滲む墨痕

莇 鈴子

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第二章 雪泥鴻爪

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 障子を通して差し込む自然光が、柔らかな長峰の筆によって次々と形を成していく書線の輪郭を鮮明に映し出している。
 俯仰法ふぎょうほう、と呼ばれる筆遣いがある。筆を運ぶほうに筆の軸を倒して書く用筆法で、右に進むとき手のひらが仰ぎ、左に戻るとき手のひらが俯す、手首を使った特徴的な書き方だ。
 嵯峨天皇、橘逸勢とともに日本の三筆と称され、歴史上の名筆の中で最難関ともいわれる弘法大使・空海の『風信帖』をたもとに置き、昭俊はひとり静かにその行書を臨書していた。
 臨書とは、手本を見て書くことである。しかし、ただ字形を模して書くのではない。ひとつひとつの文字の細部にまで意識を集中させて書き手の手癖や呼吸感を読み解きながら、その意図を汲み取り、線質を熟視して筆法を取得する。
 真言宗の開祖である空海が四十歳前後――三十九の昭俊と同じ歳の頃に書いたとされる『風信帖』は、天台宗の開祖・最澄から送られた書状への返信である。
 冒頭の名句『風信雲書、自天翔臨』は「あなたからの便りが天から舞い降りてきました」という意味を持ち、最澄からの手紙に対する感謝が読み取れる。『披之閲之如掲雲霧』――「それをひらいて読むと、雲や霧が晴れる思いがします」と詩的な麗句が続き、当時の両者の親密な交流を物語る。
 空海の文字は、大小や線の肥痩、運筆の緩急も変幻自在であり、筆を沈めたり、突いたり、弾いたりと変化に富んだ多様な筆致が見られる。
 おおらかさ、柔軟性、上品さの中に宿る、凛とした力強さ。その筆跡は繊細であるとともに豪胆であり、心と状況に応じて自在に書風を変えることにより空海の心情を鮮やかに表している。
 一方、最澄の書風は均質で几帳面であり、生涯を通じてほとんど変化がないといわれている。その書風からわかる秀才肌で実直な人柄は、天才肌の空海のそれとは対照的といえる。
 いったいなんの因縁生起か、同じ仏道の世界で競い合う運命をもつことになった両者の交友は最終的には決別に終わってしまう。そういった歴史的背景と向き合うことも、もの言わぬ書から書き手の心情を捉えるために必要な要素である。
 臨書をろくにせず書家を名乗る書家は、真の書家ではない――。
 その考えのもと、これまで気が遠くなるほど膨大な時間を費やし、昭俊は純然と書に臨みつづけてきた。
 古典をどれだけ書いて、どれだけ知っているか。それが自分にとっての財産となり、創作の引き出しとなり、糧となる。徹底した古典臨書なくして自らの書風を培うことなどできない。
 この家を遺した父は、昭俊が幼い頃から筆を持たせ、書の伝統を教え、臨書の重要性を説いた。
 父は七十年の歴史を持つ県の書道連盟に在籍していた。現在では二千名ほどの会員を有し、流派や会派を問わず書に携わる者たちが書道の普及のため活動する他県には見られない機関である。父はその一員として、書を生業としながら子供たちに書の愉しさを伝えるため、この家でひっそりと書道教室を営んでいた。
――型を身につけてこその型破りだ。
 型破りは、我流とは違う。まず徹底した模倣で名筆の書風を身につけ、破るための型を築く。自身の書道を追求するのはそれからである。
 父から与えられたその言葉は、三十年以上経った今でも昭俊の心の軸として存在している。「五十、六十代は洟垂れ小僧」といわれる書の世界で二十代の頃から書の登竜門といわれる書道展をはじめ有名な展覧会で名誉な賞を受賞したり、国内外で個展を成功させたりする中で、ふとしたときに思い出しては初心に返り、気を引き締めた。
 三年前に父が他界したことをきっかけに、昭俊は活動拠点としていた東京からこの地に戻ってきた。父の遺志を継いで県書道連盟に所属し、創作活動のかたわら週二日ほど子供たちに書を教えている。
――自分らしい字を追求してみたいと思っていました。
 ふいに、ひかえめだが凛とした女性の声が甦り、昭俊は筆を運ぶ手を止めた。
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