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第二章 雪泥鴻爪
二
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机を前にして正座する彼女が背筋を伸ばし、腕を構えたとき、その小さな後ろ姿の周りを流れる空気が止まった。
静止画のような光景の中で、服の黒が際立っていた。雑色が取り払われ、彼女の真の色が残されたのだと主張しているようだった。
肩に力が入ったその細い背中は、背後からの視線に気づいているのか、それとも単に緊張しているのか、筆を入れるのをためらっているように見えた。ややあって、覚悟を感じさせる吐息が聞こえ、その腕が動いたとき、昭俊はそっとまぶたを下ろした。彼女の纏う空気の邪魔をしないように。
しばらく心地よい静けさに身を任せたあと、昭俊はまぶたを上げてみた。
視界に映ったのは、集中しているせいか少し前かがみになった背中と、白いうなじ。結われそびれた艶髪の細い束が耳の後ろから肩に垂れていた。歪みのない烏の濡れ羽色――そう思った瞬間、彼女が静かに筆を置いた。
それに気づいてとっさに目を閉じた直後、わざわざ閉じなくてもよかったではないか、と昭俊は猛省した。それから目を開けるタイミングを失った。「先生」と呼びかける迷いを含んだ小さな声に気づかないふりをした。狸寝入りだ。
畳を歩く乾いた音が近くで止まり、その気配が目の前に下りてから長いこと待ったが、彼女は声をかけてこなかった。居眠りから無理やり起こすべきか逡巡しているのだろうと理解した昭俊は、仕方なく自ら目覚めることにした。
まぶたを上げるとすぐに目が合った。そこにあったのは、ひどく動揺して恥じらう女の表情だった。そこで初めて彼女に観察されていたのだと知った。
そんなことを思い起こしながら、紙から上げていた穂先をふたたび沈めて書き進める。しかし集中力を欠いた状態の線質はどうやっても緩んでおり、とうてい見れるものではなくなっていた。
昭俊は、筆を置いた。深くため息を吐き、畳に仰向けに倒れて視界をまぶたで覆う。
興味深い字を書く女性だった。直筆で書かれた豊かな肉づきのある楷書は、その淑やかな外見に反して大胆で、極端で、どこか破天荒な印象すら滲み出ており、まさに気迫雄大といえた。
昭俊が“色気のある字”と評したのは、そのダイナミックな字を可憐な雰囲気をもった彼女が書いたことが妙にアンバランスで、それがかえって謎めいた魅力を引き出していると感じたからだ。
中国初唐時代の三大家として有名な、欧陽詢、虞世南、チョ遂良のように均整のとれた妍麗な書風を好む性格かと思ったが、そうでもなさそうである。彼女の書を思い返すと、それらの正統的な書法に反発した顔真卿のように力強く、剛直さを心の内に秘めた人物像が浮かぶ。
彼女はどのような書風を好み、臨書の手本とするだろうか。遮ったままの暗い視界の中で、本当にふたたび来るかどうかもわからない女を想う。
ふと思い出し、昭俊は顎に手をやった。毛のないなめらかな肌を撫で、わずかに口角を上げた。
静止画のような光景の中で、服の黒が際立っていた。雑色が取り払われ、彼女の真の色が残されたのだと主張しているようだった。
肩に力が入ったその細い背中は、背後からの視線に気づいているのか、それとも単に緊張しているのか、筆を入れるのをためらっているように見えた。ややあって、覚悟を感じさせる吐息が聞こえ、その腕が動いたとき、昭俊はそっとまぶたを下ろした。彼女の纏う空気の邪魔をしないように。
しばらく心地よい静けさに身を任せたあと、昭俊はまぶたを上げてみた。
視界に映ったのは、集中しているせいか少し前かがみになった背中と、白いうなじ。結われそびれた艶髪の細い束が耳の後ろから肩に垂れていた。歪みのない烏の濡れ羽色――そう思った瞬間、彼女が静かに筆を置いた。
それに気づいてとっさに目を閉じた直後、わざわざ閉じなくてもよかったではないか、と昭俊は猛省した。それから目を開けるタイミングを失った。「先生」と呼びかける迷いを含んだ小さな声に気づかないふりをした。狸寝入りだ。
畳を歩く乾いた音が近くで止まり、その気配が目の前に下りてから長いこと待ったが、彼女は声をかけてこなかった。居眠りから無理やり起こすべきか逡巡しているのだろうと理解した昭俊は、仕方なく自ら目覚めることにした。
まぶたを上げるとすぐに目が合った。そこにあったのは、ひどく動揺して恥じらう女の表情だった。そこで初めて彼女に観察されていたのだと知った。
そんなことを思い起こしながら、紙から上げていた穂先をふたたび沈めて書き進める。しかし集中力を欠いた状態の線質はどうやっても緩んでおり、とうてい見れるものではなくなっていた。
昭俊は、筆を置いた。深くため息を吐き、畳に仰向けに倒れて視界をまぶたで覆う。
興味深い字を書く女性だった。直筆で書かれた豊かな肉づきのある楷書は、その淑やかな外見に反して大胆で、極端で、どこか破天荒な印象すら滲み出ており、まさに気迫雄大といえた。
昭俊が“色気のある字”と評したのは、そのダイナミックな字を可憐な雰囲気をもった彼女が書いたことが妙にアンバランスで、それがかえって謎めいた魅力を引き出していると感じたからだ。
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彼女はどのような書風を好み、臨書の手本とするだろうか。遮ったままの暗い視界の中で、本当にふたたび来るかどうかもわからない女を想う。
ふと思い出し、昭俊は顎に手をやった。毛のないなめらかな肌を撫で、わずかに口角を上げた。
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