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8.夜を重ねる-3
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目的地として指定されたのは、都内に数軒だというポルトガル料理店だった。
かつて二人で見た映画を思い出す。ポルトガルの首都であるリスボンを舞台にした作品だった。渡瀬にとってはやや単調な内容だったが、芦原の方はかなり気に入って真剣になっていたはずだ。
ーーまさか、当時を示唆するつもりなど、彼の方には少しもないだろうけれど。
頭をよぎった記憶を、かき消すように、そのように思い直す。
駅から出て大通りをしばらく行った場所にその店はあった。暖かい照明に照らされた階段を下りて、地下一階にある入り口に向かう。店内に入ると、店員に迎えられ、芦原の名を告げる。
通された席は、広い店内の中でも入り口から離れた、奥まった場所にあった。
先に到着していた芦原が、ドリンクリストらしきものに目を落としている。向かいの席に座るために椅子を引くと、その音に気が付いたのか顔をあげ、表情を和らげた。
「なんか酒飲む?」
「明日も仕事だ、バカ」
口ではそう言ったけれど、脳裏をかすめたのは当然再会した夜のことだった。なし崩し的に関係が続いているとはいえ、こうした平常心を保った状態からですら、その火の中に飛び込むような真似をしてやるつもりはない。
いつものようにわざとらしく肩をすくめる芦原も、同じことを思い出しているのか、はたまた何も考えていないのか。
タバコに火をつけながら、彼の表情をこっそり観察する。やはり、何もわからない。わかるのは、相変わらず整った顔の造りをしている、ということだけだ。
あきらめて、渡瀬は店内を見渡した。あの夜に行ったスペイン料理店よりはだいぶ落ち着いた雰囲気で、客には、年配の夫婦や、ビジネスの話をしているであろう男性の集団なども見られる。
とはいえ、若い男女もちらほらとテーブルを囲んでいる。
思わず、渡瀬は呟いた。
「彼女と来る予定だったんだろ。わかりやすい」
「いや、まあ、そうね……」
どこかためらう様なそぶりを見せながら、芦原が肯定した。
「?」
別に、今更隠すことでもないだろう。渡瀬が視線でそう疑問を訴えると、彼は改めて笑顔を深めた。
「そうそう。それより、何頼む? 俺さっきからこれ気になってる」
そう言って、芦原が今度は料理のメニューを指さしていく。渡瀬もそれにならい、適当にオーダーをした。
やがて、テーブルには、前菜がいくつかと、煮込み料理、それと青魚のオーブン焼きが運ばれた。当たり障りのない会話を探すのが徐々に難しくなっていたところだったので、いささか安堵しながら、さっそくそれらの料理を口に運ぶ。
あまりなじみのない国の味だったが、刺激的というよりはどこか柔らかい口当たりがして、どれも非常に食べやすい。純粋な空腹もあいまって、渡瀬は食を進めた。
「うまい」
「だろ?」
漏れ出た感嘆の声に、芦原が満足げに頷く。彼の方は一杯だけと言って頼んだ赤ワインを、ゆっくりと口にしている。
そうして、フォークとナイフの音が、言葉少なな二人の間に響いた。
その音が、何かあやしいまじないにでもなっていたのだろうか。今日はアルコールを入れていないというのに、渡瀬は頭の奥の方から、小さなめまいのような、不思議な感覚が広がっていくのを感じた。
周囲の控えめな喧噪は、どこか遠くにいってしまい、まるで舞台上に二人だけがいる錯覚に襲われる。
視線をあげることができない。今、もし芦原と目が合ってしまったら。
予感ではなく確信だった。彼の目がはっきりとこちらに向けられていて、それはあの再会の夜と同じく、いや、それ以上の何らかの意図を持っているに違いない。
(何で、来てしまったんだろう……)
少しの興味本位を、後悔する瞬間だった。体を重ねるだけのつかの間の関係として、そつなく、そして再び終わらせる。それがあるべき姿だと考えていたはずなのに。
「いつか、謝らないとな、と思ってた」
渡瀬の動揺を待ち伏せていたかのように、芦原が口を開いた。
目を伏せたまま、渡瀬は聞いた。
「……それは、どの件?」
学生時代、ある意味乱暴な別れ方をしてしまった時のことか。
現在、この関係に引きずり込んだことか。
もしくは、その他のことか。
別に意地の悪い聞き方を心掛けたつもりはない。自分たちの関係には一筋縄ではいかない事柄が折り重なりあっていて、単純に彼が何を意味しているのか、明らかではなかったからだ。
「そうきたか……」
芦原の口から出たのは、ため息交じりの言葉だった。
しかし、思い直したように、一呼吸置くと、一言ずつをしっかりかみしめるように言う。
「学生のときのこと、が一番デカい」
まるで、自分自身に言い聞かせているかのようにも見えた。
その時になって、ようやく渡瀬は顔を上げた。そして、思わず息をのんだ。
常に余裕を持ち合わせて、とらえどころがないと感じていた芦原のまとう空気がすっかり薄らいでいた。その代わり、何かを訴えるような、真剣な表情がそこにはあった。
目をそらしてしまいたかった。けれど、その動作はあまりにわざとらしくて、自ら彼の手中に落ちに行っているように思われた。なるべく表情を変えずに堪える。ほんの一瞬が、数分にも、数十分にも及ぶような重さに感じられる。さらに早まる脈拍が、鼓膜を打った。
そして渡瀬は、精いっぱいの苦笑を作った。
「……俺は覚えてないよ」
かつて二人で見た映画を思い出す。ポルトガルの首都であるリスボンを舞台にした作品だった。渡瀬にとってはやや単調な内容だったが、芦原の方はかなり気に入って真剣になっていたはずだ。
ーーまさか、当時を示唆するつもりなど、彼の方には少しもないだろうけれど。
頭をよぎった記憶を、かき消すように、そのように思い直す。
駅から出て大通りをしばらく行った場所にその店はあった。暖かい照明に照らされた階段を下りて、地下一階にある入り口に向かう。店内に入ると、店員に迎えられ、芦原の名を告げる。
通された席は、広い店内の中でも入り口から離れた、奥まった場所にあった。
先に到着していた芦原が、ドリンクリストらしきものに目を落としている。向かいの席に座るために椅子を引くと、その音に気が付いたのか顔をあげ、表情を和らげた。
「なんか酒飲む?」
「明日も仕事だ、バカ」
口ではそう言ったけれど、脳裏をかすめたのは当然再会した夜のことだった。なし崩し的に関係が続いているとはいえ、こうした平常心を保った状態からですら、その火の中に飛び込むような真似をしてやるつもりはない。
いつものようにわざとらしく肩をすくめる芦原も、同じことを思い出しているのか、はたまた何も考えていないのか。
タバコに火をつけながら、彼の表情をこっそり観察する。やはり、何もわからない。わかるのは、相変わらず整った顔の造りをしている、ということだけだ。
あきらめて、渡瀬は店内を見渡した。あの夜に行ったスペイン料理店よりはだいぶ落ち着いた雰囲気で、客には、年配の夫婦や、ビジネスの話をしているであろう男性の集団なども見られる。
とはいえ、若い男女もちらほらとテーブルを囲んでいる。
思わず、渡瀬は呟いた。
「彼女と来る予定だったんだろ。わかりやすい」
「いや、まあ、そうね……」
どこかためらう様なそぶりを見せながら、芦原が肯定した。
「?」
別に、今更隠すことでもないだろう。渡瀬が視線でそう疑問を訴えると、彼は改めて笑顔を深めた。
「そうそう。それより、何頼む? 俺さっきからこれ気になってる」
そう言って、芦原が今度は料理のメニューを指さしていく。渡瀬もそれにならい、適当にオーダーをした。
やがて、テーブルには、前菜がいくつかと、煮込み料理、それと青魚のオーブン焼きが運ばれた。当たり障りのない会話を探すのが徐々に難しくなっていたところだったので、いささか安堵しながら、さっそくそれらの料理を口に運ぶ。
あまりなじみのない国の味だったが、刺激的というよりはどこか柔らかい口当たりがして、どれも非常に食べやすい。純粋な空腹もあいまって、渡瀬は食を進めた。
「うまい」
「だろ?」
漏れ出た感嘆の声に、芦原が満足げに頷く。彼の方は一杯だけと言って頼んだ赤ワインを、ゆっくりと口にしている。
そうして、フォークとナイフの音が、言葉少なな二人の間に響いた。
その音が、何かあやしいまじないにでもなっていたのだろうか。今日はアルコールを入れていないというのに、渡瀬は頭の奥の方から、小さなめまいのような、不思議な感覚が広がっていくのを感じた。
周囲の控えめな喧噪は、どこか遠くにいってしまい、まるで舞台上に二人だけがいる錯覚に襲われる。
視線をあげることができない。今、もし芦原と目が合ってしまったら。
予感ではなく確信だった。彼の目がはっきりとこちらに向けられていて、それはあの再会の夜と同じく、いや、それ以上の何らかの意図を持っているに違いない。
(何で、来てしまったんだろう……)
少しの興味本位を、後悔する瞬間だった。体を重ねるだけのつかの間の関係として、そつなく、そして再び終わらせる。それがあるべき姿だと考えていたはずなのに。
「いつか、謝らないとな、と思ってた」
渡瀬の動揺を待ち伏せていたかのように、芦原が口を開いた。
目を伏せたまま、渡瀬は聞いた。
「……それは、どの件?」
学生時代、ある意味乱暴な別れ方をしてしまった時のことか。
現在、この関係に引きずり込んだことか。
もしくは、その他のことか。
別に意地の悪い聞き方を心掛けたつもりはない。自分たちの関係には一筋縄ではいかない事柄が折り重なりあっていて、単純に彼が何を意味しているのか、明らかではなかったからだ。
「そうきたか……」
芦原の口から出たのは、ため息交じりの言葉だった。
しかし、思い直したように、一呼吸置くと、一言ずつをしっかりかみしめるように言う。
「学生のときのこと、が一番デカい」
まるで、自分自身に言い聞かせているかのようにも見えた。
その時になって、ようやく渡瀬は顔を上げた。そして、思わず息をのんだ。
常に余裕を持ち合わせて、とらえどころがないと感じていた芦原のまとう空気がすっかり薄らいでいた。その代わり、何かを訴えるような、真剣な表情がそこにはあった。
目をそらしてしまいたかった。けれど、その動作はあまりにわざとらしくて、自ら彼の手中に落ちに行っているように思われた。なるべく表情を変えずに堪える。ほんの一瞬が、数分にも、数十分にも及ぶような重さに感じられる。さらに早まる脈拍が、鼓膜を打った。
そして渡瀬は、精いっぱいの苦笑を作った。
「……俺は覚えてないよ」
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面白かったです。
設定も構成も文章も、どストライクに好みでした。
続きが気になります。。
楽しみに待ってます。
ご感想大変ありがとうございます!好みと言って頂きとても嬉しく、励みになりました。また続きが書けた際は、どうぞよろしくお願いします。