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ーー敬吾が目を覚ました時傍らに逸はいなかった。

珍しいことに先に起き出していたらしく、台所から音がする。
数分だけうとうとと微睡んでから諦めて起き上がると、敬吾の股関節が豪快にごきんと鳴った。

「うおぉ!?」
「敬吾さん!?どうかしました!?」

その音に驚いた敬吾の声に驚いた逸がお玉を持ったまま駆け込んでくる。
その様があまりに滑稽で敬吾がひとしきり笑い転げてしまってから、やっと話は再開する。
その頃には逸は真っ赤だった。

「や……、いやーーなんでもない、足の付け根からすんげー音した……あー、笑った」
「そんな爆笑してるとこ初めて見ましたよ……」
「ここ三年くらいで一番面白かった」
「……光栄なんすかね……。痛くはないですか?」
「んー、すっきりしたから首が鳴るみたいなもんなんじゃね」

安心したように頷いて、逸はシャワーを勧めた。
だるそうだが素直にそれに従った敬吾がまた叫んだのは数分後。
知らずに聞けば猫の喧嘩でも始まったかと思うような、言葉にならない驚愕の雄叫び。

「敬吾さん!?今度はどぅっ……」

逸が風呂場のドアに近寄るなり、それが勢い良く開いて額が割れそうなほどぶつかった。
もんどり打って痛がる逸を、仁王立ちの敬吾が見下ろす。
その表情もまた仁王如来そのものである。

「お前っ、お前っ……!!!」
「え?えっ?」

痛みと一糸纏わぬ敬吾とに困惑しながら逸は半泣きでそれを見上げた。
堂々と立ちはだかっているくせに真っ赤な顔は、そのせいではなさそうだった。

「ご、ゴムつけなかったのか!昨日っ……」

急に蚊の飛ぶような声になって、敬吾は泣き出しそうな顔で言った。
ぽかりと口を開け、逸は考える。やたらと長い、数秒間。

「……えええええ!ごっごめごめんなさい!俺全部出したと思っ…………」
「はあ!?どういう意味だそれっ!!」
「すみませっ……いや、外に出すつもりだったんですほんとは!ほんとに!でっでもなんかすごくても、間に合わなくて」
「全部出したと思った、ってなんだよ!!?」

半ば分かっていて、その通りなら聞きたくないが、堪え切れずに敬吾は重ねて問い詰めた。
逸が自分の膝に顔を埋める。

「け、敬吾さん寝ちゃったあとに……、あのー中をこう……」
「黙れ」
「はい」

理不尽にも命じられて素直に従い、逸は敬吾が風呂場に戻る音を聞いた。
そしてその後もう一度戻ってきた敬吾から、後頭部に一撃貰った。

その後は敬吾も落ち着いてーーかどうかは不明だがーーシャワーを浴びたらしい。

逸はご機嫌伺いに朝食のおかずを増やす。
祖母がくれた肉味噌があって良かったと心から思った。

(やっちまった………)

シンクの縁に手を突いて、もう片手で逸はパンと自分の顔を叩いた。
そこで力尽きてしまって、顔の半分を隠したまま停止する。

ーー残っていたか。全部掻き出したと思っていたのだが……。
そうしたのは、失敗を隠そうとしたわけではなく。
翌朝自分の体から精液など垂れたなら、この恋人はきっといたく気分を害するだろうと思ったからだった、ついさっきのように。

分かってはいたしそれを防ごうと思いやりもしたが、少々ショックではある。

だがそれよりもあれはーーと逸は考えた。
昨夜の敬吾のことを。

初めて向かい合わせに抱いて、自分の首にあんなにしがみつかれて。
冷静でいろと言う方が無謀だ。
敬吾が今まで押し殺していた声も呼吸も、あの距離ならば聞こえるのだと初めて知った。
もう、愛しくて愛しくて気が触れそうだった。

腹の底から突き上げられるような、凶暴なほどの興奮。独占欲。度外れた多幸感。
もはや愛情からは足を踏み外してしまったような滅茶苦茶に抱いてしまいたいという欲求を、それでもなんとか抑えつけたつもりだった。

(……絶対なんか変な脳内物質出てたよなあ)

忘れていた呼吸を久方ぶりに吐き出して、逸はやっと顔から手を離した。
味噌汁が沸いてしまっている。

コンロの火を止めて味噌汁をよそい、玉子焼き、納豆、肉味噌、漬物と食卓へ運んでいく。
およそ若い男らしくはない食事だが、敬吾が白飯党なので期待には添いたい。

そこへちょうど良く敬吾が浴室から出てくる。
そして逸の顔を見るなり噴き出した。

「えっ」
「デコがすげぇ赤い」
「あっ、ああ……」

そういえばさっきドアにぶつけたのだった。
額を撫でながらまだ笑っている敬吾を見つめる。
ーーそれほど機嫌悪そうには見えない………
が、調子に乗るのは非常に危険だ。

「敬吾さん、……大丈夫でした?」
「………はあ?」

調子に乗らずとも出方を間違えたようだった。
さきほどまでの甘い追想など吹き飛ばされてしまう。

「や、あの、ほんとすみません」
「いや謝るのも変だろなんか……」
「おお俺っとりあえず病気は持ってませんから!!」
「…………。お前はもー……」

どうやら懸命に誠意を見せているつもりらしい逸に毒気を抜かれてしまって、敬吾は呼吸を逃がした。
強くはないが優しくするつもりも別段なく逸の頭に手を乗せると、逸は滑稽なほど肩を縮めていた。

「別にそれ自体に怒ってるわけじゃねーよ、言えっつーのせめて。俺初心者なんだから」
「うう、はい……ですよね、すみません」
「んー…。」

敬吾は気難しげに目を瞑り、少々顔を傾けて首すじを撫でる。
何を言われるのかと逸は恐々としていたが、敬吾が言ったのは「腹減った」だった。



「なんかすげーな」
「せめてもの償いでございます」
「……。いただきまーす」

しばし、ふたりは黙々と朝食を食べた。
逸はばれないように時折敬吾の顔色をうかがっている。

「……お前さ」
「はいっ」

逸が驚いたようにぴんと背を伸ばし、その真摯過ぎるとも思える反応が、また敬吾の口を重くさせた。
こんなに美味しい朝食を食べながら思い悩みたくはない、と思いながらも、更に憂鬱になってしまったらどうしようと案じた危惧そのものである。

「……敬吾さん?」

なかなか口を開かない敬吾に逸の背中が緩み、首が傾げられる。
敬吾は箸を持ったまま器用に頭を掻いた。

「…………んーーーあのさ、なんか……なんつーかお前俺に気使いすぎじゃない?」
「へ?」
「恐縮してるっつーか……びびってる?っつーか……」

敬吾が探す言葉を一緒になって探すように、逸は瞬きながら考えた。
ーー気を使っている?それは当然そうだ。それがなにか、気に障ったのだろうか。

少々呆けていたからか、逸はそれを口に出してしまっていることに気付かなかった。
そして、それまで努めて穏やかにしていた敬吾が少々苛立ったように「だからそれが」と受ける。
そして、すぐさま反省したように俯いて深く息を吐き出した。

「気ぃ使ってるのがダメだったのかなって気にするって、相当だろそれ……………」

呆れたように敬吾は言うが、逸には心底不思議だった。

「えっ?はい、………えぇ??」
「なんでそこまで下手に出んの?年下だからか」
「それもあるとは思いますけど……え?なんだろ、考えたこともなかったから分かんないんですけど」
「うん。考えろ」
「えぇ」
「こっちだって気ー使うんだよ、使われると!店でなら先輩後輩だからとか分かるけど」
「あー……」

そう言われてまたも逸は考え込む。
そんなにも畏まっていただろうか。

「意識してやってたわけじゃないんであれですけど……実際俺敬吾さんのこと尊びまくっちゃってますからね、自然とそうなってたのかもです」
「尊ぶなよ………」

敬吾はぐったりと頭を落とした。
どこにでもいる大学生相手に何を言っているのだ、この男は。

「やーだって敬吾さん凄いじゃないですか、俺最初の頃敬吾さんのこと正社員の人だと思ってましたもん」
「人手不足でシフト入りまくってたからってだけだろそれ」
「いやいや、仕事もめっちゃできるじゃないですか、大体のこと敬吾さんに聞いたらわかるし」
「ただの古株だからだって………つーか、そっちはいいんだよ別に。教えられたりフォローされたりなら別にある程度下手に出んのは分かる、そーじゃなくてだなー」

敬吾が言葉を探す間、逸はまた首をかしげる。

「……こうやって変に申し訳ながるのはなんか違うだろ。なんか言ってて思ったけど、昨日言った妙に女の子みてーな扱いされんのにも通じてるわこれ」
「はい?」
「お前が俺を何だと思ってんだか知らないけど、そんな可愛いもんでもねーし、尊ばれるようなもんでもねーの。落ち着かないから必要以上に腫れ物扱いすんな」

そこまで言って、敬吾は卵焼きを取り落とした。

「え?俺腫れ物扱いされてんの?」
「してませんよ」

流れで言っただけの言い回しが妙に的を射ている気がして少々ぞっとしたけれども、ごく平坦に否定されて終わった。

「でも俺敬吾さんに付き合ってもらえたのすげー奇跡だと思ってるんですもん、調子乗ったらバチあたります」
「はー?」

心底呆れたように、敬吾はまた卵焼きを落とす。

「奇跡ってお前大袈裟な」
「大袈裟じゃないですよー、敬吾さん最初俺のこと大っ嫌いだったじゃないですか」
「んなことねーよ。使える新人ダイスキ」
「逆に冷たいっすわ」

お供え物のように、逸は敬吾のコップにお茶を注いだ。

「俺未だに忘れられませんよ、あの虫でも見るよーな目……凍るかと思いましたよ」
「そんな目してねーよ、目つき悪くてすいませんねー」
「しましたってば。俺目覚めるとこでしたもん」
「目覚めるも何もお前生粋のマゾだろ」
「えぇ!?違いますよ!!」
「違うのか?そうだと思ってた」

けろりと言い放ちながら納豆を混ぜる敬吾を、逸は幾分泣きそうな気持ちで見やっていた。

「だからですねー……敬吾さんだからなんですってば、いじめられても嬉しいのも!敬吾さんがどう思ってても多分その何十倍も好きなんですよ、そらもう蹴られたって好きだし気に食わないことはなにひとつしたくないんです」
「え、俺蹴った?」
「どこに食いついてんですか」

そして実際幾度となく蹴られた脛の痛みを思い出す逸であった。
その視界の端で、敬吾は何かしら気難しげな顔をしている。
これからわざわざ飯をまずくしてしまう気がして。

「んー……じゃお前的に、中出しは俺の気分を害することなんだ?」
「!!……ちょっと待って下さい、攻撃力が凄すぎる」
「…………。」

テーブルに肘を置いて俯いている逸はまるで怒りに震えてでもいるようだが、当然単に悶えているだけであった。
更に納豆を混ぜつつ、長閑に敬吾がそれを眺めている。

「いや……そりゃそうでしょ、俺のが垂れてきちゃうんですよ?ぶち切れじゃないですか」

更に生々しくなってしまった話に、敬吾も逸と同じ姿勢をとりたい気持ちになった。
自然、声も小さくなる。
「別に……いいよそれは。そんなもん、突っ込まれてる時点でこっちはもー大事件なんだよ。そっから派生しただけのもんくらいの衝撃度だよ」
「………そうなんですか?」
「ただそれをお前意識のない人間捕まえて証拠隠滅するとかどうなんだよ、それはぶち切れるわ」
「うう、はいすみません……でも隠そうと思ったわけじゃないんですよー!絶対嫌だろうなって思ってー!」
「裏目に出てんじゃねえか」

ぐうの音も出ない逸である。

「もう……全く……仰るとおりです………」
「つーか、なんならまだマシなくらいなんじゃねーの?普通に女の子だったら大問題だろ。それに比べたらすげーびっくりしたのとすげー恥ずかしかっただけだし。それは俺この上ないレベルで初心者なんだからしょーがねーだろ」
「ああ……そっか。俺その発想がないから」
「ああ、なるほどな。間違ってもすんなよ」
「絶対ありませんて」
「襲われるって線考えてねーな?」
「こっわい!!!」

敬吾が噴き出した。
逸も安心したように笑う。

「そもそもお前あんっだけゴリゴリに好き放題するくせに今更気に触ることしたくないとかなんとか。バカなのか」
「おっと……これは結構やらかしちゃってた感じですか?俺」

逸の笑顔が苦々しく縮みこむ。

「だって付き合う前とか凄かったじゃねーか。ああだから俺蹴ってたのか」
「んー、その頃はもう……なんつーかいわゆる失うものがない状態っつーか……今はもう、付き合ってもらえてるって負い目みたいなのと下手踏んで捨てられたくないってのが凄いですからね」
「でもそっちの方が俺からすると楽だったぞ。そこそこのうちはしっぽ振ってる犬みてーで可愛いし、やり過ぎればこっちも好きなくらいやり返せるし。気ぃ使われすぎると変に悪者になってる気がする」
「なるほど……」

一通り食べ終えて味噌汁を飲んでいる敬吾を見つめて、逸はぼんやりと考えた。

確かに、ある種卑屈になっていたのだろうか。
とは言えそうなっても仕方がないくらい、身に余る幸運だとは本当に思ってしまう。

「ーー難しいっすー……」
「あのなあ、前もだけど今も今でお前結構好き勝手してっからな。謎なんだっつーの、気の使い方が」
「えっ ………えっ?マジですか!?」
「だからとりあえず好きにやってろ、イラッとしたらやめろって言うから」
「分かりました……けど、えっ?俺そんなやっちゃってました?何を!?」
「聞くなようるせえよ」
「ええ!教えてくださいよう」
「やだ」
「えぇーー!」

ぱしん、と敬吾の箸がテーブルに張り付けられた。







「……てめーーはつい昨夜のことも忘れてんのか!!!!!!!」
「えーーーー!!????」






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