滲む墨痕

莇 鈴子

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第一章 顔筋柳骨

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 兄の急逝、そして父の病。もう戻ることはないと思っていたこの家に帰ると決心してから三ヵ月半。たったそれだけの間に、十年以上かけて心に蓄えてきたはずの余裕がすっかりどこかに消えてしまった。
 妻に触れることを忘れ、夫婦生活から遠ざかっていた。忙しさのせいにしていた。まだ三ヵ月、彼女も疲れているだろうし、互いに余裕ができてからでいい。そう思っていた。
 今日、彼女が藤田千秋の書道教室に行くまでは――。
 あの書をまるで宝物のように扱う潤を見て、彼女の変化はあの個展を訪れた直後からだったと誠二郎は改めて確信した。
 互いの小さな異変に気づきながらも、互いに気づかないふりをしてやり過ごす。夫婦というものは滑稽な関係だ。
――親父とお袋みたいに。
 古い照明器具の薄気味悪い常夜灯の下、隣の布団で静かに寝息を立てる妻の気配を感じながら誠二郎は心の中で呟いた。
 ぼんやりと灯を見上げる。なにもしない時間があると、決まって頭に浮かんでくるのは父の言葉。
――あれを頼む。あれは、野島屋の次期主人であるお前にしか守れんのだ。
 八月の帰省から一週間後。父に決断の連絡を入れたときに電話の向こうから聞こえたその厳めしい声は、紛れもなく自分の父のものであったが、同時に知らない男のようでもあった。
 なるべく音を立てないように布団から出た誠二郎は、静かに鏡台のそばに歩み寄った。
 そこに置かれた書に目を落とす。暗い橙色の灯に淡く照らされ、輪郭がぼやけて見える力強い文字にそっと触れた。
 紙に染み込んだ墨が乾いて固まり、潤の頑固なほどの愚直さを映し出しているようだ。紙ごとそれを握りつぶしたい衝動に駆られ、自身のこぶしを握りしめた。
 立派な潤筆だ、と思った。
 もっと褒めてやればよかった、とも思った。



顔筋柳骨がんきんりゅうこつ
中国の唐時代における楷書の四大書家のふたり、顔真卿と柳公権の筆法の重要な部分。「筋」は筋肉、「骨」は骨格の意味で、書道のこつや骨組みのこと。または力強いことのたとえ。
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