こっち向いてください

もなか

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まるくあたたかく

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ーーああ、疲れた……


電車のシートに座り込んで、胸中に呟く。

少し前までならば、こんな時は。
外で軽く食べてから帰ったらすぐに寝ようかとか、たまには湯船にでも浸かろうかとか考えたものだったがーー

閉じた瞼の裏に浮かんだのは、大型犬のような優しい瞳の男だった。





先日渡された合鍵をキーケースから取り出す。
自分が渡したのと同じ日に、にこにこと嬉しげに差し出されたものだった。
その表情を思い返しただけで既に肩から力が抜ける。

あの男は何というかーー良く言えば癒やし上手、悪く言えば締りがない。

形状が同じなだけに自分のものと見分けづらいその鍵を差し込もうとするも、やはりと言おうかそれは自分の部屋の鍵だった。
舌打ちするほどのエネルギーもなく、溜息だけついて改めて鍵を差し込む。
やはり疲れているらしい、こんな簡単なミスを犯すと顕著に感じてしまう。

小さく訪いを立てながらドアを開けるも、返事がない。
半分踏み込んだ足を無理に止めてしまったせいで少々よろめきながら、もう少しはっきりと呼びかけてみた。

ーーいないらしい。

またも大きくため息をつく。
部屋に着くまではと押し戻していた疲れが、どっと雪崩れてしまった感じだ。
これは予定通りに行かなかったという苛立ちだろうか、それとも落胆、だろうかーー
ぼんやりと考えながら鍵を掛け直し、自分の部屋へと向かう。
さて、それではどうしようかと考えながら。
白米、麺類、パン、なんでもいい。あればそれに納豆でも卵でも添えて腹に入れてしまおう。そして眠りたい。

先ほどまでとは真逆、とことん自堕落にこの疲れを癒やそうと方向転換しながら自室のドアを開けた。
ーーテレビの音がする。

「……?」
「あ、お帰りなさい!」
「…………ぃ?」

喉が枯れていて声が出なかった。
ついさっき訪ねていった男が、自分の部屋にいる。

「……れ?来てたのか」
「あっ、そーだメールするの忘れてました、すみません」

毎度毎度律儀に前置きしてから合鍵を使うくせに、今日に限ってそれを忘れたらしい。
また一段と項垂れて敬吾はとりあえず頷いておいた。

「……知らなかったから、お前んち行っちゃった今」
「えっ」

敬吾が、自室より先に自分の部屋を訪ねた?
いたく衝撃を受けたものの、それよりも敬吾の様子が気になった。どう見ても消耗している。

「ーー敬吾さん大丈夫ですか?熱?」
「ゃ……、疲れただけ」

逸は何も言わず気遣わしげに敬吾を見つめた。
敬吾が靴を脱ぎ部屋に上がったところで、即座に額と頬、首すじに手のひらを添わせる。

「熱はないですねっていうかむしろ下がってますね、なんだろ」
「……………」

逸の言うとおり冷えているらしい体に、その体温がじんわりと沁みる。

「あったかいお茶淹れます、敬吾さん座ってて………っお、」

離れていく逸の手を、敬吾は反射的に掴んだ。
驚いたらしい逸の顔をぼんやりと見ながらその熱源に近づく。
半ば転げるように逸に抱きつくと、なんだか呼吸が楽になったような気がした。

ゆっくり深呼吸するうちに逸の腕が背中に回る。暖かい。

「……敬吾さん、髪も冷たい」
「んー……」

頭を撫でられるのも心地良い。
ひと呼吸ごとに体に熱が回るようで、少し体が軽くなった。
やっと体を動かすのが苦でなくなり、そっと逸から離れる。

「ぁー……、ごめん。もー大丈夫」
「なんでごめんですかねー」

笑って、逸は両手で敬吾の頬を包んだ。
少々恥ずかしげだが拒絶はされない。
我ながら調子に乗ってその額にキスをしてみた。

「んな」
「あはは、座っててくださいねー、すぐお茶淹れます」

赤くなった敬吾をソファへ押しやりながら逸は紅茶を入れた。
何かカフェインが入っていない飲み物を探してみようと思いながら。




逸の淹れたミルクティーを飲みながら敬吾はマグカップで暖を取っていた。
やはりなんとなく体が冷えている気がする。
疲れただけではなく、風邪でも引いたのだろうか。
逸も同じように思ったのかまたも額に触れてみたりなどしている。

「夕飯どうします?がっつり行けそうですか、それとも軽いほうがいい?」
「んー……」

逸に言われて、敬吾は平素よりも大分のろのろと考えを巡らした。

「えーっと……なんか、わかんない。悪い、先に少し寝る」
「俺は全然いいですけどーー大丈夫ですか?本格的に具合悪いんじゃ」
「や、ほんとだるいだけ、先に食ってて」

ソファから大儀そうに立ち上がる敬吾を見やりながら、逸はしばらく応えなかった。
敬吾の顔色は悪く、眉も苦しげに顰められていて、関節の動きは悪い。
可哀想で、心配でそれ以外のことに神経が向かわない。

「ーー今日、鍋にしましょうか。敬吾さん起きたら、気分でキムチ系にも塩系にもできるようにしておきます」

本当に、優しい男だ。
さすがに笑ってしまいながら頷いて、敬吾は逸の頭を撫でる。

「うん。よろしく……」
「着替えできますか?」
「さすがにそれはできる」

そう言って敬吾は寝室にしている小部屋の引き戸を閉めた。
それを見送ってから、逸は静かに鍋の準備にかかる。
味付けはともかく、野菜類は先に柔らかく煮てしまって胃に優しいようにしておこう。
重いもので力を付けたいと言われたらその時肉でもにんにくでも入れれば良い。

ーーそんなことをしていると、数ヶ月前のことを思い出した。
以前にもこうして、体調を崩した敬吾のためにここで病人食を作ったものだった。
くすぐったい気持ちになって少し微笑み、煮立った土鍋に蓋をして火を消した。
敬吾は眠れただろうか。

そっと引き戸を開けると、様子見に近づくまでもなく敬吾がベッドの中で僅かに体を起こした。明らかに起きている。

「うわっ……すみません、起こしちゃいましたか」
「いや、起きてた。寝れねー……」
「寝れない……」

苦しげに顔を擦っている敬吾の傍らに腰を下ろす。
焦点は少々危うげで唇も緩く、見ている分には確かに眠そうなのだが。

「神経が立ってるんですかね」
「かもな……」

弟や妹がぐずった時よくしてやったように、逸は敬吾の髪を撫で、腕を回して背中を叩いた。
掛け布団も優しく体に添わせてやる。
敬吾は少々赤くなる。

「……ふふ」
「んん……?」
「や、前もここで敬吾さんのこと看病したなーって、思い出しちゃって」
「ああ……」

逸は嬉しげに笑うが、敬吾は少々気重そうに逸を見上げた。

「世話かけてばっかだな」
「えっ!?いや全然そんなことないすよ、好きでやってます」
「んーまあでも……」
「もし付き合えてなかったらあれが俺の一生の思い出になってましたからね、それがないのは困ります」
「…………そーかい」
「はい」

逸の手はまた戻ってきて敬吾の頭を撫でている。
もしかしたらこの男、あの時もこうして撫でていたのではないだろうか。
その頃の自分はほとんど気を失うように眠っていたから、そうされていたとて気付く由もない。

なんとなし、懐かしいようなくすぐったいような気持ちになった。

一人暮らしは性に合っているが、体調がすぐれない時誰かがいてくれるというのは心強いものだと、あのとき身にしみたのだったーー。

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