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第二章 雪泥鴻爪
五
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「潤ちゃん、やっぱり最近お肌の調子がいいみたい」
畳敷きの更衣室で着付けを済ませ、夕方からの勤務に備えていたとき、ふいに美代子が言った。「いいことでもあったのかしら」と囁きながら意味ありげな視線をよこす。
「先週一日お休みいただいて、ゆっくりできたからかなあ……」
潤がぼんやりとした返答をすれば、美代子はすかさず深く突っ込んでくる。
「例の書道教室に行ったのよね。気分転換できた?」
「は、はい」
「どんな感じだったの」
透明感のある涼しげな顔をふわりと緩ませる美代子。左目の下にある泣きぼくろがその表情を妖艶に見せている。
「まず墨を磨って、それから好きな字を書いて……」
「そうじゃなくて」
雑談しているほかの仲居たちに聞かせないための配慮か、美代子は潤を引っ張り部屋の隅に移動すると耳元で囁いた。
「藤田千秋がどんな人だったのか訊いてるのよ」
「やだ、美代子さん……あの人と同じこと訊かないでください」
「あの人? ああ、若旦那様か」
潤がわずかに顔をこわばらせると、美代子は「うふふ」と上品に笑い、なまめかしい目つきで覗き込んできた。
「肌つやがいいのはそういうわけだったのね」
「えっ」
「隠さなくていいのよ。そっか、若旦那様はイケメン書道家に嫉妬したんだ。それで、ね」
「美代子さん……」
「いいじゃない、夫婦なんだから。羨ましいくらいよ」
美代子は清々しい微笑みを浮かべ、ふだんのさわやかな美人仲居に戻った。
「そろそろ時間ね。別棟の宴会場は忙しいと思うけど、私たち客室係はいつもどおりの仕事をしましょう」
「はい」
頼もしい先輩に、潤も笑みを返した。
後ろから獣のように突き上げてくる夫が怖かった。最後はただ痛みに耐え、感じたことのない恐怖にひっそりと涙を流した。いくら親身になってくれる美代子にも、それだけは言えない。
ひそかに唇を噛みしめたとき、更衣室の扉をノックする音がした。扉の向こうで「すみません」と誠二郎の声がする。
「そこに潤はいますか」
その固い声に、潤は美代子と顔を見合わせた。ほかの仲居たちも黙り込む。
野島屋で働きはじめてから、こうしてわざわざ夫が呼びにくることは初めてだった。午前中の業務でなにかまずいことでもしてしまったのだろうかと不安を覚えつつ、心配そうな美代子に笑顔で頷いてみせ、部屋を出た。
黒いスーツの上に野島屋の藍色の法被を羽織った姿の誠二郎が俯き加減で佇んでいる。その表情は硬い。
「……どうしたの」
扉を閉めておそるおそる小声で尋ねてみると、遠慮がちに目を合わせてきた誠二郎も声をひそめる。
「今日の宴会のことでちょっと」
「あ、はい」
どうやら怒られるわけではなさそうだ。そう安堵したのも束の間、かけられたのは意外な言葉だった。
「君も宴会場のほうを手伝ってやってくれないか」
「え、だって、私は客室の担当……」
「美代子さんがいれば問題ない。もともと君は戦力外なんだし」
「……っ」
一瞬にして、頭の中が不安と疑問と怒りで埋め尽くされた。
誠二郎は「じゃあよろしく」と煩わしげに話を切り上げようとする。
「ちょっと待って。……私だって一生懸命やっているのよ」
白地の帯の前で重ねていた両手を握りしめ、潤は極力抑えた声で強く抗議した。しかし必死の訴えは届かなかったようで、誠二郎が眉間の皺を深くしてため息を吐いた。
「それはわかってるから。今はそんな話をしているわけじゃない」
「…………」
「頼んだよ。いいね」
声を低くして念を押した夫は返事を待たずに廊下を歩いていってしまう。有無を言わせない態度に圧倒され、潤はなぜ突然自分が宴会場の手伝いをさせられるのか訊くこともできなかった。
夫はあきらかに変わった。以前のような頼りない印象は薄れ、強引で厳格な印象が強くなった。老舗旅館を守っていく責任者としてはたしかにそれでよいのかもしれないが、潤にとってはただ無神経になっただけのように思えた。
「戦力外……」
消え入りそうな声で呟き、夫から投げられた言葉をもう一度受け止める。
役立たず――そう言われている気がして、帯で締められた胸まわりがやけに窮屈に感じた。
畳敷きの更衣室で着付けを済ませ、夕方からの勤務に備えていたとき、ふいに美代子が言った。「いいことでもあったのかしら」と囁きながら意味ありげな視線をよこす。
「先週一日お休みいただいて、ゆっくりできたからかなあ……」
潤がぼんやりとした返答をすれば、美代子はすかさず深く突っ込んでくる。
「例の書道教室に行ったのよね。気分転換できた?」
「は、はい」
「どんな感じだったの」
透明感のある涼しげな顔をふわりと緩ませる美代子。左目の下にある泣きぼくろがその表情を妖艶に見せている。
「まず墨を磨って、それから好きな字を書いて……」
「そうじゃなくて」
雑談しているほかの仲居たちに聞かせないための配慮か、美代子は潤を引っ張り部屋の隅に移動すると耳元で囁いた。
「藤田千秋がどんな人だったのか訊いてるのよ」
「やだ、美代子さん……あの人と同じこと訊かないでください」
「あの人? ああ、若旦那様か」
潤がわずかに顔をこわばらせると、美代子は「うふふ」と上品に笑い、なまめかしい目つきで覗き込んできた。
「肌つやがいいのはそういうわけだったのね」
「えっ」
「隠さなくていいのよ。そっか、若旦那様はイケメン書道家に嫉妬したんだ。それで、ね」
「美代子さん……」
「いいじゃない、夫婦なんだから。羨ましいくらいよ」
美代子は清々しい微笑みを浮かべ、ふだんのさわやかな美人仲居に戻った。
「そろそろ時間ね。別棟の宴会場は忙しいと思うけど、私たち客室係はいつもどおりの仕事をしましょう」
「はい」
頼もしい先輩に、潤も笑みを返した。
後ろから獣のように突き上げてくる夫が怖かった。最後はただ痛みに耐え、感じたことのない恐怖にひっそりと涙を流した。いくら親身になってくれる美代子にも、それだけは言えない。
ひそかに唇を噛みしめたとき、更衣室の扉をノックする音がした。扉の向こうで「すみません」と誠二郎の声がする。
「そこに潤はいますか」
その固い声に、潤は美代子と顔を見合わせた。ほかの仲居たちも黙り込む。
野島屋で働きはじめてから、こうしてわざわざ夫が呼びにくることは初めてだった。午前中の業務でなにかまずいことでもしてしまったのだろうかと不安を覚えつつ、心配そうな美代子に笑顔で頷いてみせ、部屋を出た。
黒いスーツの上に野島屋の藍色の法被を羽織った姿の誠二郎が俯き加減で佇んでいる。その表情は硬い。
「……どうしたの」
扉を閉めておそるおそる小声で尋ねてみると、遠慮がちに目を合わせてきた誠二郎も声をひそめる。
「今日の宴会のことでちょっと」
「あ、はい」
どうやら怒られるわけではなさそうだ。そう安堵したのも束の間、かけられたのは意外な言葉だった。
「君も宴会場のほうを手伝ってやってくれないか」
「え、だって、私は客室の担当……」
「美代子さんがいれば問題ない。もともと君は戦力外なんだし」
「……っ」
一瞬にして、頭の中が不安と疑問と怒りで埋め尽くされた。
誠二郎は「じゃあよろしく」と煩わしげに話を切り上げようとする。
「ちょっと待って。……私だって一生懸命やっているのよ」
白地の帯の前で重ねていた両手を握りしめ、潤は極力抑えた声で強く抗議した。しかし必死の訴えは届かなかったようで、誠二郎が眉間の皺を深くしてため息を吐いた。
「それはわかってるから。今はそんな話をしているわけじゃない」
「…………」
「頼んだよ。いいね」
声を低くして念を押した夫は返事を待たずに廊下を歩いていってしまう。有無を言わせない態度に圧倒され、潤はなぜ突然自分が宴会場の手伝いをさせられるのか訊くこともできなかった。
夫はあきらかに変わった。以前のような頼りない印象は薄れ、強引で厳格な印象が強くなった。老舗旅館を守っていく責任者としてはたしかにそれでよいのかもしれないが、潤にとってはただ無神経になっただけのように思えた。
「戦力外……」
消え入りそうな声で呟き、夫から投げられた言葉をもう一度受け止める。
役立たず――そう言われている気がして、帯で締められた胸まわりがやけに窮屈に感じた。
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