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来し方
しおりを挟むーー悪いけど、しばらく時間ない。
その言葉を聞いたのはもう何日前のことだったか…………。
ただただ黙々とキャベツを刻みながら、逸は考えていた。
ここのところ敬吾に会っていない。
課題の締め切りが迫っているだとかで、追い込みを掛けると宣言されてしまったのだ。
それだからバイトの方もシフトはやや少なめになっており、敬吾ほどとは行かないまでもある程度頼られるスタッフと成長した逸がその分多めに出勤する形である。
バイト先で数十分シフトが重なることを会っているというのなら昨日も会ったことになるが、そうではなく。
(さわりたい……………)
それでもやはり敬吾の本分は優先して然るべきだし、自分がいるだけでも邪魔になってしまうのではと逸は従順に我慢を重ねていた。
敬吾本人もそう思うからわざわざああして宣言したのだろう。
だが、数日前、バランス食だなんだと言われているもさついたものをかじっている敬吾を見て食事だけでもと部屋を訪ね、結局「よし」の声も聞かずに致してしまい、翌日早朝からまた分厚い本を開いて逸を叱るでもない敬吾を見て、なんの理由であれ一切接触するべきではないと自分を戒めたばかりだった。
一切というのは頑なに過ぎるかもしれないが、そこは自分である、ほどほどのところで切り上げられるような出来た人間ではない。
(嗅ぎたい……………)
何か無心で作業していれば考え事もしなくて済むかと餃子づくりを始めたものの、効果のほどはいまひとつであった。
単調な作業をこなしながらも敬吾のことばかり考えている。
店でのことを思い返すに始まり、営業スマイルでも幸や篠崎に見せるさばけた笑顔でもない、恐らく自分だけが知る笑顔や穏やかな表情。
それから、ここしばらくは見られていない甘やかな顔、声、手触りーー
ーーああ、駄目だ。
無理に頭を振って、どうにかその中を空にする。
(やっぱ焼いてから置きに行くか……敬吾さん焼けなさそう)
ひとつため息をつき、気を取り直して餡を包み始める。
焼いて届ける分、自分で食べる分、冷凍する分。
敬吾の部屋の冷凍庫に置いておけば、食事が面倒な時に焼いて食べられるだろう。
スープにそのまま落として水餃子にも出来ますよ、と連絡しておこう。
「オカンだな!」
自らにつっこみを入れつつ、敬吾が帰ってくる前にやってしまわねば、と改めて逸は気合を入れた。
「岩井さ、明日バイトの後なんか予定ある?」
シフト表を見ながらペンを回し、ぼんやりと尋ねる敬吾を逸はこれでもかと目を見開いて注視した。
「え、ないです!」
そうして、「じゃあ外でご飯でも食べようか」とか「うちに来れば」とか言う甘い言葉を期待した自分を心底呪った。
「あ、良かった……。俺実家の方で不幸あったらしくてさ、行かなきゃなんなくなって」
「え、」
「悪いんだけど少しシフト伸ばしてもいいーーあ、さっちゃんおはよ、ごめん俺さーー」
出勤してきた幸の方へと歩いて行く敬吾をぼんやりと眺めながら、逸はぐるぐると考えていた。
確か、今日だか明日だかが課題の締め切りだとか言っていなかったか。
幸もシフトの変更を快く承諾してくれ、ふたり揃ってまた逸とシフト表の方へと戻ってくる。
何事か言葉を交わした後、幸は早く着き過ぎたと言って時間を潰しに出かけ、敬吾が修正テープを使い始めた辺りで、逸の魂が持ち主の元へと返ってきた。
「えぇっと………、敬吾さん、課題はだいじょぶ、なんですか?」
「ん?うん、めど立ったから、今日でかた付けて明日提出だけしに行ったらそのまま実家だな」
「わぁ……」
プログラムされた言葉だけを喋るおもちゃのように言った後、取ってつけたように逸が大変ですねと続ける。
逸としては懸命に取り繕ったつもりだったが、敬吾は疲れたように小さく息を逃し、逸の頭を軽く叩いた。
「悪いな。まあそんな近い人でもないから……とりあえず線香あげに行って、葬式は……もし日が開くようなら帰ってくるわ。できればだけど」
「ーーあ!すみません……」
人が亡くなっていたのだ、と逸はそこでやっと認識した。
敬吾が帰省してしまうということしか考えていなかった。
なんという配慮の無さだろうかと少し落ち込む。
それが手に取るように伝わってきて敬吾は笑った。
つくづく素直なーー本当に、嬉しければ走り回って、しょげればしっぽを下げる犬そのものだ。
さっき叩いた手が、今度は軽く頭を撫でる。そして、小さなため息。
「いや……ほんとに悪いと思ってんだぞ、ほっといたの」
「ーーーーーー」
「ごめん」
逸が放心している間に手は離れ、敬吾もまた背を向けてしまっていた。
幸が帰ってきている。
「なんか新発売のグミあったから買っちゃいましたー。敬吾さん一個どうぞー」
「お、ありがと」
「はい、逸くんも」
「ーーあ、ありがと……」
「さて、じゃあ俺先に上がるわ、すいませんが何日かお願いします」
「了解でっす、敬吾さん少しゆっくり休んできたほうがいいですよー」
「はは、ありがと」
「お疲れ様でした……」
「お疲れ」
そして敬吾は帰ってしまった。
ぱたぱたと手を振る幸と、今度は違う意味でまた放心している逸が並んでそれを見送る。
「……………さっちゃん余計なこと言わないでよぉ……」
「…………へ?……ああ!ごめんごめん、でも敬吾さんがほんとにゆっくりするわけないよぉ」
「そうだけどさ………ただでさえ俺最近……」
「ん?相手してもらえてなかったの?そういえば課題がどうとか言ってたっけー」
記憶をたどりながらけろりと言っている幸の傍らで逸はがっくりと項垂れた、あるいは頷いた。
「……ほんっとに逸くんて敬吾さんに構ってもらえてないとダメだねえ」
「うん……」
「まあでもバイトは頑張ってね~、仕事溜めといたら敬吾さんに怒られるよー」
「うぅ……やる気でない~……」
「それはそれであたしが普通に怒るから」
バイト中は幸に尻を叩かれ叩かれ、家路についてからは敬吾を訪ねたい気持ちを締め付け締め付け、逸はどうにかこうにかその日を乗り越えた。
ーーそして、逸の嫌な予感は的中してしまった。
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