滲む墨痕

莇 鈴子

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第一章 顔筋柳骨

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「潤ちゃん。お造り上がったから藤の間に運ぶわよ」
 先輩仲居の菊池から指示を受け、潤は緊張しながら返事をして背筋を伸ばした。
 会社を辞めた誠二郎とともにこの地に越してきたのは、社長の病を知らされたあの夏の日から三ヶ月後の十一月下旬に差しかかる頃だった。
 男は一度心に決めたら揺るがないと聞いたことはあったが、頼りないと思っていた夫が初めて見せた強い決意の表情を目の当たりにし、潤はそれを実感した。そして、自分に残された選択肢がふたつしかないことを思い知った。
 拭いきれない不安を抱えながら夫と一緒に故郷に帰るか、別れるか。それは選択の余地などほとんどないことを示してもいた。
 旅館の敷地内にある野島家の離れを借りる形で慌ただしく生活が始まり、誠二郎はさっそく若旦那として、潤は若女将、ではなくとりあえず仲居として仕事を覚えることになった。
 それからもう三週間、髪を結い、帯を締めて働く毎日を過ごしている。
 野島屋では客の出迎えから見送りまでを同一の仲居が担当する。流れとしては、午後からチェックイン客の出迎え、部屋への案内やお茶出し、夕食準備、配膳と下膳、布団敷き。夜九時頃に帰宅し、翌朝六時には出勤して、朝食準備に配膳と下膳、チェックアウトした担当客の見送り、客室清掃や備品の補充をし、午前十一時頃から四時間ほどの休憩に入る。
 二年間専業主婦だった潤は仕事をする感覚を取り戻すことに苦労したが、それ以上に、老舗旅館で働くという人生で初めての経験に神経をすり減らされた。本式着物の着付けとそれで長時間動きまわること、慣れない所作や客との間合いのとり方に悩み、体力も気力も奪われた。
 日々の業務に社長の入院も重なったことで、女将も少なからず心労と焦りを抱えているようだった。「潤さん」と名前を呼ぶ透きとおった声と、こちらを見るその冷静な瞳に苛立ちのようなものが見え隠れするたびに、いつ追い出されるだろうかと戦々恐々としている。
 誠二郎に相談してみても、「年末が近いからピリピリしているだけだよ。気にするな」と笑うだけでまともに話を聞いてくれない。顔には出さなくとも彼自身も疲れているのだろう。
 広報活動や経理などの事務仕事に加え、ときには予約の受付やフロント業務、夕食時に客室へ飲み物を提供しに行ったり、調理場の手伝いをしたり、クレーム対応をしたり、細かなところまで幅広くカバーしていた社長の代わりを務めるのは、女将の助けがあるとはいえ未経験の彼にはまだ難しい。
 その苦労がよくわかるから、潤はなにも言えない。仲居としても半人前の自分には、夫のためにできることなど限られている。それは彼のほうも同じ気持ちだろう。
 そんな中で潤を支えてくれるのは、あの個展を教えてくれた仲居の菊池だ。
 下の名前は美代子みよこ。器量がよく、水縹色の仲居着物が似合うさわやかな美人だ。
 七歳の息子と両親と暮らす三十九歳のシングルマザーで、二十代の半ば頃から野島屋旅館に勤めるベテランである。彼女は潤の指導係として、着付けや立ち振る舞い、客室に料理を出すタイミングなど様々な場面で的確にフォローしてくれる。
 面倒見のいい美代子は仕事以外でもなにかと潤のことを気にかけてくれ、今ではすっかり夫より長く一緒にいる姉のような存在である。休憩時間は野島屋から車で十分のところにある彼女の自宅にお邪魔して昼食をもらうことも多く、狭い世界に閉じ込められ不満を漏らすこともできない潤にとってはそれが唯一の息抜きだ。
 そんな状況を心配した美代子は、気分転換になるかもしれないと言って潤に書道を勧めてくれた。あの個展を開いた書家が自宅で書道教室を営んでおり、一回のみの体験レッスンも歓迎しているという話をどこかで聞きつけてきたらしい。
「とりあえず体験してみたらいいじゃない。それだけなら女将も若旦那様も許してくれるわよ。ね、そうなさい」
 背中を優しく叩くその手のぬくもりに勇気づけられ、潤はその提案を受け入れることにした。
 きっかけなど些細なことなのだ。しかし、それが運命を大きく変えてしまうこともある。
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