こっち向いてください

もなか

文字の大きさ
上 下
30 / 345

来し方2

しおりを挟む




『俺もう無理ですーーーーー……!』
「お、おう……」

岩居家の廊下で。
壁にもたれたまま、敬吾は逸の悲痛な嘆きを聞いていた。

『もぉ、なんかもぉ禁断症状みたいなの出ちゃって』
「んー」
『昨夜とかすごいえろい夢見ちゃって、』
「あ?」
『もうなんか凄くて敬吾さん騎乗位でガンガンこしふってアンアンゆってて』
「っだーーーーうるせえっ音外に漏れるだろうがっ黙れっ!」

何故人の夢で赤面せねばならないのだと敬吾は空いた手でぺたりと顔を覆う。

『もう、もーどーしたらいいんですか俺ぇ』
「いや俺だって帰りてーんだよ、」

帰宅が延びれば延びるだけ、状況は悪くなってしまうーー主に逸の欲求不満事情に関してだが。

十中八九こうなるだろうと分かっていて、それでも敬吾が葬式後三日も帰れなかったのには当然訳がある。
至極不本意な訳ではあるが。

『……けーごさん帰ってきたら……いっぱいちゅーしていーですか……』
「はは、いーよ」
『えっちもいっぱい……』
「いっぱいはちょっと」
『お風呂いっしょに……』
「それはヤダ」

敬吾はのどかに笑っていた。
いかんせん、頭の中には逸の顔ではなく寂しくて拗ねてクンクン鳴いている子犬が浮かんでしまっている。

それ故、右手に迫る人影に気づいていなかった。

「彼女ぉ………?」
「うぉお!!!!?」
『!!?敬っーーーー』

反射的に通話を切り、敬吾はロザリオよろしく端末を胸に握りしめた。

「っび、びびった……………」
「いーわねーー楽しそうで……………」

どんよりと姉の桜に呟かれ、やっと落ち着きを取り戻して敬吾は携帯の電源を落とす。

「いつからいたんだよ……」
「はは、いーよキリッ!のあたりから」
「あーそう……河野さんは?」

その名前を出した途端。
五歳児もかくやという勢いで桜は頬を膨らまし、ぷいっと顔を背けた。
そしてそのままさっさと歩いていく。

「オイオイ」

敬吾の全身全霊の引き留めも虚しく、桜は階段を上がって行った。
それを見送ると、特大のため息をつく。
そして、あれをなんとかしない限り帰れないのだとーー

ーー敬吾は泣きたい気持ちになった。



敬吾がリビングに入ると、両親はのんきにオセロをしていた。
そしてその傍らに桜の婚約者である河野が、恰幅の良い体を肩身狭そうに縮めてちんまりと座っている。

「あれ、河野さん」
「敬吾くん。お邪魔してます」
「いえいえ……つーか、なにこれ……河野さん暇だろ」

盤から目を離さないままに、対戦中の二人が交互に口を開いた。

「桜、どうだ?」
「敬吾が帰ってくると甘えん坊になっちゃってもーダメよねー、手ぇつけらんない」
「なら俺がいなくなれば元に戻るってことだろ」
「そういうことじゃないよ」
「お願いだから落ち着かせてから帰って」
「……………」

敬吾が疲れ切ったため息をつく。
どうも話が通じない両親を諦め、河野の正面へと腰を下ろした。

「今度は何にへそ曲げてんですか?あれ」
「いや全然心当たりがないんだよね……マリッジブルーかなあと思うんだけど」
「そんな繊細なもんになるタマでもないのにね」

苦々しくもどこか幸せそうに笑う河野に、敬吾は心底疑問に思う。
このよくよく人の良い森のくまさんのような男性、よくあの姉に耐えているものだ。
この表情を見ていると耐えているどころの話ではなさそうなのがまた奇天烈。

と思ったところで、なぜか逸の顔がふと目の裏に過った。
ーーあの男も、よく耐えている。
姉とは方向性が違うとはいえ自分も曲者のはずだし手も足もよく出る。

……帰ったら、そしてあちらが一段落して、まだこの気持ちが残っていたら少しは労ってやろう。
そう思う。

「にしてもほんとにマリッジブルーだったら、それこそ治しようもないんじゃないですかねー、姉貴じゃなくたって厄介なやつじゃないですか」
「だよね。ほんっとダメだなー俺、敬吾くんごめんね、ほんとは忙しいだろう」

ああ、分かってくれるのはこの人だけだ。
未来の兄の気遣いにほろりと表情を崩して敬吾はそれを受けた。

「いや、ちょうど課題も一段落したとこだったんで。それにやっぱ実家楽ですね」

でしょう!と母がやはり盤を見たまま言うものの、考えてみれば最近食事は大体逸が作ってくれている。

ーーさほど変わりはないかもしれない……。

「あ!そういえばお姉ちゃんご飯食べてない」
「え」
「敬吾持ってってー」
「えぇ……………」

両親は、勇者を見る目で敬吾を見つめていた。

食事の載った盆を片手に、敬吾が桜の部屋のドアを叩く。
案の定と言おうか返事はなく、苛立ちを顕にもう一度、敬吾がノックする。

「おーい、飯っ」
「……………おとーさん?」
「なんでだ」

更に腹立たしく、半ば殴るようにもう一度叩くとやっとドアが開いた。
自分の声はそんなに老けているのかと少々傷つきながら、敬吾が部屋に踏み入る。
平素よりは若干散らかっているあたり、桜の精神状態を表しているような気がする。

「……ありがとー」
「ん」

一応礼は言えるらしい。
桜が味噌汁をひとくち飲んだところで敬吾は口を開いた。

「河野さん来てたぞ」
「!なんでっ」
「なんでって。心配してるんだろ」
「追い返してよ!」
「なんでだよ」

豹変する桜の表情に、敬吾は内心ため息をつく。

「何をそんなへそ曲げてんだよ。いい加減にしろっつーの、俺だってそろそろ帰りてえんだけど」
「帰ればいいじゃん、誰がいてくれって頼んだのよ!」
「父さんと母さんだよ!姉貴が誰にも何も言わねーでいるから俺を引き留めてんだろ、子供じゃねーんだから不満があるなら言えっつーの!」
「はあーー!!?誰が子供よ!!」
「子供だろうが!すぐ拗ねやがってどうしてもらいてえんだよ!!?」


「や、やりあってるやりあってる………」
「桜のテンションに付いていけるの敬吾だけなんだよなあ……」
「それでいて論点を見失わない辺りが凄いですよね、敬吾くん……」

階段下から雪だるまよろしく顔を並べて、その他大勢と成り下がった三人は小さく漏れ聞こえる応酬に耳を澄ませていた。

「いつまでもそうやって姉貴の機嫌が直るまで河野さんに我慢させとく気か?気の毒にも程があるわ!」
「うっ、うるさい!!!」
「俺だったらとっっっくに別れてるぞ」
「あんたと付き合ってるわけじゃないもん!」
「河野さんがそうなんない保証あんのか!傍から見てたらもう限界だわ!」
「ーーーーー」

ぐ、と桜が押し黙る。
般若のような表情から一転、子供のようにあどけなく泣き出しそうな顔になり、敬吾も一瞬躊躇うが。
甘やかすところではないと、むしろ気合を入れ直した。

「これで河野さんに愛想尽かされてみろ、他に誰か結婚してくれる人いんのか?絶っ対いないと思うぞ!」
「いるよ!いるけどしないっマサ以外と結婚なんか!!」
「ーーーーー」

桜がぼろりと大きな涙を零す。
きめ細かい肌の上を、雫は跡も残さずにこぼれ落ちていった。
その予想外の美しさに桜の言葉が相まって、敬吾は言葉を飲む。
じゃじゃ馬の王様のようなこの姉が、女だったというか女性だったのだと、初めて知ったような気分だった。
これからどう話をしたら良いのか、一瞬分からなくなる。

その間、桜は本格的にしゃくり上げてしまっていた。
メイクは溶け始め、やはりじゃじゃ馬でもある桜が顔を擦るせいでその泣き顔はもはや美しくないどころかホラーじみていている。

「……いやいや、じゃあなんで」

絞り出すように敬吾がそう言うと、自分の涙に腹を立てたように桜は意地で呼吸を落ち着かせ、敬吾を見た。

「……………っ、分かってるよ、マサに愛想尽かされるかもとかっ、あたしだって思ってるもん!」
「…………………」

そう言われるとどう返して良いのか分からず、敬吾はただまた俯いてしまった桜のつむじを見ていた。

「……………マサ怒ってたでしょ」
「え、全然」
「嘘つきー!」
「なんでだよ、つーかそれやめろや期待した答えじゃないと腹立てんの!こじれるだろうが」
「……………」
「怒ってねえよ河野さんは、でも困ってたぞ。それが俺は腹立つんだよ、なんであんないい人困らせといて平気なんだよ。しかも自分でも怒らせたかもって思ってんじゃねーか」
「……………うう」

俯いたまま桜が唸る。
敬吾はため息をついたが、ほとんどが安堵から来る吐息だった。

「河野さんは優しいからそういうとこが好きとか言ってくれるかもしんないけどなー、それにあぐらかくのは問題が違うと思うぞ!姉貴のことだから『それで良いって言ったじゃん!』とか言うんだからどーせ」
「ううううるさいー!」
「図星つかれると怒んのもやめろっつーの!」

がばりと顔を上げた桜がまたきゅっと固まる。
ああ猛獣がやっと人間に戻ったと敬吾は思った。

「ちゃんと河野さんに謝れよ。俺は帰る」

桜のためのはずの緑茶を一気に飲み干して、そのコップは置いたまま敬吾は部屋を出た。
今は何時だろう、終電はあっただろうか。
考えながら自室のドアを引くと、控えめに呼び止められる。

「敬吾ー」
「え、なに」
「……………ありがとー」
「…………………」

敬吾が返事をする前に、なんとなれば振り返る前に桜はもう部屋に引っ込んでしまっていた。

流石に笑ってしまいながら、敬吾は急いで荷物をまとめた。


しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

一年後に死ぬ予定の悪役令嬢は、呪われた皇太子と番になる

恋愛 / 完結 24h.ポイント:418pt お気に入り:935

ランプの魔女と石腕の海賊

ファンタジー / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:6

SLAVE 屋敷の奥で〜百回いくまで逃げられない〜🔞

BL / 連載中 24h.ポイント:575pt お気に入り:616

私の番はこの世界で醜いと言われる人だった

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:78pt お気に入り:629

ただ、好きなことをしたいだけ

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:1,917pt お気に入り:62

俺様幼馴染の溺愛包囲網

恋愛 / 完結 24h.ポイント:78pt お気に入り:495

悪役令息は犬猿の仲の騎士団長に溺愛される。

BL / 連載中 24h.ポイント:305pt お気に入り:628

転生腹黒貴族の推し活

BL / 連載中 24h.ポイント:1,412pt お気に入り:831

妻が愛人をさらったので逮捕しろ、と貴族に命じられた警部です。

ファンタジー / 完結 24h.ポイント:42pt お気に入り:483

処理中です...