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第二章 雪泥鴻爪
十一
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レッスンの日と同じ部屋に通された。
藤田はファンヒーターのスイッチを入れると、「待っていて」と言い残し部屋を出ていった。トートバッグを降ろした潤は、雪に少しだけ濡れた黒いノーカラーコートを脱いで待った。
しばらくして戻ってきた藤田の手には、二本のハンガーが握られている。
「掛けておきましょう」
そう言って大きな手のひらを見せる。
「すみません」
潤がおずおずとコートを差し出せば、そっと受け取った藤田はそれをハンガーに吊るして長押に掛けた。自身のチェスターコートも同じようにして隣に掛けると、彼はじっと見下ろしてきた。
「潤さん。疲れていませんか」
「い、いえ……」
「少し休みますか」
その言葉が耳に入った瞬間、潤は衝動的に首を左右に振った。せめてここにいるあいだは自分の意志を示したい。
「書道をしたいです。藤田先生の書道をもっと教えてください」
強い声を受けてわずかに目を見ひらいた藤田は、やがてその精悍な顔に愉快げな表情を浮かべると声を出して笑った。
「僕のでよければいくらでも。そうすればおのずと、あなた自身の書道が見えてくるかもしれません」
ひとまず臨書の手本を取りにいくと言った藤田は襖を開けて廊下に出ていった。
潤は運転音を発するヒーターを見下ろし、そろりと歩み寄り吹き出し口の前に立った。
ほんのり灯油の匂いとともに漂ってくるあたたかな空気が、湿り気を帯びた浅履きのフットカバー越しに冷たい足を撫でる。雪の中を歩いたせいでパンプスから水が染みて濡れてしまったのだ。いっそのこと脱いでしまいたいが、裸足になるのは抵抗がある。
廊下を踏みしめる足音が聞こえ、潤はとっさに振り向いてその場に正座した。
いくつかの冊子と座布団を抱えた藤田が部屋に入ってくる。
「それが臨書のためのお手本ですか」
固い声に彼は微笑みを返し、近くの書道机に冊子を置いた。「どうぞ」と言って机の前に座布団を敷くと、その隣に腰を下ろしあぐらをかいた。
最後列の隅。レッスンの日と同じ机だ。潤は礼を言って座布団に座り直した。
彼の膝が脚に当たりそうで当たらない妙な距離感の中、「さて」と低い呟きがしっとりと響いた。
「これは法帖といいます」
「ほうじょう……」
「うん」
軽く相槌をうった藤田は積まれたそれを一冊ずつ降ろしていく。
「先人の筆跡を拓本にとり、保存や鑑賞、学書用に仕立てられたものです」
その説明とともに、十冊ほどの法帖が重なり合いながら机の上に所狭しと並べられた。それぞれ様々な色合いの表紙――中には部分的に色褪せた年代物らしきものもある――には漢字が縦に並ぶ。おそらくタイトルだろうが、当然ながら潤にはなんと書いてあるかわからない。
「まずは第一印象。どうぞ手に取って中をご覧ください」
その愉快げな声に背を押され、潤は手前にある群青色の古そうな一冊を手にしてみた。よく使い込まれているような手触りを感じながら、ゆっくりとページをひらいていく。
黒く塗りつぶされた背景を彫り込んだかのように白い文字列が浮かび上がっている。さきほど藤田が拓本と言ったとおり、石碑に紙をあて、そこに刻された文字を墨を使って写し取ったものだろう。
美しく均整のとれた楷書が並ぶ。簡素で無駄がなく、表情が乏しいようにも見えるが、その固く厳しい印象が毅然とした佇まいを感じさせる。
「綺麗な字ですね。まさにお手本、という感じがします」
潤は思ったことを正直に伝えた。しかし、胸の内はどこか物足りなさを覚えている。もっと、なにかを深く求めているような気がしてならない。
「これは欧陽詢という中国の書家による九成宮醴泉銘という書です。およそ千四百年前に書かれました」
藤田の説明に潤はため息を漏らす。
「そんなに昔の人が、こんなに端正な字を書いていたのですね」
「ええ、楷書の極則といわれています。理想的な楷書ということです」
「たしかに理想的な形ですね。誰が見ても美しい字。でも……」
否定の言葉を口にしかけ、潤は唇をきつく結んだ。名筆を前にして素人がそのように感じるのはおこがましいと思った。だが藤田の書と出会った瞬間のような、あの激情がどうしても湧きあがらないのだ。
「感じたままを仰ってくださいね。潤さんがそれを好きかどうかが重要なのですから」
その優しい声とまなざしは素直な感想を待っている。もしかしたら藤田はすでにこの違和感に気づいているのかもしれない。
書道の美しさは十人十色――。藤田が言っていたことを思い出し、机の上でその身を静かに晒しつづける書を見下ろしながら潤は口をひらいた。
「好みかそうでないかと訊かれたら、好みではないのかもしれません。とても冷静で、美しいけれど、美しすぎるとも思いました。だからこそ理想的といわれるのでしょうけど。私は、もっと……」
書道に関する知識をもたない自分が選ぶ言葉は、おそらくこの書を批評するのにふさわしくない。そう思い、ふたたび言い淀む。
藤田の顔をひかえめに見てみると、続けて、と言うかわりに彼は黙って頷いた。その表情があまりにも愉しげで、無邪気な子供のようで、それがかえって彼の寛容さを証明しているように思えた。
心の視界を遮る靄を少しずつ取り払うように、潤は丁寧に言葉を選んでいった。
「整った静けさのある字は素晴らしいと思います。けれど私は、その中にもこう……あたたかみとか、強さとか、激しさとか、そういうものが滲み出ている字を好むようです。たとえば、藤田先生の作品のような……」
言い終えるより先に、潤は藤田の視線を避けるために俯いた。
今それを目の当たりにすれば、内にひそむすべてを解放せずにはいられなくなる。慰めを求めてしまいたくなる。その熱情に身をうずめてしまいたくなる。そう直感したからだ。
落とした目線の先では黒いズボンの脚の上で大きな手がこぶしを作っていた。浮き上がった筋がそこに込められている力の強さを物語る。しかし、それがどのような感情を示しているのかはわからない。
ふと、藤田が小さく咳払いをした。あの日もこの部屋で聴いたその音はやはり色っぽく漂い、鼓膜にまとわりつく。
「潤さん。僕は……」
固い低音が脳に響く。その声は唐突に、心の奥に埋もれている小さな欲の先端を掴んで引きずり出そうとする。潤は言い知れぬ恐怖を覚えた。
「あの……次はこれ、これを見てみます」
藤田の言葉を待たずに、潤はほかの法帖に手を伸ばした。
なにを言われるかは見当もつかないし、それはさほど重要でもなかった。そうさせたのは話の内容ではなく、藤田の声だ。妙な色を纏ったその低い声をそれ以上聴きつづけることができなかった。
藤田はファンヒーターのスイッチを入れると、「待っていて」と言い残し部屋を出ていった。トートバッグを降ろした潤は、雪に少しだけ濡れた黒いノーカラーコートを脱いで待った。
しばらくして戻ってきた藤田の手には、二本のハンガーが握られている。
「掛けておきましょう」
そう言って大きな手のひらを見せる。
「すみません」
潤がおずおずとコートを差し出せば、そっと受け取った藤田はそれをハンガーに吊るして長押に掛けた。自身のチェスターコートも同じようにして隣に掛けると、彼はじっと見下ろしてきた。
「潤さん。疲れていませんか」
「い、いえ……」
「少し休みますか」
その言葉が耳に入った瞬間、潤は衝動的に首を左右に振った。せめてここにいるあいだは自分の意志を示したい。
「書道をしたいです。藤田先生の書道をもっと教えてください」
強い声を受けてわずかに目を見ひらいた藤田は、やがてその精悍な顔に愉快げな表情を浮かべると声を出して笑った。
「僕のでよければいくらでも。そうすればおのずと、あなた自身の書道が見えてくるかもしれません」
ひとまず臨書の手本を取りにいくと言った藤田は襖を開けて廊下に出ていった。
潤は運転音を発するヒーターを見下ろし、そろりと歩み寄り吹き出し口の前に立った。
ほんのり灯油の匂いとともに漂ってくるあたたかな空気が、湿り気を帯びた浅履きのフットカバー越しに冷たい足を撫でる。雪の中を歩いたせいでパンプスから水が染みて濡れてしまったのだ。いっそのこと脱いでしまいたいが、裸足になるのは抵抗がある。
廊下を踏みしめる足音が聞こえ、潤はとっさに振り向いてその場に正座した。
いくつかの冊子と座布団を抱えた藤田が部屋に入ってくる。
「それが臨書のためのお手本ですか」
固い声に彼は微笑みを返し、近くの書道机に冊子を置いた。「どうぞ」と言って机の前に座布団を敷くと、その隣に腰を下ろしあぐらをかいた。
最後列の隅。レッスンの日と同じ机だ。潤は礼を言って座布団に座り直した。
彼の膝が脚に当たりそうで当たらない妙な距離感の中、「さて」と低い呟きがしっとりと響いた。
「これは法帖といいます」
「ほうじょう……」
「うん」
軽く相槌をうった藤田は積まれたそれを一冊ずつ降ろしていく。
「先人の筆跡を拓本にとり、保存や鑑賞、学書用に仕立てられたものです」
その説明とともに、十冊ほどの法帖が重なり合いながら机の上に所狭しと並べられた。それぞれ様々な色合いの表紙――中には部分的に色褪せた年代物らしきものもある――には漢字が縦に並ぶ。おそらくタイトルだろうが、当然ながら潤にはなんと書いてあるかわからない。
「まずは第一印象。どうぞ手に取って中をご覧ください」
その愉快げな声に背を押され、潤は手前にある群青色の古そうな一冊を手にしてみた。よく使い込まれているような手触りを感じながら、ゆっくりとページをひらいていく。
黒く塗りつぶされた背景を彫り込んだかのように白い文字列が浮かび上がっている。さきほど藤田が拓本と言ったとおり、石碑に紙をあて、そこに刻された文字を墨を使って写し取ったものだろう。
美しく均整のとれた楷書が並ぶ。簡素で無駄がなく、表情が乏しいようにも見えるが、その固く厳しい印象が毅然とした佇まいを感じさせる。
「綺麗な字ですね。まさにお手本、という感じがします」
潤は思ったことを正直に伝えた。しかし、胸の内はどこか物足りなさを覚えている。もっと、なにかを深く求めているような気がしてならない。
「これは欧陽詢という中国の書家による九成宮醴泉銘という書です。およそ千四百年前に書かれました」
藤田の説明に潤はため息を漏らす。
「そんなに昔の人が、こんなに端正な字を書いていたのですね」
「ええ、楷書の極則といわれています。理想的な楷書ということです」
「たしかに理想的な形ですね。誰が見ても美しい字。でも……」
否定の言葉を口にしかけ、潤は唇をきつく結んだ。名筆を前にして素人がそのように感じるのはおこがましいと思った。だが藤田の書と出会った瞬間のような、あの激情がどうしても湧きあがらないのだ。
「感じたままを仰ってくださいね。潤さんがそれを好きかどうかが重要なのですから」
その優しい声とまなざしは素直な感想を待っている。もしかしたら藤田はすでにこの違和感に気づいているのかもしれない。
書道の美しさは十人十色――。藤田が言っていたことを思い出し、机の上でその身を静かに晒しつづける書を見下ろしながら潤は口をひらいた。
「好みかそうでないかと訊かれたら、好みではないのかもしれません。とても冷静で、美しいけれど、美しすぎるとも思いました。だからこそ理想的といわれるのでしょうけど。私は、もっと……」
書道に関する知識をもたない自分が選ぶ言葉は、おそらくこの書を批評するのにふさわしくない。そう思い、ふたたび言い淀む。
藤田の顔をひかえめに見てみると、続けて、と言うかわりに彼は黙って頷いた。その表情があまりにも愉しげで、無邪気な子供のようで、それがかえって彼の寛容さを証明しているように思えた。
心の視界を遮る靄を少しずつ取り払うように、潤は丁寧に言葉を選んでいった。
「整った静けさのある字は素晴らしいと思います。けれど私は、その中にもこう……あたたかみとか、強さとか、激しさとか、そういうものが滲み出ている字を好むようです。たとえば、藤田先生の作品のような……」
言い終えるより先に、潤は藤田の視線を避けるために俯いた。
今それを目の当たりにすれば、内にひそむすべてを解放せずにはいられなくなる。慰めを求めてしまいたくなる。その熱情に身をうずめてしまいたくなる。そう直感したからだ。
落とした目線の先では黒いズボンの脚の上で大きな手がこぶしを作っていた。浮き上がった筋がそこに込められている力の強さを物語る。しかし、それがどのような感情を示しているのかはわからない。
ふと、藤田が小さく咳払いをした。あの日もこの部屋で聴いたその音はやはり色っぽく漂い、鼓膜にまとわりつく。
「潤さん。僕は……」
固い低音が脳に響く。その声は唐突に、心の奥に埋もれている小さな欲の先端を掴んで引きずり出そうとする。潤は言い知れぬ恐怖を覚えた。
「あの……次はこれ、これを見てみます」
藤田の言葉を待たずに、潤はほかの法帖に手を伸ばした。
なにを言われるかは見当もつかないし、それはさほど重要でもなかった。そうさせたのは話の内容ではなく、藤田の声だ。妙な色を纏ったその低い声をそれ以上聴きつづけることができなかった。
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