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来し方3

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「え、敬吾あんたなにその荷物」
「帰るよ。母さん車貸して、次の休み返しに来る」
「いいけど……運転なんか久しぶりでしょあんたー大丈夫?明日にしたら?」

母の声を聞いて、河野が寄ってくる。

「敬吾くん、俺送っていくよ」
「いやいや、往復じゃかなりかかりますよ。姉貴またいつへそ曲げるか分かんないし」
「うぅん……ほんと申し訳ない、ありがとね敬吾くん」
「いえいえ、あんなの容赦なくこき下ろしちゃって下さい」

困ったように笑う河野の後ろから、いつの間に移動したのか母がビニール袋をガサガサ言わせながら小走りでやって来た。

「敬吾じゃあこれ飲みながら行きなさい、あとおかずとか持ってって」
「ありがと、……父さんは?」
「寝てる」
「………。じゃ、よろしく言っといてー」

父よ、と思いながら敬吾がドアを開くと、母と河野は英雄を見る目で「気を付けて」とそれを見送った。





「雨かよー……」

久方ぶりにハンドルを握り、高速道路に乗ってしばらく経つと水滴が落ちてきた。
頼むから本降りになるなよと思ったもののそういう願いは届かないもので、今や路面は真っ黒に濡れてライトを反射し、フロントガラスはばたばたと雫に叩かれて視界はすこぶる悪い。

敬吾はため息をつき、目的の降り口への半ばほどでサービスエリアに入った。
軽食とコーヒーを買い求めて腰を下ろし携帯を取り出す。
明日は午後からの講義だから都合が良い。その後店に顔を出してーー

ーーそれから。
逸にも、連絡をしなければ。

敬吾の胸の奥がどくりと脈打った。
昂揚したのか痛んだのかは分からなかったがーー敬吾は思わず眉をひそめる。

そして、自分でも意識しないままに逸の連絡先を呼び出してしまってから、慌てたようにそれをやめた。
今から帰りを告げてしまったら、着くまで「待て」をしかねない。

(それはまずい……)

雨も降っているし、ここからだとまだ二時間ーーいや、三時間かかるかもしれない。

それは自分にとっても長い距離だ。
気合を入れてパンを飲み込み、コーヒーの紙コップを持ったまま敬吾は車へと戻った。






見慣れた我が部屋の扉の前で、敬吾は固まっていた。

鍵を差し込み回したら、空回りしてしまったのだ。
それだけならば間違ってしまったのかで済む。逆に回すだけだ。

そうしたら今度はーー鍵がかかってしまった。

「……………開いてた……?」

出かける前に確認しなかっただろうか。良く覚えていない。

大きく深呼吸し、改めて静かに鍵を開け、ポケットに入っていた小銭を一応握りしめ、敬吾は部屋に入った。
灯りは点いていない。
物音も、しない。
思い切ってスイッチを入れる。
狭いキッチンには特に何も変わりはなく、リビングも同様だった。

小さな寝室への戸を引くと。
ーー掛け布団は、あんな状態だっただろうか。
やはりよく覚えていないが簡単にでも整えて出たような気がするがーー

静かに歩み寄ってこんもりと膨らんだベッドを眺める。

(…………まさかな)

そっと枕の辺りを捲ると、縮めた肩の間に挟まった逸の頭が出てきた。

「やっぱりかよもぉーーーーーー!」

がっくりと両手をつき、大きく息を吐き出す。

「びっ……びらせやがって!なんでここで寝てんだよこの馬鹿……!」

敬吾の嘆きは、平和そうに眠っている逸には届かない。
そのアホ面とも言える顔を呆れたようにしばし見つめて、敬吾は母に持たされた惣菜の類を冷蔵庫へに仕舞おうと扉を開けた。
その中に。

きんぴらやら、煮物やら日持ちの効くおかずがタッパに詰めてある。

「………………」

何とも言えない気持ちで扉を閉じると、「ごはんは冷凍庫にあります!」とのメモ。

「………………オカンだな」

笑ってしまって、しばしそのまま。

さて、眠ろうかシャワーくらいは浴びようかと考えるがーー

(寝よ……もーだめだ疲れた)

一緒に眠る逸には、汗も流さないままで申し訳ないが。
その体を容赦なく押しのけて布団を引っ張り、肩甲骨に顔を押し付けるようにして敬吾は目を瞑った。

眠っていても高いその体温が、雨と夜風で冷えてしまった体に沁みて気持ちが良い。
大の字になっては眠れないし布団もやや足りず、外気が入ってきているが妙に安心する。
鼓動が僅かに強く打ったことで、いつの間にか浅くなっていた呼吸も深くなった。

「…………岩井」

敬吾が掠れた声で小さく呼ぶが、当然逸は起きなかった。
澄ませた耳には平和な寝息が届くばかりで、敬吾が笑う。
そして今度こそ、張り切って眠ることにした。







ーー逸が繰り広げるありとあらゆる妄想の中に、寝坊している敬吾を起こすというものがある。

優しく肩を揺すってやって、眠たげな顔を眺め、「おはようのキスは?」などとねだられて苦笑しながら応えーー

ーーられるわけがない。もちろん。

敬吾がそんな甘ったるいことを言うはずがないのは無論、そんなことを言われて苦笑する余裕など無いのも言わずもがな、そもそも朝に弱いのは己なのだ。
敬吾が取り立てて早起きなわけではないのだが、大体は逸のほうが乱暴に起こされている。

のだが。

(ーーーー夢?)

今さっき目覚めた逸の目の前には敬吾の寝顔があった。
敬吾は今実家にいるはずなのだから、やはり夢か。
そう思って遠慮なく頬に触れると感触がやたら生々しく、逸はびくりと手を引いた。

「…………本物!!!?」
「ぁ………?」

掠れた逸の叫びに敬吾が目を覚ます。
逸が自然と起きるほどだから日はもう昇っていて、その目はすぐに眩しげに細められた。

「んんー……」
「敬……敬吾さん……?」
「んー……」
「えっ、……えっ?帰ってきてたんですか、」
「んん……………」

敬吾の意識はまだ覚醒せず、わしわしと髪を掻き回しながら枕に顔をこすりつけている。
逸は当惑しながらそれを見つめていた。

ぐっと猫のように敬吾の体が伸びて、埋まっていた顔が半分ほど逸の方を見る。

「………はよう」
「おはようございます………」

逸がぽかんと挨拶を返すと、枕に埋もれたままの敬吾が微苦笑する。
逸がぎくりと身を固めている間に敬吾はゆるゆると起き上がっていた。

「ぁーーー………、寝たー」
「敬吾さん……、いつの間に」
「ゆーべ……。なんでお前ここで寝てんだよ」
「あ、や……寂しすぎてつい……」
「ははっ」

敬吾に笑われて逸が赤面する。
その純朴な逸の顔を、敬吾が横目で舐めるように見据えた。

「お帰りもねーのか、忠犬」

逸が弾かれたように背筋を伸ばし、その顔が溶け落ちそうに緩んだ。今にも泣き出しそうなほど。

「………お帰りなさいぃーー……」
「んー。ただいま」

大きな図体をして縋るように抱きついてくる逸を、敬吾は宥めるように抱き返した。
ぽんぽんと背中を叩いてやっているうち強くなる腕の力に、敬吾は息を呑む。
そのまま唇を合わせられ、敬吾が苦しげに逸の背中を掴んだ。

激しくなっていく呼吸が苦しい。
それを落ち着かせる間もなくまたきつく抱きすくめられ、敬吾は文字通り息も絶え絶えに逸の肩に押し付けられた鼻と口を脱出させた。

「敬吾さん…………っ」
「ーーーーーー」

その声があまりにも切なかった。
敬吾とて会いたくないと思っていたわけでは決してないが、ーーそれほどまでにかと。
なんだか愛しく、可哀想になって敬吾が逸の頭を撫でてやる。

しばしそのまま、図体ばかり大きい子犬のようで可愛らしいと敬吾は思っていた。本当に。
だがやはりと言うべきか、徐々に始祖帰りし始めた逸の手が敬吾の素肌を探り始めた。敬吾が眉をひそめる。

「…………こら」
「……………」
「無視すんな。やめろって……今からはダメだ」

きっちり釘を刺され、それでも名残惜しく引くことも押し通ることも出来ず、逸は敬吾の首すじにつけたままの唇を僅かに開いた。

「駄目ですか……?」
「………、駄目だ、午後から講義あんだよ、シャワー浴びてから出たいし」

つまるところ時間がない。
こんなにも濃く発情っ気を発散させている逸に今手早くしろといったところで我を忘れないわけがない。

それを自分でも分かっていて、しかしやはり離れ難く敬吾を放せない。
それをまた敬吾も分かっていた。

「……岩井。いい子だから」
「………………」

きゅっとむずかるような顔をして、それでも逸は動けなかった。
頭では敬吾の言うことを分かっている。
分かっているし、腕を解こうともしているのだが金縛りにでもかかったように動けない。
ただただその場で、右にも左にも上にも下にも動かないまま、筋肉が緩急だけを繰り返す。
理性と本能の綱引きのように。

その逸の葛藤がじりじりと伝わってくるようで、敬吾が危うげに目を細めた。
逸の呼吸が早まっている気がして、また剣呑だ。

「岩……」
「ーーごめんなさい、もう少しだけ」

敬吾がぐっと言葉を飲む。
その首すじを僅かに食んで、逸が更にきつく敬吾を引き寄せた。
敬吾は食われているような気分になる。

逸も概ね同じような気持ちだった。
このまま押し倒してしまいたいのはもちろんなのだが、ここ最近の敬吾不足はもっと深刻だった。
抱けないどころか、触れられない、話せない、見ることも出来ない。
そこへ本体が急に現れては、こうして触れているだけでも幾らか腹が膨れるような気すらする。

自分の限界を見誤らないよう鎖骨に舌を這わせる。
敬吾が小さく呼吸を詰め、そして漏らした。
その音からも滋養を拾うように耳を澄ましながら、そのまま強く吸い上げる。

ーーこの辺だろうか。

そう思った時、敬吾が逸の肩を押す。
その手は弱々しかった。

「ーー岩井、」
「はい……」

従順だが名残惜しそうに逸が顔を上げる。
敬吾の頬が上気していて、何も考えず引き寄せられるようにくちづけた。

「っ……………」

今度は強く肩を押され、またも素直に逸は従った。
泣き出しそうになっている敬吾の顔を両手で包み名前を呼ぶと、しばらくして絞り出された声も泣き声のようだった。

「っ、だめだ、ひっこみつかなくなる、だろ」
「………………」

つかなくなってくれればいいのに…………。

心底そう思いながら逸は僅かに距離を取る。
だがやはり、体に生気のようなものが戻った気がする。
もちろんもっと触れていたいけれども一日くらいはどうにか我慢できそうだ。

「……敬吾さん、学校の後は?」
「ぅ、店にちょっと……かおだす、シフトもきめないと」
「うん……、その後は?」
「帰って……くるけど……」

困ってしまっているような表情が可愛らしくて、逸はまたその頬に耳にとくちづけた。

「夕飯、何が良いですか?」
「っ、なんでもいい……あの、ありがとな、作りおきとか……」
「いえ……」

平静を保とうとする様子がまた可愛らしい。
どうしてこんなに緊張しているのだろう、人見知りの幼子のようだ。
逸には少し余裕が出来て、笑ってしまう。

「豪華なの作っときますね。俺今日早いんで」
「ん、うん」
「その後は?」
「へ、」
「ごはんの後は?俺、良い子にして待ってましたよ」
「うんーー っあ、っ……!」

胸の先を擽られ、思わず声を零した敬吾が音を上げた。

「わ、かったわかったっ、よ、夜な!遊んでやるから待ってろって……!」
「んん」

曖昧に頷き、分かっているのか疑わしい様子で逸が敬吾のうなじをつかまえる。
ゆったりと唇を食まれ、所在なさげに敬吾も瞳を閉じた。
危うい激しさのようなものはなく、温かいが鼓動の早まるそれに浸ってしまいたい気持ちもあるが、そうも行かない。

冬にこたつから出なければいけないような心持ちで敬吾が覚悟を決めると、時を同じくして逸が柔らかくそれを切り上げた。
その優等生ぶりと自分から腰を上げずに済んだ脱力で敬吾が小さく瞬く。

「んんーーーーー…………!」

さっきまでのしっとりとした雰囲気はどこへやら、伸びでもするように唸りながら逸ががばりと抱きついた。

「はー、もう……もー………」
「………………」
「…………ダメだな、切りないですね。ご飯にしましょーか、時間すごい半端だけど」
「ん……」
「んじゃ、作っとくので敬吾さんシャワーどうぞ」

言いながら敬吾から離れ、その頭をやや乱暴に撫でながら逸が言う。
そして、思い切るようにベッドから降りた。
その後ろ姿が妙に哀愁漂っていて敬吾が違う話題を探す。

「……あ、作んなくてもあるものでいいぞ。俺も実家から色々持たされてきたし」
「え!敬吾さんのお母さん作ってことですか?」
「え?うん」
「俺もそれ食べていいんですか?」
「そりゃそうだろ」
「えーーやったーー!」

随分と嬉しそうな逸を不思議に思いつつ、まだうきうきしている逸をよそに敬吾はシャワーを浴びた。

そして、戻ってきた時には逸がなぜか萎れていた。

「……え、なに、オバケでも出たか」
「いえ……、……あーやっぱダメだな」
「?」

わしわしと髪を拭いている敬吾をちらりと見て逸がため息をつく。

「俺……自分の部屋で食いますね。敬吾さんのは温めてありますんで……お母さん作のやつ、半分もらっていいですか」
「いいけど、ほんとどうした、具合悪いのか?」
「いえ、目に毒なだけです」
「?」

なにやらもじもじと引っ込み思案然として敬吾の方を見ず、話も要領を得ない逸を敬吾はただ怪訝げに眺めていた。
自分が妙にたくさん瞬きをしていると気付いた頃、逸が意を決したように続ける。

「手ぇ出ちゃいそうなので」
「……………。」
「あっ、夕飯俺の部屋に来て下さいね、今日オーブン使うので………」
「分かった分かった」

中学生のように赤くなって取り繕う逸を面白おかしい気持ちで見つめ、その忠犬ぶりに、後で褒めてやらねばと思いつつ敬吾は逸を見送った。

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