滲む墨痕

莇 鈴子

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序章 嚆矢濫觴

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 書家・藤田千秋ふじたせんしゅうを知ったのは、その日の夕食の時間だった。
 部屋に料理を運んできてくれた菊池という仲居の女性が、温泉街から車で五分ほど行ったところにある美術館でこの町出身の書家が個展を開いていると教えてくれたのだ。上品な笑みを浮かべた菊池は、「ぜひご夫婦で息抜きに」と勧めてくれた。
 彼女にとってはほんの些細な気遣いだったかもしれないが、昼間のことで食事どころではなかった潤にはその言葉が心底救いになった。
 豪華な料理を挟んで夫と向き合い、鯛の姿造りが華やかな舟盛に箸をつけながら、潤はふと小学生のときの自分を思い浮かべた。
 五年生の二学期が始まった頃だった。図画工作の授業で、夏の思い出を絵に描いた。
 潤が題材にしたのは、家族で行った遊園地で姉と一緒に乗った絶叫マシーン。座席のハーネスにしがみつくふたりの少女が、急降下する恐怖におののきながらも湧きあがる興奮に思わず叫び声をあげる様子を捉えたものだ。
 鉛筆で描いた下描きは自分では大満足の出来だった。先生からも、人物の表情に臨場感があって素晴らしいと褒められた。しかし、色をつける工程でその評価は下げられることとなった。
 黒色の濃淡を組み合わせた何本もの線を重ねて描いた下絵。それが潤の中ではほぼ完成形だったので、その線をほかの色で塗りつぶし隠すことで作品のよさが損なわれてしまうと子供ながらに思った。
 結果、絵の具をたっぷりの水で薄めた弱々しい色を筆でさらりと撫でて滲ませただけの、なんとも中途半端な絵が完成した。「色を入れると残念な感じになったね」という先生のなにげない言葉は、十一歳の少女の心を容赦なく傷つけ、絵に色をつけて表現することへの苦手意識を深く植えつけた。
 一方で、習字の授業が好きだった。
 学校以外で習字教室に通っていたこともあり、筆で字を書くことには慣れていたし、なにより、“色を塗る”という考えからかけ離れた“文字を書く”という表現方法が自分には合っているように思えた。
 姿勢を正して静かに紙と向き合い、文字の配置を考えながら正しい位置に筆を入れる。やり直しのきかない一発勝負。書き順、とめ、はね、はらい、すべてが決められたルールの中でその緊張美を形にできたとき、精神が研ぎ澄まされているように感じた。
 硬筆より毛筆、特に大筆で大きな紙にのびのびと字を書くのが得意だった。六年生のときに学校で行われた書き初め大会で、半紙三枚判を用いて書いた四字熟語『初志貫徹』は先生や友達に大好評であった。だがもっとも重要なのは、潤を滅多に褒めない母がその堂々とした書を見て満足そうに笑ってくれたことだった。
 初めに心に決めた志を最後まで貫きとおす――。
 残念なのは、十八年経った今、子供の頃に憧れたその言葉とは無縁の思考に呑み込まれそうになっていることだ。新鮮な刺身を口に運んで夫と笑顔を交わしながらそんなふうに思い、潤は心の中でため息をついた。
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