。かと思えば頬を大きな手のひらに包まれ、そっと顔を引き寄せられる。
 目の前で、形のよい唇が薄くひらいた。
 それが重なる寸前、藤田はなにかを思い出したように動きを止めた。まぶたを半分閉じて惚けた表情をする潤からわずかに身を引いた彼は、迷いを振り切るようにもう一度唇を寄せ、ふたたび寸前でためらう。
「う、あぁ……」
 だがもう悩むのも限界だと言わんばかりにため息とも喘ぎともとれる声を最後に発し、彼は薄目で潤を見つめながら顔を傾けた。
 色情が理性を上まわったその瞬間は、潤には永遠に続く夢のように思えた。
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