こっち向いてください

断案と憧憬 16

「──敬吾さん！」
「え、っあ、おう……」

結局敬吾が捕まったのはバイトが終わり逸が部屋を訪ねてからだった。
何度どこにいるのかとメッセージを送っても返信はなく、どころか既読のサインも付かず、電話にも出ない。
もしも帰って部屋にいなかったらどうしようと、逸は気が気ではなかったのだが──当の敬吾はまたも妙にあどけない顔をしている。
胸中に少し苛立ちのようなものの影が差したのには、逸は努めて無視をした。

「──朝いなかったから心配しました」
「ん、うん……」
「また俺何か──」

逸がそう言った途端、敬吾は弾かれたように肩を縮め、それから訝しく眉根を寄せ、「え？」と逸を睨んだ。

「……もしかしてまた覚えてねえのか」
「す、すみません！俺が何か怒らせちゃったから敬吾さん出てったんですか？」
「………………」

目が覚めた時、恐ろしいことに事後の空気は色濃く残っていた。それもかなり激しく致したことが察せられて、逸としてはもう──それこそ胃の腑が縮むような思いをしていたのだが、とりあえず敬吾の様子を見るに以前のような狼藉を働いたわけではなさそうだった。
だが、記憶がないと言った途端に硬化したこの態度はどうだ。
さっきまではなんとなれば少女のような、いっそ可憐な雰囲気だったのに今は──




──般若だ。




「……別に何もねえよ」
「えっ、」

素気すげなくそう言った敬吾の表情はもう落ち着いていて、いつもと同じに静か。だがまるで嵐の前の海のような、恐ろしくなるような静寂だった。
踏み込めば雷が落ちるかも知れない。

「でも……じゃあなんで」
「うるせえなぁ、お前覚えてねえんだろ」
「は、はい」
「んじゃそれまでだよ。俺は何でもないって言ってるだろ。お前は覚えてないだろ。終わり」
「…………」

──雷は落ちなかったが、心底冷たい、身を切るような風が吹いた。
これは恐らく失望、そして諦観だった。
怒鳴られて殴られた方がましと思えるほどの無力感。
敬吾がこうして突き放すのは、窘める価値もないとごく自然に感じた時だ。取り返しようがない。

「敬吾さん──」
「うるせえなぁ、怒ってないってば。飯は食うよ」
「……はい」

謝りたいが何について謝れば良いのかすら分からない。
せいぜい旨い食事を作るしかないが──敬吾に希望を尋ねるとやはり、「なんでもいい」と不機嫌そうに言われて終いであった。