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みせられて
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10
尚子は数冊の点字に関する本を持参して、清志の家に訪れた。少し散らかった部屋の様子は、以前の清志では考えられなかった。テーブルに散乱しているゴミのほとんどは、おにぎりの包装であった。
清志は一人で生活しても不自由にならない程度の家事は熟せていた。それが見る影もない有り様に、清志の視力はほとんど機能していないと尚子は思った。
「お腹空いてる?何か作ろうか?」
清志は少し考え、首を振った。
「いや、大丈夫。ありがとう」
「そう?」
清志は置かれた本を一冊手に取り、顔に近づけていた。尚子は視線を逸らし、勝手に冷蔵庫を開けた。食材は何も置かれていなく、あるのはミネラルウォーターが二本。今日ぐらいは何か栄養のある物を食べてほしかったが、食材がないとなれば作れるものはない。尚子は冷蔵庫を閉め、清志の正面に座った。
「とりあえず五十音を覚えてみるのはどう?」
清志はテーブルに本を戻した。
「そうだね。時間は有り余っている」
この日から、尚子は空いている時間の度に清志の家を訪れた。尚子は自宅で作ってきた料理を持参し、清志と一緒に食事を取った。
尚子が来られない日はおにぎりで済ませてしまうものの、以前よりは顔色が良くなっていった。それは料理のお陰か、点字を学ぶことで脳を働かせているお陰か、人と会話しているお陰か。どれもそこには、尚子の存在があった。
清志は尚子がいない日も、点字の勉強を続けた。五十音を覚えると、子供向けの点字絵本を読む。変わらず視界はぼやけているにも関わらず、不思議と内容が頭に入ってくる。文字や絵が見えなくても、指を通して脳内に場面が広がる。
11
ある日、尚子は夜遅くに清志の家を訪れた。扉を開け、リビングに入ると、清志がテーブルで点字の勉強をしていた。
「調子はどう?」
清志は尚子の方を振り向き、笑顔を見せる。
「楽しいね。時間があっという間だよ。あれ、もしかしてカレー?」
「鋭いね。みんな大好きカレーよ」
「ちょうど食べたかったんだ。小人たちがカレーを作っていたところだよ」
清志は読んでいた本を差し出し、尚子は受け取った。ページをめくると、小人たちが大きな鍋に野菜をそのまま入れ、カレーを作っている絵が載っていた。
「すごいわね。もう読めているなんて」
「今まで普通だと思っていたことが、こんなにも楽しいことだったなんて知らなかったよ」
「本当、感謝しないとね。カレーだってそうよ。感謝しなさい」
「そうだね」
二人はそう言って笑うと、尚子はカレーを温め直しにキッチンへ向かった。その間に清志はテーブルの上を片付けた。本や小物などは定位置に戻し、不要な物は周りに置かないように心掛けることで、以前のように散らかることはなかった。
尚子はカレーを盛り付けた皿を運んでくる。清志の目の前にカレーが置かれる。
「ありがとう」
「結婚しているときは、お礼なんて言わなかったくせに」
「それは済まないとしか言えない」
「なんてね」
尚子も椅子に座り、二人はカレーを食べ始めた。小人が作ったカレーとは違い、野菜は細かく切られていた。野菜は柔らかく溶け、旨味がルーと合わさっていた。
平らげられた食器を尚子は洗い、キッチンペーパーで水を拭き取った。食器を棚に戻し、尚子は帰り支度をした。
「明日は会議があるから、次来るのは明後日かな」
そう言って靴を履き始めると、清志は設置した手摺伝いに玄関へと来た。少し照れくさそうに、紙を差し出す。
「これ」
「何よ」
尚子は笑いながら折りたたまれた紙を受け取り、その場で開いた。
『⠁⠓⠐⠡⠞⠉⠲⠀⠀⠅⠊⠪⠲』
点筆で書かれた点字。尚子は少し涙ぐんだ。
「ありがとうって。わざわざ点字にしなくても」
清志は尚子が点字を読めたことに、驚きはしなかった。きっと、彼女は私のために勉強してくれていると思ったから。二人は束の間の沈黙を味わう。
「また明後日ね」
そう言って、尚子は玄関から去っていった。
12
尚子が点字を勧めてから、清志の生活は明らかに変わった。一番の変化は、表情である。生気をなくし、虚無感に襲われていたあの頃の清志ではなくなった。顔に赤みが増し、表情も豊かになった。そして、体型にも変化が見られていた。緑内障を宣告されてから次第に食欲を失い、おにぎり一つ二つで一日を過ごしていた清志であったが、尚子の手料理によりズボンのサイズを二つほどサイズアップした。
「あなた、少し太ったんじゃない?」
尚子は笑いながらそう言うと、清志は腹を擦り、
「夢が詰まっているんだよ」
と返した。そんな他愛もない会話を、なぜ結婚生活ではしてこなかったのかと、清志は心のどこかで後悔をしていた。それは尚子も同じであった。
清志は尚子から勧められていた本の中から、一冊を手に取った。
「色々読ませてもらったけど、市原市が点字とゆかりがあるなんて知らなかったよ」
それを聞いた尚子は笑った。
「あら、少しは県民に近づいたんじゃない?」
「おかしいな。生まれも育ちも、ずっと同じはずなのに」
清志がそう言うと、尚子は再び笑った。
13
清志は送られてきたテキストデータを、点字に変換する仕事を始めた。清志は紙をセットし、ソフトによって音声化されたテキストを聞き取り、それを点筆と点字器で点字を打っていく。その様子を見ていた尚子は感心していた。
「慣れたものね」
「最初は大変だったよ。微かにしか見えなくて、何度も失敗したよ」
「失敗していいものなの?」
「良くはないよね」
二人は顔を合わせて笑った。
「けど、給料は少ないんじゃない?」
「それでもいいんだ。今は点字に触れていることが楽しいから。それに」
「それに?」
「視覚を失っても、たしかに見えるんだ。想像できるんだ」
尚子は何度か頷いた。そして、清志に聞いた。
「ねぇ。あなたにとって、点字は何?」
清志は手を止め、少し考えてから言う。
「僕は点字に『みせられた』」
「『みせられた』?魅せられたってこと?」
清志は首を振る。
「それだけじゃないよ。『魅せられた』そして、『見せられた』」
尚子はふと笑った。
「あら?そんなに詩人染みてたかしら」
「たくさんの機会を与えてもらったからね。尚子との時間も」
「もう一度言ってもらえるかしら?」
清志は照れくさそうに、再び点字を打ち始めた。
尚子は数冊の点字に関する本を持参して、清志の家に訪れた。少し散らかった部屋の様子は、以前の清志では考えられなかった。テーブルに散乱しているゴミのほとんどは、おにぎりの包装であった。
清志は一人で生活しても不自由にならない程度の家事は熟せていた。それが見る影もない有り様に、清志の視力はほとんど機能していないと尚子は思った。
「お腹空いてる?何か作ろうか?」
清志は少し考え、首を振った。
「いや、大丈夫。ありがとう」
「そう?」
清志は置かれた本を一冊手に取り、顔に近づけていた。尚子は視線を逸らし、勝手に冷蔵庫を開けた。食材は何も置かれていなく、あるのはミネラルウォーターが二本。今日ぐらいは何か栄養のある物を食べてほしかったが、食材がないとなれば作れるものはない。尚子は冷蔵庫を閉め、清志の正面に座った。
「とりあえず五十音を覚えてみるのはどう?」
清志はテーブルに本を戻した。
「そうだね。時間は有り余っている」
この日から、尚子は空いている時間の度に清志の家を訪れた。尚子は自宅で作ってきた料理を持参し、清志と一緒に食事を取った。
尚子が来られない日はおにぎりで済ませてしまうものの、以前よりは顔色が良くなっていった。それは料理のお陰か、点字を学ぶことで脳を働かせているお陰か、人と会話しているお陰か。どれもそこには、尚子の存在があった。
清志は尚子がいない日も、点字の勉強を続けた。五十音を覚えると、子供向けの点字絵本を読む。変わらず視界はぼやけているにも関わらず、不思議と内容が頭に入ってくる。文字や絵が見えなくても、指を通して脳内に場面が広がる。
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ある日、尚子は夜遅くに清志の家を訪れた。扉を開け、リビングに入ると、清志がテーブルで点字の勉強をしていた。
「調子はどう?」
清志は尚子の方を振り向き、笑顔を見せる。
「楽しいね。時間があっという間だよ。あれ、もしかしてカレー?」
「鋭いね。みんな大好きカレーよ」
「ちょうど食べたかったんだ。小人たちがカレーを作っていたところだよ」
清志は読んでいた本を差し出し、尚子は受け取った。ページをめくると、小人たちが大きな鍋に野菜をそのまま入れ、カレーを作っている絵が載っていた。
「すごいわね。もう読めているなんて」
「今まで普通だと思っていたことが、こんなにも楽しいことだったなんて知らなかったよ」
「本当、感謝しないとね。カレーだってそうよ。感謝しなさい」
「そうだね」
二人はそう言って笑うと、尚子はカレーを温め直しにキッチンへ向かった。その間に清志はテーブルの上を片付けた。本や小物などは定位置に戻し、不要な物は周りに置かないように心掛けることで、以前のように散らかることはなかった。
尚子はカレーを盛り付けた皿を運んでくる。清志の目の前にカレーが置かれる。
「ありがとう」
「結婚しているときは、お礼なんて言わなかったくせに」
「それは済まないとしか言えない」
「なんてね」
尚子も椅子に座り、二人はカレーを食べ始めた。小人が作ったカレーとは違い、野菜は細かく切られていた。野菜は柔らかく溶け、旨味がルーと合わさっていた。
平らげられた食器を尚子は洗い、キッチンペーパーで水を拭き取った。食器を棚に戻し、尚子は帰り支度をした。
「明日は会議があるから、次来るのは明後日かな」
そう言って靴を履き始めると、清志は設置した手摺伝いに玄関へと来た。少し照れくさそうに、紙を差し出す。
「これ」
「何よ」
尚子は笑いながら折りたたまれた紙を受け取り、その場で開いた。
『⠁⠓⠐⠡⠞⠉⠲⠀⠀⠅⠊⠪⠲』
点筆で書かれた点字。尚子は少し涙ぐんだ。
「ありがとうって。わざわざ点字にしなくても」
清志は尚子が点字を読めたことに、驚きはしなかった。きっと、彼女は私のために勉強してくれていると思ったから。二人は束の間の沈黙を味わう。
「また明後日ね」
そう言って、尚子は玄関から去っていった。
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尚子が点字を勧めてから、清志の生活は明らかに変わった。一番の変化は、表情である。生気をなくし、虚無感に襲われていたあの頃の清志ではなくなった。顔に赤みが増し、表情も豊かになった。そして、体型にも変化が見られていた。緑内障を宣告されてから次第に食欲を失い、おにぎり一つ二つで一日を過ごしていた清志であったが、尚子の手料理によりズボンのサイズを二つほどサイズアップした。
「あなた、少し太ったんじゃない?」
尚子は笑いながらそう言うと、清志は腹を擦り、
「夢が詰まっているんだよ」
と返した。そんな他愛もない会話を、なぜ結婚生活ではしてこなかったのかと、清志は心のどこかで後悔をしていた。それは尚子も同じであった。
清志は尚子から勧められていた本の中から、一冊を手に取った。
「色々読ませてもらったけど、市原市が点字とゆかりがあるなんて知らなかったよ」
それを聞いた尚子は笑った。
「あら、少しは県民に近づいたんじゃない?」
「おかしいな。生まれも育ちも、ずっと同じはずなのに」
清志がそう言うと、尚子は再び笑った。
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清志は送られてきたテキストデータを、点字に変換する仕事を始めた。清志は紙をセットし、ソフトによって音声化されたテキストを聞き取り、それを点筆と点字器で点字を打っていく。その様子を見ていた尚子は感心していた。
「慣れたものね」
「最初は大変だったよ。微かにしか見えなくて、何度も失敗したよ」
「失敗していいものなの?」
「良くはないよね」
二人は顔を合わせて笑った。
「けど、給料は少ないんじゃない?」
「それでもいいんだ。今は点字に触れていることが楽しいから。それに」
「それに?」
「視覚を失っても、たしかに見えるんだ。想像できるんだ」
尚子は何度か頷いた。そして、清志に聞いた。
「ねぇ。あなたにとって、点字は何?」
清志は手を止め、少し考えてから言う。
「僕は点字に『みせられた』」
「『みせられた』?魅せられたってこと?」
清志は首を振る。
「それだけじゃないよ。『魅せられた』そして、『見せられた』」
尚子はふと笑った。
「あら?そんなに詩人染みてたかしら」
「たくさんの機会を与えてもらったからね。尚子との時間も」
「もう一度言ってもらえるかしら?」
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