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残響 3
しおりを挟む「敬吾さん」
穏やかな声でそう呼ばわれ、敬吾はぴくりと体を固めた。
それは嫌な強張りではなく──湯上がりで緩んだ体を僅かに引き締められるような、昂揚を含んだ緊張だった。が。
当の逸本人は、小さく振り向いた敬吾を嬉しげに抱き寄せて長閑に横たわる。
「あったかい」
「ん、うん……」
そりゃ、風呂上がりだからな。
そう思いはするものの水を差すこともなく敬吾が逸のスウェットを握ると、逸は敬吾の髪に口を埋めて温かい香りを吸い込んだ。
そのゆったりとした呼吸は、走り出すこともなくさらに落ち着いていく。
(…………あれ)
「…………おやすみなさい」
「お、やすみ……」
呆気に取られたような声で敬吾が返すと、満足げに逸の腕がさらに敬吾を抱き込んだ。
そのまま逸は本当に寝息を立て始め、敬吾はいよいよ意外そうに瞬く。
──あの声で呼ばれて、手を出されないとは思いもしなかった。
珍しいこともあるものだ。
しかし、なんと言うか──
少々むかっ腹の立つような。
納得いかないような妙な気持ちで、敬吾も目を閉じることにした。
「おはようございます」
「おはようー」
ちらりと逸と顔を合わせてそう言ったきり篠崎はパソコンに向き直った。
急ぎの処理でもあるのか集中しているようで、鬼気迫る勢いでキーボードを叩き終えるとぐっと背中を伸ばす。
「……っあぁー肩凝った……、逸くん聞いた?敬吾くんから」
「あ、はい。フレファンさんのですよね」
「そうそう……」
目頭を揉みながら呻くように言い、篠崎は苦笑している逸に今度こそ向き直った。
「まあ来年とかの話だし、そんな重く考えなくていいんだけどさ。社長も、もし心当たりがあったらよろしくって程度で言ってて」
「なるほど」
「俺としては逸くんにはずっといてほしいけどね?敬吾くんもあともうそうは長くいないしさあ……あ、いらっしゃいませー」
そう言って篠崎は売り場へと出ていってしまう。
取り残された逸は表情も動かせないまま数秒立ち尽くしていた。
(就職なあ………)
検品作業を進めながら、逸はぼんやりと考えていた。
安定した収入と生活、社会的な信用。
学生生活を終えれば当然に選ぶべき道だが、守るべきもののない、取り立てて堅実な質でもない自分にはさして重要なものでもなかった。
それなら、雑多な環境、多彩な人物と関わって行くことができる利点と捉えるのも手だと思っていたし、間違っていないとも思う。
無論、いつまででもできる暮らし方ではないが。
だが──
漠然としていたその転換の時は、ここへ来て具体的に定めるべきものかもと思い始めていた。
(──もしだけど)
瞼の裏に敬吾の顔が過る。
絶対に手放したくない──生涯を共にしたい人。
その思いを敬吾が受け入れてくれるとしたら。
それ以前に、敬吾にそれを伝えるとしたら。
現状では、とても言えない。
他の誰かならこんなことは思いもしなかっただろう。
拘りとも言えない程度の自分のスタンスさえ、曲げてまでとはきっと露ほども思わない。
だが、敬吾には、それでは向き合えない。
最低でも肩を並べて、釣り合う男になってからでないととても口にできるとは思えなかった。
もっと言えば敬吾に何があっても守って支えきりたい。
社会的にも、経済的にも精神的にも。
敬吾が安心して頼れる人間にならなければと、思っていた。
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