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褒めて伸ばして6
しおりを挟む「おはようございまーす」
「おはよー」
タイムカードを押す逸を、幸は仕事の手を止めて見つめた。
「逸くんどうかした?」
「え?」
「最近元気ないよね。だるそう」
「あー……」
逸は苦笑した。
確かにここのところ体がだるい。
気持ちにもいまひとつ張り合いがないので怠惰にも見えるだろう。
理由はもちろん幸が心配するような不調ではなく、単に自己処理のし過ぎだ──
間違いを予防する意味ももちろんだが、何よりも、処理せずに敬吾に会うととても辛い。
それが嫌で必要以上にしてしまっている。
──結果、この無気力である。
(セックスとオナニーってなんでこんな違うんだろうなー……)
どうしても、胸中に独りごちてしまう。
「今日はちょっと寝不足。スマホゲームにハマって」
「あー。今日力仕事だよ、大丈夫ー?」
幸は仕方がないなあとでも言いたげに苦笑した。
逸も自らに呆れていた。
「大丈夫大丈夫、棚がえの続きだよね」
「つっても敬吾さんが昨日今日でかなり進めちゃったんだけどねー、乗ってる時にガンガン行くとか言って」
幸が店の見取り図を指し示す。
進捗具合を表す赤ペンのチェックが、ほとんどの箇所に施されていた。
「えっ、こんなに!?嘘でしょ!!」
「敬吾さん最近元気だよねー」
その言葉に、逸はずんと沈んだが幸はからからと笑っている。
「あたしだともう手伝えることなくて、細かい片付け回してもらってるよ。逸くんもやることないかもだけど一応聞いてきてー」
「うん………」
逸の耳は半ば閉じてしまっていた。
自分の体の中からの声が大きい。
自分はこの様で敬吾は元気、か──
(……吸い取ってたのか?俺)
「おーい!逸くん!だいじょぶー!?」
「えっあっ!大丈夫ごめんごめん、行ってくんね」
見透かされてしまいそうで、逸は慌てて幸に背を向け敬吾のところへ向かった。
「敬吾さん、おはようございます」
「おう、おはよう」
挨拶を返しながらも、棚に商品を詰め込む敬吾の手は止まらない。
何か考え直したのか、また取り出して陳列を変える流れにも淀みがなく、そして速い。
(ほんとに切れてんなー……)
身勝手にも落ち込んでしまい、それをなんとか飲み込んで逸は敬吾のそばに並んでしゃがみこんだ。
「手伝えることありますか?」
「ああー、うん……先のことあんまり考えてねえから、指示出せないんだよなあ……いまさっちゃんにサンプル掃除してもらってるから、それバックヤードに仕舞ってきてくれ、その間考えとく」
「了解です」
そう言いながらも敬吾は逸の方を見ない。
逸はくすぐったそうに苦笑した。
敬吾の口調と表情が脳みそをフル回転させている時のもので、御託は並べてもそういう敬吾を見るのも結局好きだ。
恐らく今、今朝のことを言っても何をしても意識に入れないだろうなと思う。
何も言わずに逸は幸のところへと戻った。
「俺も指示待ちー。それまとめて仕舞ってくるから台車持ってくんね」
「はーいよろしくー」
「すーげー、超見やすくなったー……」
「やー、まさか今日で終わるとは思わなかったわ……」
「敬吾さんキレッキレでしたもんね」
「なんか降りてたな」
笑いながらも少々疲れたように肩を回し、敬吾はタイムカードを切った。
「じゃああと売り場の写真撮って水野さんに送っといてくれ、ダメ出しあったら店長に伝えといて」
「了解です、お疲れ様でした」
「お疲れ。あ」
「?」
敬吾が振り返り、僅かに顔を寄せる。
逸は子供のように瞬いた。
「──飯なに?」
逸はほろほろと崩れそうな笑みを浮かべ、滔々と睦言の溢れそうな口を手で覆う。
「手羽元のトマト煮とポテトサラダです。先食べてて大丈夫ですよ」
敬吾はそれには答えず、ふと笑うとそのまま帰っていった。
(あーもう…………)
逸ががしがしと顔を擦る。
(かっわいいなあくそー………!!!)
だらだらと蕩けていってしまう頭の中を必死で固め直し、意識しないと止まってしまいそうな呼吸を繰り返して逸は背中を伸ばした。
(ここ店!店!!!)
──こういう思いをするから、「ご褒美」に意味があるのだ。
幾分、遠すぎる気はするけれども──……。
「ダぁメですってば!!お酒はダメーー!!!」
「なーんーでーだーよーどう考えてもビールだろこれ!」
──逸が仕込んでいた鶏のトマト煮はとろりとよく煮込まれていて、胡椒とにんにくが効いていた。
食事は逸を待っておこうと思ったのだが小腹が減ってしまい、一口食べてこれはビールだろうと冷蔵庫を開けたところに逸が帰ってきてこの顛末である。
一つの缶を四本の手で覆い引っ張り合って、そろそろ温くなってしまいそうだ。
「俺エッチ我慢してんですから敬吾さんもお酒くらい我慢して!」
「意味が分かんねーよ!!」
「今日敬吾さんに飲まれたら俺が死ぬ!!」
「はぁ?」
「敬吾さん酔うと甘えん坊になるからー!」
「なんねえし、なったとこでなんなんだよ!」
「可愛いからダメだっつってんでしょ!!」
眉根を寄せ、怪訝そうに敬吾が黙ると逸は追撃した。
「我慢できなくなる!!」
「────」
敬吾の顔がぽかんと放心したようになると、逸はその顔を一所懸命に見つめた。
──赤くなれ。
そして、許しをくれ。
だが、その願いも虚しく敬吾はどこぞのマフィアのようににやりと笑う。
「──まあ、そうじゃなきゃ『待て』ではないわな」
「────」
「ご褒美も待った甲斐なくなるしなあ」
「──ちょ…………」
てん、てんと逸の胸を指先でつつきながら、敬吾は実に楽しげだった。
逸の方はさらさらと色を失っていく。
そうして敬吾は力の抜けた逸の手からビールを奪い、冷蔵庫に戻した──が。
別の冷えた缶を取り出して気持ちよく開けた。
「──まあ、我慢できないならそれでも良いんじゃね?好きな方選べよ」
「──………!!!!!」
大きく缶を呷り、振り返った敬吾に不敵に微笑まれて、逸は項垂れた。
そして──空しく拳を固めた。
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