隠密遊女

大地震

　あやめ、しょうぶ、燕子花が咲き誇る皐月の初め。

江戸から遠く離れたここは、天下の台所・大坂。

米をはじめ、様々な商品が、ここに集まる。

その賑わいは、まさに商人の街と言っても過言ではない。

梅雨の時期に近い為か、朝から雨が降っていた。

軒下には、様々な顔をしたてるてる坊主が、雨雲が蔓延る空を睨みつけていた。

幸い、首を切られた者はいないようだ。



時刻は、蛇が馬の下に行こうとしていた頃。


大阪新町に扇屋という遊女屋がある。

そこから、三味線の音色が響いていた。

「っ！？」

　〝パーッン″

弦が切れ、音が止んだ。

「どないしはったん？」

「・・・来る・・・。」

少女は、弾いていた三味線を床に置いた。

「何がでありんすか？」

傍で音を聞いていた女は、扇子を閉じ、首を傾げて訪ねて来る。

「太夫。逃げましょう。」

「・・・何か、聞こえるん？」

「地面が泣いています。」

「地面が？・・・っ！？」

太夫と呼ばれた音は、立ち上がり、

「誰ぞっ！誰ぞ、おらんかっ！」

と、勢いよく襖を開け、風貌からは想像もつかないような声を放った。


「はいなっ！」

すぐに、たすき掛けをした子どもが駆けてくる。

「すぐに、親父様とおっかさまを呼びなんしっ！」

「はいっ！」

子どもは、また元来た道を戻って行った。



「太夫、どうしたっ！」

すぐに、初老の男と女が、ドタドタと足音をたてながら、走り込んできた。

「親父様、おっかはん。すぐに皆の避難させなっ！」

「あぁ、落ち着きぃ。」

「どういうことなんだい？」

顔を歪ませる太夫に、男と女は冷静に尋ねた。

「雲居が、地面が泣いてはるって・・・。」

「泣いて・・・って、何っ！？」

「ほ、ほんなんか、雲居っ！？」

事情を聞いた二人の顔が、一気に青くなった。

「はい・・・丑寅の方角で、地面が揺れてはります・・・おそらく、大坂だけでなく、京や近江あたりが・・・。」

雲居という名の少女は、目を伏せ、冷静言った。


「あんた、はよ、皆を避難させなっ！」

「あっ、あぁっ！」

男と女は、急いで部屋を出て行った。


「雲居、わっちらも支度をっ！」

「はいっ！」

雲居と太夫は、風呂敷に手あたり次第物を入れて、部屋を出た。



大坂、京の都が、地震に襲われたのは、それからすぐのことであった。




明暦の大火から、約五年。

江戸の災異の記憶は、薄れつつある中、寛文の終わりに起きた西の災害。

これが、後に、『寛文近江・若狭地震』と言われる大地震である。


その威力は、京、大坂、若狭、紀州に留まらず、東海道を伝って、江戸までその強さを知らしめた大地震は、様々な場所に、大きな爪痕を残した。

京では、約百年前に、織田信長によって築城された、時の室町幕府第十五代将軍である足利義昭の居城である二条城では、番衆小屋が全壊。千軒以上の町屋が圧し潰され、死者は二百人を優に超えた。

近江の地では、城の御殿をはじめ、堀や門が被害を受けた。


「ぎゃぁぁぁっ！！」

「うわぁぁぁっ！！？」

「にげぃ～っ！！」

「おっかぁぁっ～おっかぁぁっ～！！」



「・・・都が・・・この大坂が・・・。」


崩れ行く家々、逃げ惑う人々の中で、雲居は、悲鳴を聞いていた。


だが、もっとも響いたのは、家が家が崩れ落ちる音や逃げ惑う足音、まして、人々の悲鳴でもなかった。

足の先から伝わってくる地面からの叫びだ。


「・・・・・・。」


もはや、降り続く雨の音など、雲居には、何の障害にもならなかった。