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しおりを挟む空は、青色一つ見えない蕎麦切色の曇天。
日輪が出なくては、何時なのか、影の向きでは判断できない。
ただ、ここでは鐘が鳴る。
だから、誰でも、時を知ることは出来る。
今は、蛇から馬に変わり、
「おや、お六じゃないかい。」
馴染みの客を帰した高尾は、廊下で、三浦屋の踊りの名手お六と会った。
「高尾太夫。おはようございます・・・。」
「おはよう。お六、今、暇?」
「えっ、えぇ・・・まぁ・・・。」
「なら、わっちの部屋で、お茶でも飲みやすか?」
「よろしいので・・・?」
お六は、目線をさ迷わせる。
どうやら、周りの気配を気にしているのだろう。
「かまわんよ。お六と話がしたいんじゃ。」
「それでは、お邪魔いたします・・・。」
お六は、一礼をし、高尾の後に続いて部屋に向かった。
「あら、珍しい組み合わせね。」
高尾の部屋の前には、風呂包みをもったお浅が立っていた。
「お浅、どうしやした?」
「桂屋の御隠居さんから、お菓子いただいの。皆で、食べましょう。」
「遣手になっても、来なさるんか、あの人。」
お六は、目を丸くした。
桂屋と言えば、大奥御用を仰せつかる老舗の和菓子屋だ。
御隠居である先代の高衛は、お浅が新造の頃からの馴染みで、格子に昇りつめ、年季が明けても、時々様子を見に来るのだ。
「せやよ。わっちのお馴染みさん。わっちの年季が明けても、様子見に来てくれて、ほんにえぇお人。」
高尾の部屋に入り、お茶を淹れながら言うお浅。
「後添いに欲しいんやないの?」
高尾は、淹れてもらったお茶を啜る。
「ちゃうよ。あの人、亡くなった奥さん、一筋やもん。」
お浅は、得意げに言う。
「でも、こんなに来るんやから、やっぱり、想っておるんやないん?」
「娘のようには想うてくれてると思うけど、そうやね、わっち、高衛さんなら、一緒にいてもえぇって思うよ。」
「だったら・・・。」
「でも、ダメ。わっちは、奥さんに一途な高衛さんが好きやもん。」
「・・・・・・。」
頑に、後添いになる気は無いと言うお浅に二人は顔を見合わせる。
「えぇ男は、歳が離れてようが、えぇ男。わっちにとって、それが、桂屋の御隠居さん言うだけやろ。」
「薄雲っ!」
突然、襖が開かれて、声の主が入って来た。
もう一人の太夫、薄雲である。
お六は、すぐに座布団を用意し、お浅はお茶を淹れた。
「失礼しやすよ。」
「薄雲。立ち聞きや何て、趣味悪いなぁ。」
「わっちも、仲間に入れてくれなんし。お春ちゃんが、お稽古行っちゃって、つまらんの。」
色白の肌を子どものように膨らませる薄雲。
「なんや、お春も稽古か。お玉もや。」
「今は、お松さんとお深の所で、他の新造の子達と三味線のお稽古をしておりやす。その後は、囲碁のお相手と和歌と・・・。」
お浅は、指を折りながら、新造達の予定に頭を巡らす。
「そういれば、薄雲。米問屋の若旦那、どうしたの?」
「お玉ちゃんの天気占いの話を聞いたら、帰りはったわ。雨になると、荷が心配だからって。」
「また、お玉の天気占いか・・・。」
「占いって、バカにしたらあきませんよ。お玉ちゃんには、雨雲が見えてるんやもん。わっちも、道中の時、何度、助けられたことか・・・。」
「私も、お使いの時、傘を持って行ったら、濡れずに帰れやしたよ。」
「楽器の手入れをするのに、天気は大事ですからね。」
皆、口々にお玉の天気占いを褒めるので、高尾はそれ以上何も言えなくなった。
「なぁ、お六。」
「はい。」
「聞きたいんやけど、お玉の踊りの調子はどうや?」
「!?」
お六の方が跳ねた。
持ち上げようとしていた湯呑から、僅かにお茶が零れた。
「・・・・・・。」
お六は、口を閉じ、指に掛ったお茶を懐の懐紙で拭く。
「お六。正直に言うてくれなんし。他のことなら、笑っているお玉が、どうも踊りの事になると、顔に陰りが出来る。調子が狂うんよ。お日様のように笑ってるんが、お玉や。そのお玉が、何を悩んでるのか、わっちな、知りたいんや。」
「・・・・・・。」
お六は目を伏せ、口を閉ざした。
「お六。教えてやりいよ。」
「薄雲太夫・・・。」
薄雲にまで言われて、お六は一息吸い、口を開いた。
「お玉は、筋が悪いわけではありやせん。型を覚えるのも早うて、正直驚いております。」
「じゃぁ、何が悪いんですかい?」
お浅は首を傾げる。
「それは・・・。」
お六は、言葉を濁す。
「曲を味方に付けられておらんのだろう。」
「高尾っ!」
お六は、目が開き、高尾を見つめた。
「わちきの禿、いや、振袖新造のことやさかい、知らんではすまんでしょう。」
煙管をつけた太夫に、お六は、居住まいを正し、
「ご明察の通り、お玉は、曲を踊ろうとしておりやせん。どうも、耳と身体が別に動いているようで、音に型が乗らんのですよ。普通なら、型や順番を覚えれば、後は音についていく。しかし、音だけを追うと、型は崩れ、無駄な体力を使ってしやいやす。どれも、踊りを習い始めたら、誰にでも起こること。ですが、お玉は踊れているのに、踊れていない。恐ろしいことに、誰の三味線でも、型通りに踊れているんです。しかし、踊っているだけで、曲を踊っているわけではないんです。」
口を惜しそうに語るお六。
「音は、見えやせんからなぁ・・・。」
溜息と共に出た煙は、静かに天井に向かって消えた。
「お玉ちゃん、筋が良い分、勿体ないなぁ。」
「はい・・・。」
「お六も口惜しくて、辛く当たってしまったんやろ・・・。」
「すみません・・・。」
「いや、厳しくするんはお玉のためやから、気にせんで。」
「太夫・・・。」
「そうですよ、お六さん。今の格子ちゃん達は、貴女が踊りを、お松が三味線を仕込んだんでしょう。自信を持って下さいな。」
「はい・・・ありがとうございます。」
お六は、三人に向かって頭を下げた。
遠くで、三味線の音が聞こえていた。
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